父はアレンに優しくなった。理由は考えるまでも無くて、陛下がそう父に言ったからだ。
嬉しいか嬉しくないかと問われれば、もちろん嬉しい。朝の挨拶でほんの少しだけどこっちを見て笑ってくれた時もだが、夕食後部屋を訪ねて来てくれて分からない事があれば教えてくれると言われて、実際質問に答えてくれた時は、目眩がするほど幸せだった。
そして父の偉大な頭の良さをまた知って、そして複雑な気分になった。
気にする必要は無い。父も陛下もこう言ってくれたけど、そんなわけにはいかなかった。どうやれば償えるかを考え続けて、ようやくその答えらしきものに辿りついた。
父の目を治す。失ってしまった視力を元通りに戻す事ができれば、それなりの贖罪になるはずだ。
他でもないあの日、父はどうして視力回復が絶望的なのか事細かに教えてくれた。青の国の医者の言葉も交えて、それは非の打ちどころが無い完璧な解説だった。そしてそれを一言一句残さず頭に叩き込み、その時の資料を穴があくほど見てもそれを打破することはできなかった。
今現在の医療では無理なのだ。
では、未来の技術は? 日々過去は積み上げられて、時間は進んでいる。まだ父も老人じゃないのだから、医療の進歩次第では近い将来治癒見込みが出てくるかもしれない。もちろん、ただ祈って待っているだけでは駄目だ。
父が医療に専念すれば一番事が早いのだが、国の第二権力者が個人的な理由でそんなことをできるわけがないし、何より父は陛下の側を離れたりしない。そしてそんなことでは、アレンの贖罪には成り得ないのだ。
自惚れではなく、アレンも頭がいい。父の書斎から持ち出してきた本の中には医学に関する本もたくさんあって、そのうちいくつかは読破した。政治と経済に至っては、書斎だけではなく王立図書館の書籍に加えて、学習院の論文も読み漁っている。
世界情勢を知るのは面白かった。その最前線である王宮を生家としているからかもしれないが、とにかく大規模な人と物の動きを見ているのが大好きだったのだ。
黄の国の国政に関する資料も可能な限り目を通している。特に政治に関しては、アレンには閲覧が許可されていないものも多かった。計略を練って何度か忍び込んだが、すぐに見つかって大目玉を喰らってしまい、仕方なくそれ以来無理に禁止書類を手に入れようとはしなかった。
話を戻す。
贖罪の方針を固めてから医療に関する書籍を集めに集めて読み始めたのだが、どうにもなかなか頭に入ってこない。各国の輸出金額と輸入金額、そして国家間の貿易摩擦額は覚えようとしなくても勝手に記憶できるというのに。
突然医学に関して猛勉強を始めたアレンを、父は酷く訝しんだ。質問しに行けば答えてくれるのだが、どうにも政治経済の分野に比べると対応が冷めている気がしてならない。
勘の良い父の事だ。アレンがどうしてこの勉強を始めたのか、理解してないわけじゃないだろう。別に報酬が欲しくて始めたわけではない。けれど、ここまでいい顔をされないとは思っていなかった。その理由も分からない。
何度か問いただそうとしたけれど、やっぱり訊けなかった。
日に日に、父の機嫌が悪くなっていっている気がした。アレンが勉強に心血を注げば注ぐほど、父の態度は以前に増して冷たくなっていく気がする。それが気になって、せっかく少し構ってくれるようになったのにまたそれを失う事が恐ろしくて、なかなか医学の勉強に集中できなくなった。
なかなか精神的にもきつかったけれど、一カ月もぶっ通して本の内容を頭に詰め込んで、基本的な知識を得ることに成功した。時を同じくして行われた緑の国との平和条約の調印を耳にして、それをきっかけに医療最先端の緑の国への留学を考えるようになった。
本を読んでも、それ以上の技術は編み出せない。実際に器具に触れて現場に行って、研究を重ねることが必要だ。
父の態度も集中の妨げになっていたし、王宮を離れるのもいい機会だと思ったのだ。親友のジンと離れるのは寂しいけれど、きっと彼なら何年か後でもまた仲良くしてくれるはずだ。
緑の国王都の学習院の資料を集めて、そして父に承認してもらうべく陛下の部屋に向かった。調印が成ったと言うのに、ここ数日やはり機嫌が悪い父と一人で相対する勇気はとてもなかった。
「こんにちは」
「アレン! 遊びに来たのか?」
緊張したまま入って行くと、最近さっぱり会っていなかったジンが嬉しそうに駆け寄って来た。
「ごめん、ちょっと父様と話があるんだ」
「えええええ、お前最近忙し過ぎだ。稽古もサボってるし」
不満を露わにされるが、アレンとしてはそれどころじゃない。
「アレン、レンはここに居るぞ」
陛下が手招きしてくれたのでテーブルに近づくと、やっぱりアレンを不審そうに眺めている。陛下ですら、少々戸惑っているように見えた。
「父様、お話があります」
隻眼が静かに射抜かれた。生唾を飲み込みながらも、アレンが睨むのは生気の宿らぬ左目の方だ。あれに光を取り戻すためなら、どんな辛い事でも受け入れる覚悟はあった。
「聞いてるよ?」
しばらく黙っていると、永久凍土の声で促された。怖気づいたが、ここで引くわけにはいかない。震える身体を叱咤して、人生を変える選択を告げた。
「ぼく、緑の国に留学して医学を学びたい」
「え、なんで」
隣で聞いていたジンが不満を上げるが、すぐに陛下に口を塞がれた。もっともアレンは自分の心臓の音がうるさすぎて、親友の声そのものが聞こえていなかった。
「理由は?」
「父さんの目を治したい」
これ以上の説明は不要だ。償いたい。自分の所為で失わせてしまった、あまりに大きなものを取り戻させたいのだ。
「まあ、予測はついてたけどね。ここ一カ月、ずっと医学書とにらめっこしてるし」
下を向いて、大きく息をつく音が部屋に響いた。やがて持ち上がった父の瞳には、今までと比べ物にならない冷気が漂っていた。
「とんでもない愚か者だとは思ってたけど、まさかここまでとはね。実の息子にここまで失望させられたのは初めてだ」
冗談でもなんでもなく、心臓が止まると思った。いや、いっそ止まってくれたらどれだけ楽だっただろう。
「好きでもないことを勉強しに、わざわざ国外に行くの? せっかく与えられたものの意味を、君はまるで理解していないんだね」
持っていた資料が腕から零れ落ちた。床にばらまかれた紙束の上に水滴が落ちて、染みを作る。
「レン」
陛下が咎めるように父を呼び、父は鼻を鳴らして馬鹿らしそうにテーブルの上の酒を煽った。それ以上とても見ていられなくて聞いていられなくて、アレンは踵を返して駆けだした。
「アレン!」
こう叫んだのはジンなのかそれとも陛下だったのか。
好きでもないことかもしれない。
けれど、己が犯した失態を取り戻したいと願うのは、それ程許されない事なのだろうか?
答えが出ないまま走り続けて、気づけば王宮横の林に来ていた。よくジンと遊んでいた大木に寄り掛かり、すぐに立っているのも億劫になって座り込んだ。
「ごめんなさい、陛下」
せっかくくれた機会なのに、また無駄にしてしまった。せっかく優しくしてくれた父を、また呆れさせてしまった。それも今までの比ではないくらい、絶望的に。
愚か者、か。
そんなことは分かっている。黄の国第二位権力者の息子であるアレンが国外に滞在するのがどれくらい危険か、どれだけの労働力がそれに必要なのか。
それでも心のどこかで、父や陛下ならば許してくれる可能性もあると思っていた。
「だめか。……当たり前か」
どこかほっとしている己に、たまらなく嫌気がさした。
「帰らなきゃ」
またふらふらして探させて、これ以上迷惑をかけるのは控えないといけない。無駄かもしれないけれど、後でしっかりと父にも謝らなければならない。聞いてくれるかはともかく、近づいて叫んでしまえば耳には届くだろう。
そう思って立ち上がったのだが、その瞬間世界が揺れて地面に倒れ伏してしまった。揺れたのは世界じゃなくて、平衡感覚を失ったアレンだと気がつくのに酷く時間がかかり、そして身体を起こそうにも四肢に力が入らない。
勉強のし過ぎで睡眠不足であり、それが食欲不振を招いてここ三日はほとんど食事らしい食事をしていなかった。母にしきりに心配されるから、何とか口に押し込んでも後で吐いてしまった。
十歳児が体調を崩すに、十分過ぎる不摂生だ。
頭だけが妙に冷静に、今の状態の原因を分析していた。ははは、医学の勉強の所為で身体を壊すとは傑作だ。馬鹿過ぎて自分でも呆れる。愚か者と父に罵られるのも当然だ。
「父、様」
次第に視界が暗くなってくる。このまま見つからなければ、助からない可能性もあるな。とまたアレンの頭は熱に侵されながらもそう結論付けた。
恐怖もあった。けれどそれ以上に湧き上がってくるのは、八つ当たりにも近い不満だ。
遅いよ。遅過ぎる。
どうせ何もできないまま死ぬなら、どうしてあんな馬鹿な事をして取り返しのつかない大怪我を、心から大切にしている父に与える前ではないのか。
「ごめんなさい、父様」
何の役にも立たない謝罪。それでもこう言う他、どうしようもなかった。
「アレン!」
完全に意識が落ちる寸前、父に名前を呼ばれた気がしたのは願望が織りなす幻聴だ。まだ就業時間なのだから、何の緊急性も無く逃げ出した馬鹿息子を父が探すわけが無い。
幼い時からそんなアレンを憐れに思って何かと気にかけてくれる優しい陛下か、もしくは親友の方がまだ現実味があるだろう。
ごめんなさい、父様。
もう口が開かなかったから、もう一度だけ頭の中だけで謝った。
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