少年はアヤと言った。生まれは遠い国で、物心ついた時から旅をして生きてきたのだと言う。旅の資金が底をついたのでこの国で働いていたのだが、心ないものによって襲われたのだと言う。
「何度も危ない目にあってはいたけれど。今回は本当にやばいとおもったよ。腹が減って疲れ切っていたところで襲われたから、やり返す体力も逃げる気力もなくてさ。血はとまんないし金は全部盗られるし。本当に世の中、酷い奴がいるもんだ。で、逃げてきた先がこの塔だったってわけだ。どうせ死ぬならば噂の獣を見てやろうって。思ったんだけど。あんた、全然獣らしくないんだもん。本当にびっくりしたよ。」
まるで面白い話でもするようにぺらぺらと、少年は自分が怪我をした経緯を喋った。書斎のソファの上を陣取って喋り続ける少年に、それでお前は何をしに来たんだ。と不機嫌さを丸出しで獣は言った。
あれから少年は数日間、気を失ったままだった。
少年は、がりがりに痩せていて、腹は傷を負い血を流していて、古いやけどの跡がその体中のあちこちに残っていた。
獣は、気を失ったままの少年の腹の傷を治療し、汚れきった体を清め、魔法をかけて栄養を与え、古びてはいるが温かな毛布でくるんだ。
そしてほどなくして目を覚ました少年を追い出した。
「雨はもうとっくに上がっている。」
そう言って獣は少年を追い出した。
だが、しかし。少年は再びこの塔にやってきた。
獣は、少年が潜り込んできた穴をふさいだ。が、少年は新たに壁をぶち壊して穴を作った。獣は、少年が壁に穴を開けないように煉瓦に強化の魔法を施した。が、少年は塔の外壁をよじ登って最上階までやって来て、書斎のガラス窓をぶち割ってきた。
粉々のガラスの上をじゃりじゃりと踏みしめて、少年は遊びに来たぞ。などと満面の笑みで言う。
誰も遊びに来いと言っていない。
少年がこの塔にやってくるようになってから、深く刻み込まれた眉間のしわを更に深くしながら獣は、少年を助けた事を深く深く後悔した。
「それで、本当にお前、何をしに来たんだ。」
少年がぶち割ったガラスやひしゃげてしまった窓枠を片づけて、新たな窓を魔法で構築しながら獣がそう冷たく言うと、少年はおしゃべりを止めて、何をしに来たんだっけ。と首を傾げた。
「なんだっけ。」
「大した用事もないのにお前は塔を破壊したのか。そうか、私の邪魔をしたいのか。怪我を手当てした者に対して大した恩返しだ。」
そう嫌みたっぷりに獣が言うと、そうかもしれない。と少年はけたけたと笑った。
「嘘。本当は礼を言いにきたのと、あと、あんたにお願いをしにきたんだ。」
「願い?」
いぶかしげに獣が問うと、そう。と少年は大きくうなずいた。
「なあ、あんた。おれに文字を教えてくれよ。」
少年の無邪気な言葉に、獣は馬鹿にするようにふんと鼻を鳴らした。
「身の程をわきまえろ。おまえは知識を得る事の出来る選民ではないだろう。そもそもこの国のものでもないじゃないか。」
そうすげなく言い放ち、獣は綺麗に作りかえられた窓に手をかけた。
滑らかに開閉することを確認して、ばたん。と窓をいっぱいに開け放つ。ざあ。と遮るもののない高い塔の中に爽やかな風が吹き込み、獣の無造作に伸ばしっぱなしの髪を撫でた。深い森の向こう、少し離れた場所から街が広がりさらに遠くにこの国の城が小さな粒となって見えた。
「さあ出ていけ。ここまでよじ登って来たのだから、ここから降りていくのだろう?」
「あんたが文字を教えてくれるって言ったら、ここを降りていく気力が生まれるんだけどな。」
そう減らず口を叩いて少年は、文字を教えてよ。ともう一度言った。
「自分の身の程なんか、自分でよく分かっているよ。おれみたいなのが何かを学びたいなんて、言っていいわけがないんだ。」
だけど知りたいんだ。と少年は微かに目を伏せて、言った。
「おれの名前。アヤ。これはおれの生まれた国で「文字」っていう意味の言葉なんだ。だから、折角自分の名前なんだから知りたい。文字と言うものを。」
「それだけの理由で?」
そんな単純な理由に思わず驚いた声を上げた獣に、少年、アヤは大きくうなずいた。
「駄目か?それだけじゃ?」
どこか心もとなげに、アヤはそう言って微かに首を傾げた。
知りたい。ただそれだけの事が、始まりだった。
けれど貧富の差身分の差。そんなものが知りたいと言う単純な欲求を阻んだから。そんなくだらないものが、学ぶ事を阻むから。ならば、そのくだらないもの全て手に入れてみようと、努力した。くだらないもの全て手に入れてみた。そして全てを手に入れて、そして手に入れたものはやはり、くだらなく愚かで醜くて。
手放した。
そもそもまずは、ただ知りたい。と言う事が始まりだった。
「どうしたんだ?ぼんやりして。」
すぐそばで掛けられた言葉に、はたと我に返った獣がふと視線を落とすと、アヤが心配そうにこちらを見上げていた。真っ直ぐな、温かい陽だまりの様な光を帯びた眼差しが獣を心配そうに見つめていた。
その温かな小さな手が、獣の冷たい手に触れてきた。
「やっぱり冷たい。」
そう言い、悲しげにアヤの眼差しが揺らいだ。ためらうことなく伸ばされて触れてくる、アヤの手。その手は暖かく、けれど獣には温かすぎた。
文字を知れば、伝える事が出来る残す事が出来る、知る事が出来る。綺麗も汚いも、美しいも醜いも。この温かなひかりも、知れば、濁って冷たく凍りつくだろう。
この手が冷たくなる事を望んでいるのか望んでいないのか。分からない。分からない、けれど、考えたくなかった。考えてしまったら、思考の奥底に隠したものを浮かび上がらせてしまうから。
するりとその手を振り払い、獣は冷たいままの温度を保ち、アヤを見下ろした。
「ではおまえは私に何を与える?」
そう冷たく問い掛けてきた獣に、アヤは首を傾げた。
「資格も何もないおまえが文字を知りたい。というのならばそれに見合ったものを私に与えなくてはいけない。等価交換だ。」
「とうか、こうかん?」
聞きなれない言葉なのだろう。更にいぶかしげに首をひねったアヤに、パンが欲しければ代金を支払う。それと同じ事だ。と獣は言った。
「じゃあ分かった。金を払うよ。それならどうだ。」
「おまえが持ってくる金額などたかが知れているだろう。」
「じゃあ、この塔の中の掃除とか、あんたの身の回りの世話とか。」
「今まで一人でやってきた事をわざわざおまえに頼む必要ない。」
そうアヤの言葉を蹴り落として、獣はわざとらしくため息をついた。
「おまえが私に与えるものなど何もないだろう。自分が持っているもの以上のものを求めるなど、愚かな事だ。自分の身の丈に合った場所で生きていけ。」
分かったら出ていけ。と獣はゆっくりと言い含めるようにアヤに言った。
獣の言葉に、アヤは悔しそうに顔を顰めていた。が、ふと何かをひらめいたように目を見開いて口を開き、しかし、すぐに何も言葉を発することなく口を閉じた。
「何か、言いたい事でもあるのか?」
「、、、別に。何でもないよ。」
あさっての方向を向きながらアヤはそう言った。何かをごまかしているのだろう。が、獣はもう面倒だった。関わりたくなかった。
あたたかなものに触れたくなかったし、あたたかさを感じたくなかった。
「さっさと出ていけ。」
そう冷たく言い放ち、獣は窓を開けた。
塔の最上階にある、窓。塔の壁をよじ登ってアヤはやってきた。積み上げられた煉瓦には、ぼこぼこと手がかりになる突起があるから登れない事は無い。けれどこの高さから足を滑らせて落ちたら、死んでしまうだろう。
だから、どうした。
アヤが死んでしまっても、自分には関係ない。
窓の傍で苛立った表情で立っている獣を、アヤは少しだけ考えるようにじっと見つめ、そして、に、と明るい太陽のような笑顔を向けてきた。
あかるくてあたたかい、それは生きている者がもつひかり。
「又来るよ。」
まるで悪戯でも思いついた子供のように、楽しげに笑ってアヤはそう言った。
「来るな。」
渋面を濃くして獣はそう言い返したが、それでもアヤは、来るよ。と言う。
「だっておれが来なかったら、あんた、ずっと寂しいままだろう?」
何故だか嬉しそうにアヤはそう言って、ひらりと窓枠を超えて窓の外にほんの少しだけ飛び出た露台に降り立った。
「じゃあ、またね。」
そう言って手を振って、アヤはするすると身軽に塔の外壁を降りていく。
その姿がちゃんと地面に降り立ったのを見届けて、獣は、もう来なくていい。と顔を顰めた。
―アヤは、それから毎日この塔にやってきました。昼間は街で過ごし、夜はこの塔に戻ってくる。そんなことをしていました。街とこの塔の間には深い森がある。この森を抜ける事を考えたら、こんな塔にわざわざ毎晩やってくる事などないのです。
それでもアヤは毎晩やってきた。毎晩やって来て塔の壁をよじ登り、最上階にある窓をこんこんと叩きました。私は、その音が聞こえるたびに顔を顰めて窓の鍵を開けました。また、このガラス窓をぶち破られてはかなわない。とブツブツと言いながら、こんこん。と聞こえるたびに鍵を開けました。
鍵は開けるくせに、私自身が窓を開く事はしなかった。そもそも階下にあるこの塔の扉を開く事をしなかった。それは、私の幼いプライドでした。
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