47.Brioche ~ブリオッシュ~
風向きが変わり、夏の月はもうじき終わろうとするも、黄の国に雨雲の姿は無い。乾いた風が強まる中、リンは黄の軍を引き連れて王都へと戻ってきた。
「緑の国を討つ」と発った時は、期待のこもった大歓声で見送られた女王だったが、その帰還を迎えてくれた者は、緊急事態に召集され女王不在の間王宮を守った諸侯たちと、わずかな召使たちのみであった。
閑散とした広場にまばらに散った人影が、じっと首と視線だけを巡らせてこの国の女王の帰還を見つめていた。
「黄の国は、勝ったわ」
「おめでとうございます」
誰も喜ぶことのない、淡々とした戦勝報告だった。そして事務的なやりとりが交わされたのち、リンは女王の執務室の扉の奥に、大量の事務書類を抱えて消えて行った。
軽く扉を叩く音でリンは目を覚ました。
「……あら、わたくしは、眠っていたのね……」
目の前には諸侯たちから渡された、大量の予算配分の要求書がある。すでに諸侯たちの印は押され、あとはリンのサインを待つだけだ。
ふっとリンはため息を漏らす。
「……女王の地位をあんな形で振りかざしたのに、相変わらず、わたくしはお飾りよね」
リンの目は、執務室から中庭を巡りさまよう。日差しの角度は、今年の記憶の中で一番緩やかだとリンは思った。幼い頃、リンとレンが父王たちと遊んだ庭だ。そして、今、王と女王、そしてホルストとシャグナが眠っている。
「……わたくしの幸せは」
再び扉を叩く音がし、リンは自分が返事をしていなかったことに気がついた。
「はい、どなた? 」
「リン女王様。レンです。……本日のおやつをお持ちしました」
リンの口元に笑みが浮かんだ。
「おやつだなんて……すっかり忘れていたわ。お入りなさいな、レン!」
失礼します、と扉を開けてレンが入ってきた。
「国の王は難しいお仕事ですから、栄養を摂ることは必要でしょう?貴女様がお忘れなんて珍しい」
「あら本当に失礼ねレン。珍しいことをしたら雨が降るかもしれないでしょう? いかなる時もわたくしは国のために働くのです」
すまして返したリンに、レンは安心した。よかった、どうにか元気なようだ、と。
「今日のおやつはブリオッシュですよ」
お茶とブリオッシュを乗せた盆を抱えて、レンは笑った。
それを見て、リンも微笑んだ。
「風も和らいできたようですし、中庭で頂きませんこと?」
リンの提案に、レンはあいまいにうなずいた。中庭は、昔のように平和な思い出の場所ではない。王と王妃、そしてリンが殺したふたりの諸侯が眠る場所である。
「……レン。あなたが嫌なら部屋の中でも構わないわ」
「いいえ、リン様」
おそらく、リンは彼らと語らいたい気分なのだと、レンは察した。
そしてレンは、中庭に小さな卓と椅子を運び出した。お茶とおやつの一式を卓に置き、リンのために椅子を引く。リンは軽い木の椅子に、ドレスを捌いてゆったりと腰かけた。
「この国のブリオッシュもひさしぶりね、レン」
「はい、女王様」
リンの唇が開き、切り分けられたブリオッシュのひとかけらを優雅に咀嚼し、飲み下す。
「レン」
「はい、女王様」
リンの目がまっすぐにレンを見た。
「……まずいわ」
レンの目が驚きに見開かれる。このブリオッシュは、乾燥の続く状況の中で、城の料理人が貴重な小麦と砂糖をかき集め、何とか新鮮な卵を入手して苦心して作ったものだ。
たとえまずいことが事実であっても、リンは一言目にそんなことを言うほど、心無い人間ではなかったはずだ。
目を丸くしているレンの前で、リンの口が笑みに変わった。その眼がくっと細められ、ついにくすくすと声を漏らす。
「まずい。おいしくないわ。本当に、もう……笑っちゃうくらい。レンも食べてごらんなさいな」
リンの、やや日に焼けた白い指がブリオッシュをちぎり、目と口を丸く見開いていたレンの口にブリオッシュのかけらをぽんと放り込んだ。
「リン様……むぐっ!」
女王にいったい何をされたのか、理解するのにレンは数秒かかった。数秒かかったのち、レンはリンに対して「女王」としてふるまおうか「きょうだい」としてふるまおうかさらに戸惑う。ものすごく僭越なことをされた気もする。とても懐かしいいたずらをされた気もする。
かしずこうか怒るべきか迷っているレンを見てリンはついに声を立てて笑った。
「あははは……。ええ。ええ、わかっているわよ。本当に、今日のブリオッシュも最高だわ。本当に、よくこんな気候の厳しい状況の中、春に食べたものと同じものを準備できたこと……! 」
リンは大いに笑い、その頬を涙が伝った。
「リン様……」
「ありがとう。レン。あなたとみんなが、わたくしを迎えてくれたのね」
さっと頭上から光が射し、リンの髪を黄金に照らした。人々を苦しめている陽の光が、この時のレンには美しく見えた。
「……そうですよ! リン様! まずいなんていっちゃあ、罰があたります!」
レンは思い切ってリンの皿に手を伸ばした。
「いらないなら、僕がすべていただきましょう」
「あら女王への献上品に何をするの!」
レンの手をぺしりと払い、リンの手が残ったブリオッシュをすべて手に取った。
「これはわたくしのものです。……だから、レンにも半分あげるわ」
リンの手が、残ったブリオッシュを二つに裂き、片方をレンに差し出した。
「レンも、しっかり食べなさい」
リンの言葉にうなずき、レンは受け取って食べ始める。
無言になったレンに、お茶を一口すすって、リンが言葉をつないできた。
「……たしかに、今日のブリオッシュは最高よ。小麦はこの国で知る限り最高の味だし、卵も新鮮だわ。牛乳も生クリームもしっかり練りこんである。本当に素晴らしいわ。
それでもね。……青の国で、そして緑の国で。いろんなお菓子を食べたあなたは、どう思った?」
ブリオッシュを噛むレンの口が、束の間止まった。リンは静かに続けた。
「青の国のお菓子は、特産の果物の甘さをふんだんに生かしていた。緑の国のお菓子は、工夫された竈で上手に焼かれ、砂糖や小麦が少なくてもふんわりと美味しくつくられていた。そして黄の国の最高のおやつが、このブリオッシュ。
……それが、この黄の国の現実よ。おやつを食べれば、この国が分かる。わたくしの舌に、今の国の状態が、感覚として叩きこまれる」
リンの視線の先に、そのことを教えた王と王妃の墓があった。小麦の産地であるバニヤを支えたホルストの、そして災害に苦しんだ末に人間として悪の判断を下したシャグナの墓があった。
「わたくしの夢はね、」
レンが黙ってうなずいた。
「おいしいおやつを、黄の国の皆が食べること。女王だから、平民だからではない、すべての人が、おいしいおやつを食べる機会を作ること」
遠くから教会の鐘が響いてきた。
「黄の民の、たくさんの舌でこの国を味わい、そしていつか青にも緑にも負けない、最高のブリオッシュを作れたらいい。それが、黄の国の幸せに、きっとつながると思う」
リンが、あでやかに笑った。そして、手の中に残された最後のひとかけらを飲み込んだ。
「終わらせましょう」
唐突にリンが、手をはたいて振り向いた。
「リン様」
見たこともない表情で、リンが微笑んでいた。
「ただひとりの王では、もはやこの国は担えない。数少ない人間に『おやつ』を食べてもらう時代は、もうおしまい。そう思わない?」
レンの胸に、リンのその透明な笑顔が焼きついた。
「わたくしの幸せは、黄の国と共に。そして黄の民とともにある。
……その黄の民にはね、レン。あなたのことも、入っているのよ」
レンの頭の中が真っ白になった。
「リン…様?僕は……僕は、僕の幸せは、あの、貴女の」
リンが椅子を立ち、ドレスの裾がふわりと中庭を横切っていく。
リンはそのまま王たち四人の墓の前に立ち、そしてひざまずいた。
「レン。……緑の国で……辛い思いをさせて、悪かったわね……」
呆然とするレンの前で、リンはレンに背を向け、静かに墓の前で祈りを捧げ続けた。
「でも、大丈夫。あなたを女王の仕事に巻き込んでしまうこと……もうすぐ、ちゃんと、終わらせるから。このあたしが、責任もって」
この瞬間、レンはリンがずっと女王として振る舞っていたことに気がついた。
背を向けて祈り続けるリン。高くなる空に吹き抜けていく風。
冷たい水の中で死んだミク。彼女を守ろうとして蹴り飛ばしたハク。殺された諸侯に去ったメイコ。そして、戦争でたくさんの人が死んだこと。
この庭が春に芽吹いたときは、みんな生きていた。笑っていたのに。
頭を垂れるリンの背を見つめながら、思い起こされたさまざまな情景にレンは涙をこらえることが出来なかった。
つづく!
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ご意見・ご感想
sunny_m
ご意見・ご感想
こんにちは、sunny_mです。
みんなの中に、リンも入ってほしい!とか叫びそうになった私です。
リンが行ってきた事が、全部一つの目的のための布石で、それが繋がったような繋がってほしくないような、私の勘違いであってほしい気持ちでいっぱいです。
色々と、勘違いであってほしいと思うのに、憶測めいた妄想が止まらない。
…こういう憶測を立ててしまうのは、妄想家として哀しい性というものかもしれませんが(笑)
でもこの憶測は、やっぱり悲しいから当たってほしくない~。
そんなわけで、リンも皆の中に入って一緒におやつを食べていいんだよ。と叫びたい今この瞬間です。
なんだか変なコメントですみません!今後も楽しみにしています!!
2011/01/23 15:05:06
wanita
>sunny_mさま
いやあ……「リンも皆の中に入って一緒におやつを食べてもいいんだよ」の優しいコメントに思わず涙したwanitaです。
うう。今のリンちゃんが聞いたら、きっと泣きそうです。
お父さんとお母さんが元気なころは「ふたりみたいな立派な王に」、二人が病気になり、自分だけが王に選ばれた時は「ふたりに心配させないくらい立派な王に」なりたいと頑張ってきている子ですから☆
支えてくれているレンのことも「血を分けたきょうだいだ」と言ってくれていることを嬉しくうなずきつつも「あたしが王なんだからしっかりしなきゃ」と思っています。
だからもう、心のリンちゃんがsunny_mさんのコメントに泣いて喜びました♪
でも、リンがそんな責任感から解放されるのは(レンのせいで)相当後になりそうです。
そして……これはおそらくですが、リンが「黄の国の幸せは私の幸せ」と思っていることは一貫していますが、どんなものが「黄の国の幸せ」なのかは、彼女の中で変わっていると思います。
王女のころは「あたしが導いて幸せにする」と思って頑張っていましたが、議会と飾りの王で豊かに暮らしている青の国や、候補者が勝ち抜いて王になる緑の国の巧みさを見て、女王として即位してからは、「時代にあった良い制度を立てるのが今の王になった自分の役目」に変わっていったのでしょう。
それがこの結果です。憶測も妄想も大歓迎です!これからも、女王リンを愛していきますので、どうぞお楽しみに!
2011/01/28 00:03:35