第二章 01
男が王宮の宮廷楽師として召し抱えられてから、早四ヶ月が経過しようとしていた。
時刻は夕方、太陽が傾き、地平線へと近づく頃。
朝夕の一日二回、王宮の広間で行われている祭事に男は出席していた。
祭事と言っても毎日やるものである事からか、そこまで格式張ったものでは無かった。
祭事用の紅の衣をまとった焔姫が、一日が無事に始まり無事に終わった事に対して感謝を告げる祝詞を唱え、祈りを捧げるという短いものだ。国王を筆頭に王宮内の者と軍の上層部が出席する事になっているが、国内外の各問題に対応している者は欠席が認められていた。
男の宮廷楽師としての主たる仕事は、この祭事の間の演奏を行う事だった。男の演奏と焔姫の唱える祝詞が美しく調和を保っている事が何より重要なのだが、男には何度やっても慣れる事が無く、毎回かなりの緊張感を与えていた。
祭事の時の焔姫は、普段の傲岸不遜な態度が鳴りを潜め、優雅でおしとやかな雰囲気だった。広間を行く歩き方一つをとっても、玉座の向こうの祭壇前で座るその所作をとっても、研ぎ澄まされた気品を感じる。
男は、そんな焔姫の雰囲気を損なわぬよう、抱えた弦楽器を丁寧に爪弾く。弦を弾くその動作だけでも、少し緊張をゆるめてしまっただけで響きが台無しになってしまう。
それは以前なら、無意識のうちに出来ていた事だった。が、焔姫がそこにいるだけで、失敗が許されないのだという無言の圧力を感じる。
演奏で緊張するというのは、男には初めての経験だった。
これまで街の通りで演奏した事しか無い男には、失敗とは自らの稼ぎが減る事を意味していた。それはつまり、自分自身にしか迷惑がかからないという事だ。だが、宮廷楽師として演奏する上でのミスは、焔姫を初めとするこの国全体に迷惑がかかってしまう。それは、男にとって今までに経験した事のない、えも言われぬ不安を与えた。
この国で暮らし始めて四ヶ月。男はようやくこの国の現状を理解出来るようになっていた。
この都市国家は、西方の大国と東方の大国を陸路で結ぶ交易路の要所に位置していた。都市の周囲は草木の生えない荒れ果てた大地だ。背後には遥か高みの山頂に真っ白な雪をたたえる山脈が連なり、正面は岩肌ばかりの荒れた平野が広がっている。
家畜を育てるにも作物を育てるにも向かない土地にあるこの国で生きるには、生活のほとんどを交易に頼らなければならない。にも関わらずこの都市が存在し続けられているのは、地下水脈による水源が存在するためだった。王宮の地下には天然の洞窟があり、山脈からの雪解け水が流れているのだ。
都市の周囲、実に馬で半月ほどの範囲には他に水源が無い。西方と東方を行き来する行商人達は、海路を使うか遠回りになる別ルートを使わない限り、この都市を経由せざるを得ないのだ。
そして、西方の大国と東方の大国それぞれからある程度離れているという、絶妙とも言える地理が味方していた。付近に水源が無い地域で唯一の安定した水源というものは、交易路の要と言える。つまり、他者から見れば喉から手が出るほどに欲しい価値がそこには存在しているのだ。だが、西方と東方のそれぞれの大国から離れており、両者から直接攻撃を受けるような事はなかった。もちろん、それぞれの息がかかった周囲の属国より様々な圧力がかかる事はある。だが、国王の政治手腕と焔姫が将軍として率いる軍の強さが、都市国家を存続させていた。
この都市国家は水源を守り、交易に依存する形で繁栄しているのだ。
「今日、この日をまた平穏に過ごせたもうた感謝を、王に代わりて紅蓮の巫女が捧ぐ。どうか、明日も今日と同じ平穏が訪れる事を願わん……」
焔姫は祝詞を唱え、脇に置かれた松明へと、自らが手にした葉のついた小枝をかざす。
炎は簡単に葉に燃え移り、その揺らめく光は焔姫の姿を幻想的に照らし出した。
あれから四ヶ月経っても、男は焔姫の曲を作る事が全く出来ていなかった。そのきっかけすら掴めず、半ば途方に暮れていると言っていい。
焔姫からは、曲の作成について進捗を聞かれた事は一度として無い。もしかすると焔姫は、男に曲を作れと言った事すら忘れているのではないかと思うほどだった。
だが、何も催促が無いという事が逆に男を焦らせていた。
男には、焔姫の期待に応える事が出来るとは到底思えなかった。
試しに旋律を奏でてみたり、歌詞を考えてみる事はある。が、何度試してみてもこれではない、という感覚が拭えなかった。
まだ自分は、この国と焔姫について十分に理解出来ていないのだろう、と男は思う。
朝夕の祭事の他は、求められた時にすぐ参じる事さえ出来れば基本的には自由だった。男はその時間のほとんどをこの国と焔姫を知る事に当てているが、まだまだ男には掴めない事が多い。
男は自然と、焔姫と行動を共にする事が増えていった。今では、一日のほとんどを一緒に過ごしていると言っても過言ではない。
おかげで、まだ掴みきれていないなりに、それでも焔姫について知った事は多くあった。
王宮での暮らしは、男のそれはともかくとして、国王と焔姫のそれも想像以上に慎ましやかなものだった。焔姫の態度は粗雑だったり横暴だったりするが、言っている事や指示している事の多くは理にかなっていて、その発言の多くは「もっと豪華で優雅な暮らしがしたい」という臣下を叱責する傾向にある。
その態度とは裏腹に、焔姫は自由気ままなどではなく民のためを第一に考えているようだ。
男は幾度か、宮廷楽師という立場を隠して街中を周ってみた事がある。
実際の所、焔姫が街中を歩く機会はほとんど無い。焔姫にとって、街とは王宮から見下ろす景色としてしか存在しておらず、焔姫が民と触れ合う機会など一切存在しないと言っても過言では無かった。
だというのに、街中での民の焔姫に対する評価はまさに“英雄”だった。
焔姫には、逸話が多い。
焔姫の「夫に迎えるなら自分より強くなければ認めん」と公言する事について。
戦で負け無しの強さについて。
王宮で臣下を文字通り“ぶっとばした”話について。
年二回だけ、民の前で行われる特別な祭事の際の美しさについて。
街の人々は、それがまるで自分の事であるかのように、嬉々として、我先にと自慢げに話したがった。
本人の預かり知らぬ所で、焔姫は民に愛されているのだ。
焔姫のこの国での役割は、祭事の巫女として、そして軍における将軍としてだった。まだ国王が健在な為か、焔姫は政治には参加していない。男が一度尋ねてみたところ、焔姫は「余はまつりごとは向かん。誰しも得手不得手があるものじゃよ」と苦手である事を認めていた。その後「なれも歌は得意でも戦いは苦手であろ?」と男にとって痛い所を突いてきたのは、言うまでもない。
男は、焔姫が夫として認めてくれるような「強い男」では無かった。そんな事は男自身重々承知していたが、だからこそ焔姫に付き従ってばかりの毎日は、焔姫の方が嫌がるのではないだろうか、と当初男は危惧していた。しかし、なぜか焔姫は今まで一度も男を遠ざけようとはしなかった。男自身不思議ではあったが、どうやら焔姫に気に入られているらしい。
男が一緒にいるようになって気づいた事だが、王宮には焔姫の話し相手というのはほとんどいない。その苛烈さが他の者達を遠ざけているのだろうか、と男は考えずにいられなかった。
そのせいで皆はあまり知らないようだが、焔姫は意外にも話好きだった。ただ、話し相手がいなかったというだけで。そういう意味では、焔姫はいい話し相手が出来た、くらいに思っているのかもしれない。
焔姫は、一日のほとんどを王宮と王宮に隣接する軍の本部で過ごす。都市国家の将軍でもある焔姫は、少なくとも一日三回は軍に顔を出し、平素通りか、都市の内外で異常が起きていないか確認をする。朝夕の祭事とそれを除くと基本的には自由らしく、王宮内を気ままに散歩したり、軍本部で剣術の鍛錬をしたりしていた。
男は焔姫が戦った所はまだ見た事が無い。せいぜい訓練の時の模擬試合くらいだ。だが、それを見ただけでも焔姫が強いという事は、素人目にもはっきりと分かった。
体格のがっしりした男の兵士と比べてしまうと、焔姫はやはり力で劣ってしまう。だが、それを補って余りある俊敏さと、状況判断における頭の回転の速さは誰よりも優れていた。
相手の力強い剣を受け流し、バランスを崩させる。力ではかなわずとも、その文字通り目にも止まらぬスピードで繰り出される斬撃を受けきれる者は、軍の中には誰一人としていなかった。もしかすると、隣国の将軍をも打ち負かしたというのは、誇張でもなんでもない単なる事実なのかもしれなかった。
朝の祭事を済ませ、軍本部で打ち合わせ。空いた時間に散歩をしたり鍛錬をしたり。夕にまた祭事をして、焔姫の一日は終わる。
その日の生活さえギリギリだった男からすれば、焔姫は実に充実した毎日を送っているように見えた。だが、当の焔姫自身はそんな日々にどこか物足りなさを感じているようだった。
それは何なのだろう、と考えてみるものの、男に分かるはずもなかった。
そんな事を思い出している間に、焔姫の捧げる葉のついた小枝は燃え尽きており、祭事は終わりを告げていた。
男は演奏をやめる。他の人々が広間から出ていき、焔姫もまた立ち上がって出ていこうとする。
突如、鐘の音が響く。
王宮からではない。街の外縁の物見塔の鐘だ。
男が見ると、焔姫は険しい顔で広間のバルコニーから見える物見塔を見つめていた。広間から立ち去りかけていた人々も、立ち止まって不安そうな顔をしている。
「伝令ーっ!」
一人の兵士が広間に駆け込んでくる。もちろん、状況を将軍に伝えるためだ。
「述べよ」
「はっ」
兵士は、いつもと違う祭事用の衣装を着た焔姫に、やや戸惑ったようだった。
「先ほど、物見塔の者が我が国へと進軍する軍隊を確認いたしました。その数、およそ二から三千」
兵士の報告に聞き耳を立てていた周囲の者がざわめく。この国の軍は最大で二千五百ほど。単純に比較すれば、その軍隊は自分達の戦力と匹敵している。
「ほう。近頃は隣国との関係も良好だったはずじゃがのう」
焔姫はちらりと、広間から出て行きそびれていた国王を見る。国王もそのはずだ、という風にうなずく。
「まだどこの軍かは確認できておりません。ですが、隊列と編成を見る限りでは隣国ではない、というのがナジーム殿の見解です」
ナジーム、というのは軍の焔姫に次ぐ地位の男の名だ。祭事等で焔姫が動けない時には、ナジームが軍を統括する事もある。彼も手練ではあるが、それでも焔姫には一度として勝てた事は無いのだという。
「ふむ。なぜじゃ?」
「あれは長距離の進軍の編成だ、と」
焔姫はやや考えたが、すぐに決断する。
「正門前に軍の半数を集めよ。残りの半数も門の内側でいつでも出られるようにするのじゃ。恐らく、すでに同じような指示をやつが出しておるのだろうがの」
「は。ナジーム殿も同じ判断にございます」
「分かった。汝も伝えるべき者全てに伝え終わったら正門へと来い。余はまずは物見塔へと向かう」
「承知しました」
そうして、焔姫は軍服に着替えぬまま、祭事の巫女の衣装のまま広間を後にした。
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sis
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