UVーWARS
第三部「紫苑ヨワ編」
第一章「ヨワ、アイドルになる決意をする」
その4「重音テトとの出会い」
わたしたちはそこを通り過ぎようとしていた。
ネルちゃんがわたしの脇を突っついて小声で話しかけてきた。
「ねえ、今の人、ひょっとしたら、『重音テト』じゃない?」
「かさね? だれ?」
ネルちゃんは肩すくめた。
「あなたが芸能音痴なのを忘れてたわ」
そう言って少し歩く早さを遅くした。
視線は先程のサングラスの女性を追っていた。
「ボーカロイドは知ってるよね」
「うん、さっき、駅前に映ってた、初音ミクとか」
「もう何年も、ヒットチャートを、ボーカロイドが独占してるの」
「その重音テトも、ボーカロイドなの?」
「違う、違う。彼女はUTAUだよ」
「唄う?」
「UTAU事務所のアイドルということ」
「ほお」
「彼女はボーカロイドが独占していたヒットチャートに初めて風穴を開けたの。完璧超人の、歌う機械人間の、ボーカロイドよりも親しみが湧くからだって」
こんな時のネルちゃんは尊敬してしまう。わたしの知らないことを滔々と話すから。
「あー、もうっ!」
大きな声にまたもや驚かされた。
さっきの赤い髪の人の声だった。
それに反応したのは、髪の長い男の人だった。男なのにポニーテールって、ちょっと変。潔くお相撲さんみたいにちょん髷にすればいいのに。
「どうした?」
「サラとソラが来ない」
「なんだって?」
「あの方向音痴の姉弟、乗る電車を間違えたんだとさ」
「えー、バックはどうする? 無しでやるのか?」
「今、考えてる」
その時はその細かいやり取りは聞こえなかったが、後で男の人の方が教えてくれた。
だから、その赤い髪の女の人と目が合ったとき、少し嫌な予感がした。その人はにやりと笑ったのだ。
「ネル、行こう」
わたしはネルちゃんを促して公園の出口に向かおうとした。
しかし、ネルちゃんは動かなかった。
ネルちゃんの視点はその女の人に固定されていた。
もっと離れていたと思ったが、女の人はわずか数歩でわたしたちの前に立った。
「ねえ、君たち」
その態度は控えめに言っても、「横柄」な大人のものだった。
わたしは態度に出ないように努めたが、ネルちゃんの表情は挑戦的になっていた。
女の人はそれに気付いて柔らかい笑顔を浮かべた。
「ごめんね。何か気に触った?」
「え」
「いえ」
その人はサングラスを外した。
「やっぱり」
ネルちゃんは少し驚いたように目を開いた。
わたしはさっきの会話を思い出した。
「ひょっとしなくても、重音テトさん?」
女の人は軽く頷いた。
わたしは少し感動した。
〔わあ、生で芸能人を見るのって初めてだわ〕
「あなたたち」
何かの決め台詞のような物言いだった。
「時給二千円でアルバイトしない?」
一言で言って「偉そう」な態度だった。もう少し優しく言わないと、思春期真っ只中の女子中学生でなくても、余計な反感を買っちゃうよ、と忠告してあげたかった。
「行こう」
ネルちゃんがわたしの腕を引っ張った。忠告する間はなかった。
「君たちは芸能界とか『アイドル』には興味はないの?」
ネルちゃんはぷいっと横を向いた。
「わたしたちの学校は、アルバイト禁止ですから」
テトさんは余裕の笑顔で言い放った。
「世の中の規則は破るためにある」
その言葉はネルちゃんの心の火に油を注ぐことになった。
「わたしたちは校則を守る立場なので。失礼します」
ネルちゃんはわたしの手を引っ張って歩き出した。
「え?」
その人は一瞬ポカンとした表情で固まった。
「行くよ、ヨワ」
「うん」
その人ははっとなって追いかけてきた。
わたしたちの前に立つと、その人は深々と頭を下げた。
「ごめんなさい。困ってます。助けて下さい」
これには意表を突かれた。わたしもネルちゃんも足を止めた。
「顔、上げて下さい」
少し気の毒な気がして、わたしは不用意な言葉をかけてしまった。
顔を上げた人の顔はニッコリと笑顔を向けてきた。
「僕、じゃなかった、私は、重音テト。あなたは?」
「紫苑ヨワです。初めまして」
「こちらこそ。あなたは?」
「亞北ネル、です」
納得していないのか、ネルちゃんは横を向いていた。
「何かお困りなんですか?」
「実は、バックダンサーから来れないって、連絡がたった今入ってね、今からじゃあ代役の手配も間に合わないので…」
「それで、わたしたち、ですか?」
「安易よね」
「ネル、重音さん、困ってるみたいだから」
「だからって、その辺を歩いてる中学生に声をかける?」
「え? 君たち、中学生なのか? てっきり、高校生かと」
「わたしたち底野中学三年生です」
「ちなみに、彼女は生徒会長、わたしは副会長」
「そ、そう。会長に副会長。あ、そう。なるほど」
重音さんは少し考えると一人で納得し頷いた。
「なんて言えばいいのか、君たち、大人びているというか、存在感があるよね」
きっと褒められたのだろう。素直に喜ぶことにした。
ネルちゃんは少しイライラしているようだった。ちょっと短気なところがネルちゃんの欠点だ。
「で、素人のわたしたちに、バックダンサーをやれ、と」
重音さんは首を振った。
「命令じゃあないよ。お願いしてるの、この通り」
重音さんは再び頭を下げた。
「う~ん」
ネルちゃんは考え込んだ。
「どうする、ヨワ?」
わたしの答えは決まっていた。
「困っている人がいたら助ける。今月の標語よ」
やっぱりという表情で、溜め息を吐いたネルちゃんは頷いた。
「しゃーない。付き合うよ」
「という訳ですので、お手伝いします。但し、ボランティアで」
重音さんは頭を上げた。
「じゃあ、着替えてもらおうかな」
重音さんの表情は良く言っても、仕掛けた罠に動物がかかっているのを見て喜ぶ猟師のそれだった。
わたしはほんの少し不安になった。
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