「どうしよう……」
体温計が示した値に、あたしは途方に暮れた。
レンが倒れるのなんて、少し前まではよくあることだった。自分が芸能界に入ったきっかけも、レンの代役だった。
別に珍しいことじゃない。
ここ二年くらい調子が良かったから油断していただけ。雨に降られたんだから、こうなって当然だ。
あたしが止めなきゃいけなかった。放っておけばレンは無理するって分かっていたはずなのに。
「とりあえず風邪薬……」
勝手にカイト兄の部屋に入って、薬箱を持ち出す。なんでこんな日に限って誰もいないんだろう。
いくつかある風邪薬の中から、子どもが飲めるものを手にとって、表示を見る。食後だった。
台所に行って、冷蔵庫を開ける。昨日の残りが少しあったけれど、どれも病人に食べさせるようなものじゃない。
「こんなとき、どうしてたんだっけ……」
一緒に暮らし始めてから何年も経っている。
ここ最近調子が良かったとはいっても、レンがこうなったのは初めてじゃない。
それなのに、あたしはこういうときにどうすればいいのか、何も知らない。
いつも、誰かがやってくれていた。カイト兄がいて、メイコ姉がいて、ミク姉がいて、ルカ姉がいて。
いつだって一番近くにいるつもりだったのに、いざというときあたしはレンのそばにいられなかった。代役で撮影に行かなければいけなくて、帰ってきてもやることなんてなくて。
「うー……」
なんだか泣きたくなってきたけれど、そんなことをしている時間はない。自分の部屋に戻って携帯を取り出し、電話帳を睨みつけた。
親。……は、相談しにくい。勝手に芸能界に入ったところまでは許してくれたけれど、グループでの生活には最後まで反対していた。
半ば家出のように飛び出してきて数年、今では以前と同じように会話できるくらい、関係は修復出来ている。
でも、親はすべての元凶――親からすればそうなってしまうのだろう――になったレンのことを快く思っていない。
と、なると。
あたしは、久々に実姉の電話番号を入力した。この時間なら、いつもは電話に出てくれる。
でも、今日に限って、何故か実姉は電話の電源を切っていた。
「使えない奴!」
携帯をベッドに投げ捨てて、隣の部屋へレンの様子を見に行く。やばい、熱がさっきより上がってる。
レンの親も、グループでの生活には反対していた。今でも、たまにこの家に押し掛けてきて、カイト兄ともめている。
急に、レンの親の気持ちが少しだけ分かった気がした。
台所に戻ったものの、おかゆの作り方も分からず、ただ冷蔵庫を開けたり閉めたり。
結局、また携帯電話に手を伸ばす。
「カイト兄とミク姉は……まだ撮影中か。となると……」
手が止まる。でも、迷っている場合ではない。
『リン? どうしたの?』
受話器越しに聞こえた声に安心してしまって、あたしは泣きそうになる。
「ルカ姉ぇー……」
『え? なに?』
戸惑った様子のルカ姉に、なんとか事情を説明する。
高速道路で移動中らしく、雑音混じりではあったけれど、ルカ姉は的確なアドバイスをくれた。
言われた通りに、なんとか食べ物らしきものを完成させて、二階へ運ぶ。途中で何度かお盆を落としそうになったけれど、なんとか無事に辿りついた。
「どう? 食べられる?」
レンを叩き起こして、支えながら座らせた。
「……お前、なんか焦げ臭い」
「悪かったわね」
文句を言いながらも、一応レンは手を伸ばした。
「……お前がつくったの?」
「そうよ」
「お前にしちゃまともな方じゃねぇ?」
よくしゃべる病人だ。でも、レンのそんな様子に、あたしは少しだけ安心した。
「まずいけど」
「悪かったわねっ!」
ゆっくり、ゆっくりとレンはスプーンを口に運んでいく。
「お前、俺の好みの味くらい知っとけよ」
「知ったところで再現できないよ」
「だろうな」
「……そこは否定してよ」
レンを見ながら、好みの味かぁ、とあたしは考える。
そういえば、レンの好きな食べ物すら、あたしは知らない。昔は知っていたけれど、今は違う。
でも、あたしの好みの味を、レンはよく知っている。レンが料理担当のとき、いつもレンはあたしの味覚に合わせてくれる。
別に、女の子は料理上手じゃなきゃいけない、なんてあたしは思わない。
でも、好きな子のために料理をつくれたら、それはとても楽しいことだと思う。
誕生日ケーキとか、バレンタインデーのチョコレートとか、作って渡して喜んでもらって。一度くらいは、あたしだってそんな経験をしてみたい。レンが好きなチョコレートは、あたしが好きなものよりも、多分苦い。
まずいと文句を言いながらも、レンはなんとか全部食べて、薬を飲んだ。
レンを寝かせ、食器を片づけようと立ち上がると、突然服の裾を掴まれた。
「なに?」
「……玄関、鍵かけたか? ガスの元栓も確認しとけよ。焦がした鍋は洗わなくていいから水につけとけ」
「うるさいなぁ……病人は自分の心配だけしてなよ」
「心配してどうなるんだよ」
レンは、呆れたように言って、掴んでいた裾を離した。それが、ほんの少し、寂しかった。
「おやすみ、リン」
-----
「なんか臭い……」
帰ってくるなり、ミク姉はそう言って眉を顰めた。
ミク姉がまとっている控えめで上品な香水には、その値段ほどの防御力はなかったようだ。
「リンちゃん、焦がすのは仕方ないけど、窓くらいあけようよー」
ガス漏れてないよね、と失礼なことまで言いながら、ミク姉は換気扇のスイッチをオンにして、台所の出窓に手を伸ばす。
でも、わずかに届かない。
位置が高いわけではないのだが、調理台の奥にあるから、ミク姉の身長では開けられないのだ。
少し遅れて家に入ってきたカイト兄が、ひょいとその窓を開け、それが気に食わなかったらしいミク姉と口論になる。
……なんか、平和だ。
あたしはソファに寝転がって、そんなことを思う。
このままの日常が嫌だと思った。変わってほしいと思った。それは、世間の見る目や自分の立ち位置に対する不満というよりも、たった一人との関係に対する疑問だった。
でもあたしはどこかで、どうせなら世界すら変わってしまえばいいと、そう思っていたのかもしれない。
ふと、視界の端に携帯電話が入った。あたしはそれに手を伸ばし、なんとなくルカ姉に電話をした。
『ちゃんとつくれた?』
うん、ルカ姉も普通だ。全部全部、昨日までと同じだ。そして、それはすごく幸せなことなのかもしれない。
「うん。ミク姉たちも帰ってきたよ」
『声がするから分かるわ。喧嘩するほど仲が良いっていうけど……うるさいわね』
その奥から、酔っているらしいメイコ姉の声もした。確かにうるさい。
あたしとルカ姉は、くすくすと小さく笑った。
「……ねぇ、ルカ姉」
『なに?』
あたしは、なんとなく、携帯電話を握り直した。
「ありがと。色々と」
映画のことは、やっぱり悔しい。認めたくなんてないし、見たくもない。
でも、やっぱりあたしは、ルカ姉が好きだ。皆と一緒にいる、このままの日常が。
――でも。
それでもあたしは、ずっとこのまま、なんて嫌なんだ。
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