×××
メイコは。メイコは僕の精神安定剤みたいなものだ。もちろん物扱いをしているつもりはない。そんなことをしたら熱い一発を腹にお見舞いされる。顔にしないのは、仕事を気遣ってのことだ。その優しさが逆に痛い。
ただ、デビューしても売れなくて家で腐っているときに、何も言わずにそばにいてくれたのがメイコだった。仕事がない僕に、家事を教えて、料理を教えて、家の全般を管理するという仕事をくれた。誰にも必要されてないと感じていた僕を全面的に頼ってくれた。報酬はメイコの手作りアイスで、とても美味しいものだった。僕が仕事をもらうようになって外に出ることが多くなっても、家にいる間は無意識にメイコと過ごす時間を取っていた。二人で過ごす時間は、心地よくて、暖かくて、春の雨のように穏やかで。メイコと会える時間があるのは当たり前のことだと思っていた。その有難味が全然分かってなかった。だから、僕が少しずつ忙しくなってきて、メイコと会える時間がだんだん減ってきて、自分の心がだんだん荒んでいっても原因は、さっぱり思い当らなかった。メイコに会えない日が多くなるほど、腐って世の中のなにもかもが嫌いだった自分に戻っていくのが感じられた。でもどうしようもなかった。止めようにも止め方がわからなかった。
でも、ある日メイコと久しぶりに顔を合わせて言葉を交わしたときに分かったんだ。あんまり時間はなくて十分くらいの立ち話だったけど、僕はすごい泣きそうになっていた。心の底にあった固く、ここ数日イライラの原因となっていたものが、するりと溶けていく。そして僕がどんなにメイコを大切に思っているか分かったんだ。
僕はメイコが好きだ。メイコに会えないことを考えられないほど、僕の生活の中にはメイコが生きていてそれはもう僕の一部と言っていいような、不可欠な存在なんだ。
最初に目に飛び込んできたのは、真っ暗な天井だった。片手を持ち上げようとしてやめる。体の節々が痛い。ため息をついて顔を動かした。心臓が飛び跳ねた。
いつも触れたいと思っている艶のある赤い髪がそこにあった。爪楊枝が乗りそうなほど長くて嵩のある睫。すっと通った鼻筋。本人は気にしているが、見る者には力強さを感じさせる少し釣り目のその赤い瞳は、今は瞼で覆われて見えない。
夢にまで会いたい愛しい人がいた。ベッドに寄りかかって、腕を枕にするようにしてゆっくり寝息をたてている。ぼんやりしていた頭が一瞬で覚醒する。
目が渇きを訴えて痛みが我慢ならないほどになってから。震える右手をおもむろに動かして、メイコの髪にそっと触れた。安らかな眠りを妨げないように優しく。そこにいることを確かめるように。
触れる感覚を確認してから、一度だけゆっくりと瞬きをした。
メイコは変わらずそこにいた。どうも夢ではないらしい。
いつの間にか詰めていた息をゆっくり吐きだす。安堵のそれは、さわりと赤い髪を揺らした。
暗闇に慣れてきた目で枕元の時計を見ると、もうみんな眠りに入っている時間だった。ふと喉の渇きを覚えてベッドわきに置いてあるコップを取る。もうぬるくなっていておいしくなかった。
もう一度メイコを見る。心配してくれていたからか、すこし眉がよっている。いつまでも眺めていられる自信はあるが、ともかくキッチンに行くことにした。冷たい物を飲みたい。眠っている愛しい人を刺激しないようにと、慎重に体を動かしてベッドから降りた。ふらりと眩暈がして世界が回ったが、足をふんばじってこらえる。床に座ったまま寝ているメイコをみて、相変わらず可愛い、美人、僕の天使! そうだ! メイコこそこの世に降りてきた天使なのだ、いや今の状況はナイチンゲールか? 古風のナース姿だとけしからんもっとやれというか今風のミニスカナースでも大変素敵ですおいしいですご馳走様でした、まぁメイコは何着ても可愛いがな! しかし今は寒そうだ、ということを二秒で考えてから、自分の布団を引きはがしてメイコにかけた。ああ、布団になりたい。
……熱に浮かされた頭はロクに動かない。
冷蔵庫を開けると、いつもはないスポーツドリンクが入っていて、あ、メイコが買ってくれたんだな、と思う。熱を持った喉に通る冷たさが気持ちよかった。
冷蔵庫にはいろいろなプリントやメモが貼ってあって、雑多な感じがする。
ミクのコンサートのチケット。メイコが今度の日曜に作ると言っていた、新しい料理のレシピ。季節柄かチョコレートのレシピもちらほら見える。それからリンとレンの学校のプリント。リンの今年にやりたいことリストと、レンのメイコ宛てのメモなんかもある。
ふと視線をずらすと、一日予定ボードが目に入る。一番上のメイコの部分はきっちり埋まっていて、メイコの最後のほうには、「もし起きれなかったらミク起こして!」と加えてあった。明日――いや、この時間だともう“今日”だ――も会えることはなさそうだ。苦笑してコップを揺らす。昨日から内容的にはそう変わってない自分の段を一度綺麗に消して、今日の予定を書き込んだ。
そして部屋に戻るとメイコは居なかった。
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