着想・歌詞引用元/ひらさき様『秋煙』
陽の傾きかけた夕方の街を、草薙瑠香(くさなぎ るか)は靴音高く歩く。カツカツと鳴る固い音がアスファルトを叩き、石造りの街の闇に吸い込まれてゆく。
ふいに首筋をなぜた涼しい風に、瑠香は思わず身をすくめた。風が、まるで細い糸が巻き付くように、するりと喉元を締め上げる。
現在午後四時。
巷の人々は本日の最後の仕事の追い込みに入る時刻だ。古びたビルに囲まれた事務所街の裏通りは、重みのある静けさが支配している。
道を歩く瑠香の横を、轟音を立てて宅配便の集配車が通り過ぎた。翳りゆく日の中でだんだんと明度を落としていく建物に反し、煌々と蛍光灯のともる事務所の明かりが奇妙な存在感を主張している。秋も深まり街路樹は色づき、美しく静かな空気が見渡す世界を満たしているのだが、日に日に早まる日没の気配は、やがて襲い来る厳しい季節を否応なく肌に刻みつける。
にぎやかに浮き立った夏の日々が、まるで嘘か夢のようであった。
終業にはまだ早い時刻に外を歩く者は少ない。そのような時間に瑠香が歩いている理由はというと、悲しくも簡単なものである。 夏でひとつ、契約の仕事を終え、次の居場所を探して人間社会を旅しているのだ。直接的にも比喩的にも、旅人にとって秋冬の季節はつらいものである。
居場所を探して自分を演じ歩き、今日も一つの面接という名のステージを終えたその帰り道である。暗い色のスーツをひるがえして歩く体の、腹にヒールの音が響く。
瑠香は少女の頃、こうして背筋を伸ばしコンクリートの街に靴音を反響させて歩く女性に憧れたものだ。しかし今はその実態を知っている。
自分を演出するために履いたヒールの靴は、きゅうくつに足を締め付け、呼吸を支える胸筋ですら消耗させる。カツカツという高い音も、有能な女の象徴などではなかった。実は、音が鳴るヒールというものは、底がすり減り手入れをされていない証拠である。その靴の持ち主の程度が知れるというもので、身なりに気を配る余裕が無いほど心が貧しいか、メンテナンスをする余裕が無いほどに懐(ふところ)が貧しいかのどちらかだ。どちらにせよ、私は余裕の無い女です、と街中に宣伝して歩いているようなものである。
瑠香の場合はというと、「両方かな」、と彼女は自身を嘲る。
「まったくね。その通りだもの」
フ、瑠香の口許に笑みが浮かぶ。自分で自分を嗤うことに慣れた、冷たく悲しく空疎な笑みだ。頭上でくくった髪をバサリと秋風の中に引き下ろす。風に躍らせれて纏わりつく髪に暑さを感じなくなったことを自覚し、瑠香は胃の腑がヒヤリと縮むのを感じた。暑い夏は終わり、季節は巡ったのだ。時間は過ぎ去っていくのは、今の瑠香にとっては、恐い。
瑠香は女性、二十八歳。そろそろ転職がきつくなる年齢である。「女も働く時代」と謳われてから久しいが、その実は少ない椅子を多くの人間が奪い合う、生存競争激化の時代であると瑠香は実感している。ポストを巡って共食いを繰り広げる戦いの中で、勝利した者には使い倒される未来が、負けた者には「敗者」のレッテルを貼られ、飢え、余裕を失い、戦力を削がれるという悪循環が待っている。
この日本において、野に出ては獣を狩り、海に出ては吹き寄せる恵みを拾った自給自足の時代はとうに過ぎ去った。現代社会に生きる人間は、他の人間を餌にして生きる。人を相手に収入を得て、人の相手に対価を渡す。この循環をひとたび外れると、再び戻る事は容易ではない。流転する人の流れの中で転べばあっという間に溺れ、沈み、死に至る。過去にうっかり転んでしまった瑠香がそんな社会に殺されるのも、時間の問題のように思えた。
ふと、瑠香の鼻腔を強く甘い香りが掠めた。
「金木犀だ」
香りは、人の脳に強く記憶される。
「ついこの間、沈丁花の香りを嗅いだばかりだと思ったのに」
あの時の瑠香には、仕事と収入とプライドがあった。心は忙しさで文字通り亡くしていたが、それでも自分の力で生きているという自信があった。
立ち止まると、甘い香りがさらに強まる。ふと足元を見やるとアスファルトの道路にオレンジ色の小花が散っていた。視線をめぐらせると、建物に囲まれた駐車場の影にその樹は在った。濃い緑を茂らせる樹冠は、秋の日暮れの景色の中ではうっそりと闇に沈む。
その闇の中の金木犀の下に、ぼんやりとオレンジ色の灯が燈っていた。瑠香が目をこらすと、その灯の前には小棹がある。小棹には白い布がかぶせられ、竹を切ったような円筒形の容れ物に、串のような短い棒が入っている。そしてその奇妙なその小さなテーブルの後ろに、海老茶色のベールを被った老人が座っていた。
じっとその老人を見つめてしまったことに気づき、瑠香が視線を逸らしかけたその時、
「ようこそ、お嬢さん」
老人から声をかけられた。意外なほどに、澄んだ声だった。瑠香は思わず一歩後ろに後ずさる。何が、ようこそ、なのか。
訝し気に首を傾げた瑠香に、老人はそっと卓の上に手を持ち上げ、つと自身の横を指差した。
占。
いつ現れたのか、いつの間にか金木犀の木の下に、オレンジ色の蛇腹のぼんぼりが下がっており、墨の字で黒々と「占」の字が書かれていた。その灯に、どこから飛んできたのか蛾が引き寄せられてパタパタと舞っている。影が妖しく揺らめき、灯が揺れ動く。
* *
占の老人は白い小棹の布の下から小さな木の椅子を取り出した。お座りよ、と自分の向かいにしつらえる。瑠香は、明かりに引き寄せられるかのように、促されるままにその椅子に座った。
「ん……ぐらぐらする」
瑠香の座る椅子の脚は三本であり、体重をずらすとアスファルトと土の間でカタカタと揺れる。居心地悪そうに座る瑠香の前、秋の時間の片隅で、老人の手がシャリシャリと筮竹(ぜいちく)を鳴らす。
瑠香は、じっと、筮竹を揉み鳴らす老人の手を見つめていた。その瑠香の前で、老人はその竹を再び竹筒に仕舞った。そして、口を開いた。
「どれ、あんたの手を見せてごらん」
瑠香は少し驚く。
「筮竹は? 使わないの?」
そう尋ねると、目深に被ったフードの奥で老人の口の端がふっと引き上げられた。
「あれは看板のようなものだよ、お嬢さん。人間のお客さんを引き寄せるためのね。
虫はほれ、灯の光に吸い寄せられる。ヒトは……この時期はこの香りに寄せられるようだ」
老人がふっと振り仰いだ先に、金木犀の花があった。老人が筮竹を入れた竹筒を手に取り、中身を少し引き抜いて瑠香に見せる。容れ物の底に、オレンジ色の小花が溜まっていた。
再び卓上に戻した竹の容れ物に、時折小花がはらはらと降りそそぐ。そういうこと、と老人は話を収め、瑠香は少し眉をよせて曖昧に頷く。
「手、って、どちらの?」
瑠香が話を戻して尋ねると、「両方さ」と老人は答えた。
「人生を視るには両の手が必要だ。まず、右の手を視ようか。右は、持ち主の現実を示す手」
老人が瑠香の手を取り、広げて細かく検分してゆく。小指を広げ、親指に触れ、しばらくじっと視線を止めたのち、
「さあ、次は左だ」
と告げた。
「左は持ち主の理想を示す手」
瑠香が左の掌を出すと、老人はそれもまた細かく検分してゆく。やがて、ほうと息をついた。
「あんたは」
老人が瑠香に向き直り、一時の間を取ったのち、声色を和らげた。
「あんたは、幸せになれる」
ぐ、と瑠香は歯をかみしめた。喉の奥に熱いものが詰まった時のように、歯を食いしばる。
「そんな、」
それ以上の言葉を、瑠香は発することが出来なかった。占いとはいえ、この言葉は不意打ちだ。幸せになれると言われて、瑠香が嬉しく思わないはずがない。
しかし、幸せを告げられたからこそ、将来それが外れた時の悲しみと諦めが、心の裏にいっそう強く寄り添う。強すぎる光を当てた時、一層濃い影が出来てしまうように。
俯く瑠香に、老人はその手を取ったまま続けた。
「見てごらん。あんたの右手には、ここに、十字がある。あんたは、現実において努力を実らせている」
瑠香の肩がふるっと震えた。その様子に気づいてか、老人はさらに続ける。
「そして、左だ。あんたの手には、左にも、強い十字線がある。そして、ここに熊手の模様もある。あんたは、未来においても運を引き寄せるよ」
「嘘だ」
食いしばった瑠香の唇から、溜まりにたまった言葉が漏れた。
「嘘よ。そんな、こんな現実が、実った努力の結果であるはずがない。 ……あるものか」
瑠香の手に一瞬力がこもり、老人の手を握り返した。
「ありがとう。素敵な言葉を」
瑠香は下を向いたまま微笑んだ。老人の手を見つめて笑う。この人は未来を占う占い師ではなく、お客を喜ばせ楽しませて商売をするパフォーマーなのだと。
俯いたまま手を放しかけた瑠香の頭上に、老人の言葉が降ってきた。
「あんたは」
老人は続けた。
「あんたは、今の占を嘘だと思っている。私の口から出た虚構だと」
瑠香は立ち上がろうとしたのを止め、じっと動きを止めたまま、老人の言葉に肯いた。
「そうね」
ふ、と瑠香の熱い息が卓上に落とされる。
「ウソだと思いたいに決まっているじゃない。今の酷い状況が努力の実った結果だなんて。それよりは、まだわたしの努力は実っていないと言われた方が、ましだわ」
「信じられないかい」
瑠香は再び強く肯いた。と、老人がニヤ、と笑う。
「信じなくてもいい。疑ってもいい。私をなじっても、インチキだと嘲ってもいい。納得しないならお代も要らないさ。ただ」
唐突に切られた言葉に瑠香が思わず顔を上げると、老人の目と視線がぶつかった。小さな光る両の目が刻まれた濃いしわの奥から瑠香を見つめており、瑠香は思わず息を飲む。
「……ただ、私と出会ったのは現実だ。私が、あんたに幸せを告げたのも現実だ。それだけ、覚えてお帰り。
この事実はすでに過去となり、過ぎ去った時間に閉じ込められて消えやしない。
過去は、変わらない。だからこそ、不確定な未来などより、よほど強く深くあんたを支えるだろう」
あんたの、行く先を。
老人が腰を上げ、筮竹をいれた竹筒に手を伸ばす。そのうちの一本を手に取り、それを瑠香に握らせた。乾いた木葉のような老人の手の感触とともに、瑠香の手に一本の串が残された。
「これ、」
瑠香は気づいた。この筮竹は、金木犀の香りを放つ、お香だ。
瑠香は財布の中から千円札を一枚取り出し、老人に手渡した。老人はしわだらけの手で札を受け取り、そして小棹の向こうに、瑠香が初めに見つけた時のように収まった。
* *
金木犀の木の下を出、オレンジ色の灯に背を向けて瑠香は裏路地を抜けていく。カツカツとヒールの音を響かせて。手には金木犀の香りの香、そして少しだけ軽くなった財布があった。
いつの間にか午後五時を回り、街には人が戻ってきていた。本日の業を成し終えた人々で溢れる、街がにわかに賑わう時間帯。瑠香の響くヒールの音はもう、ビルの街には反響せず、人々の声と往来の音にかき消される。
金木犀の香りも人が行き交う空気に流されて薄れ、秋の星明りは人の作り出す灯に霞んで見えない。
瑠香の隣を黒いスーツの就活生がすれ違う。働き疲れた壮年の者と並び、別れる。その姿は瑠香の過去であり、また未来の姿でもある。人々の群れの中で、人は人を求め動き巡り、人の流れに揉まれながらその姿形を変えてゆく。
雑踏を進むにつれて「幸せになれる」と告げた老人の声は、瑠香の耳奥で遠くなっていく。新しい時が呼吸とともに体に取り込まれ、古い時を体の外に押し出していく。薄れゆく過去を感じながら、瑠香はその流れを推力(エンジン)として、前に進んでいく。
「あ、これ」
ふと右手に、細い香を握りしめていることに気が付いた。周囲を見渡し、あるものを見つけて近づいた。煌々と白く輝く、コンビニの看板である。瑠香は小走りで道路を横断し、つかつかと店先に歩み寄った。
「えい」
瑠香は、コンビニの敷地の隅に置かれた灰皿に、手にしていた香を押し込んだ。ぱきりと折れる音がし、ふわりと灰皿から金木犀の香りが立ち上る。そのアンバランスな感覚に、瑠香は思わず笑ってしまった。
「ま、いいでしょう」
瑠香はポケットから煙草を取り出して火を点ける。金木犀の甘い香りの代わりに、ほろ苦い煙の匂いが鼻腔を包み、瑠香の脳裏を束の間の静けさで満たした。
夕暮れの色をして瞬いた口先の火が、瑠香の手元をほのかに照らす。
くゆらせた煙が曇天の色をして、鮮やかな秋の空に昇ってゆく。タバコの火の進むさまを見つめながら、瑠香は自身の人生に思いを馳せた。
「わたしも、こんな風に、静かに終わることが出来たら」
煙草のように軽い自分の人生が、いつか、煙になるその日まで。
ぽとり、と灰が闇に落ちた。同時に瑠香の視線の先で、真っ赤に色づいた秋の陽が、コンクリートの地平に落ちた。
瑠香は再び歩き出した。住宅街にさしかかり、人通りが途切れると、再び靴音が響きだしたが、不思議と、もう悲しくは感じることはなかった。
「そうだな。他人にとってはわたしの人生など軽いのだろうだけど、きっと皆そうだもの、悪くない」
広いようで狭い人の世の中で、若者が年配者を老害となじり、年配者が若者を莫迦にして嗤う。勝った者が嘲り、負けた者が嘯き、口先で己が利を引き寄せ、他人を弄びながら、ぶつかり壊れ壊され、新しいこの世の形が出来る。
そんなえげつなく余裕の無い社会で生きるのも、刺激的で悪くない。いずれ皆煙となって、この空気に戻るのだ。その過程がどうあろうと、ただ自分の足で歩くのみ。
ゆらゆらと揺れる灯筋のように。その軌跡をくゆらせながら。
歩く瑠香の靴音は、すべて過去へ飛んでいく。瑠香自身を支えると告げられた過去へ。そして盤石な「時の基盤」に塗り込められ、今後の瑠香を支える土台となる。
ふっと再び、瑠香の鼻先を金木犀の香りがよぎった。
「どこの庭先だろうね」
幸せになれると、老人の声が記憶の暗がりからよみがえる。フンと瑠香は息を吐き、バサリとなびかせた髪を過去に向かって振り払いながら、彼女は家路を戻っていった。
了
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