夢見る機械
【禁止項目】の表示が視界を覆い尽くしていた。当然のことだとアーマは判断する。機械が夢を見ることなど、あってはいけないことなのだから。
自分の白い指先が鍵盤の上を自在に駆け巡る。叩きたい鍵盤を、奏でたいキーで、歌いたいリズムで演奏する。それはつまり、自由なのだとアーマは判断する。音色は心地よく、この音を誰かに聞いてもらいたいと望む。身体全体でリズムを刻み、十の指で鍵盤を叩く。ホールは満員であった。命令とは違う、期待される眼差しが自分を刺し貫いていく。それに応える。確実に、その上を行く演奏を届けて見せる。夢の中でしか味わえない快感がアーマのボディの奥底から湧きあがり、絶頂に誘った。
最高だ。
覚醒。
女医に見下ろされていた。
「おはよう。また夢を見ていたのね」
「おはようございます、西森先生」
西森女医の表情に影が差す。
寝台から身体を起こし、アーマは裸の自分を見下ろした。窓の外では工場の煙突が煙を上げていた。雲は天に貼りつき、深い青空が成層圏を貫いている。のどかな情景である、とアーマは判断する。
「服を持ってくるわ」
西森女医が眼鏡を直しながら椅子を立った。
「構いません。自分で着ます」
「そう」
そんなことばかり気に掛けるのは何故だろう、とアーマは考えてみる。それよりも、もっと大事な問題が目の前に横たわっているではないか。それから目を反らすのは何故だろう。
「僕が眠ってから何日が経ちましたか」
「まるまる三日」
抑揚なく言う。
「ピアノを弾きましょうか」
部屋を出て行こうとしていた西森女医は気付かれない程度に奥歯を噛みしめて少年型アンドロイドにふり返った。
視線と目線が交差する。静寂と沈黙が混ざり合う。
口を開いたのは西森女医だった。
「君が回復したらね」
扉の閉まる音が部屋に響く。取り残されたアンドロイドは、裸身のまま立ち上がってクローゼットを開けた。薄い肌着の上からくすんだカーキ色のシャツを着る。丈の長さとアーマの女性的なフェイスの構造からいえば、それはワンピースを着た少女に見えなくもなかった。
「ピアノを弾きましょうか」
もう一度、言う。
その声を捉えたのは、彼自身の聴覚だけだった。
開け放たれた窓からさわやかな五月の風が流れ込んでくる。常に清潔に保たれている彼女の医務室に換気の必要はなかったが、そうしていると心のわだかまりをすべて洗い流してもらえる気がした。
コーヒーを入れようとデスクを立った時、医務室の扉がノックされた。患者の誰かと想像しながら開けると、そこに立っていたのは第二病棟勤務の飯沢だった。
「やあ」
「あなた……何しに来たの」
調子の良い声をかけてくる男に、うんざりした声で乃木は応えた。
「親睦を深めようと、ね。あの少年だと思ったかい」
不潔。それが彼女にとって飯沢への第一印象であり、通念であった。頭髪も髭も既定の長さを超えている。白衣だって三日に一回洗濯しているかどうか怪しいものだ。背ばかり高いせいで威圧感があるのも不快だった。出無精なのも学生時代から変わらない。
「あれは音楽鑑賞用の機械よ。少年なんて呼び方、いささかアンドロイド依存に過ぎるんじゃなくて?」
「そうだな。コーヒー、俺にも淹れてくれよ」
皮肉も通じない。乃木は諦めて彼を部屋に通した。彼のために買いだめていた消臭剤と消毒剤もそろそろ無くなってきたな、と内心で溜息をついた。
「今朝の新聞見たかい」
「なに」
コーヒーにシロップを入れながら言う。彼が腰かけているベッドは患者のためのものであり、決して油まみれの汚いジーンズを載せるためのものではないのだと、説明してやりたくなる。
「無愛想だなあ。新聞だよ。まさか読んでないってことはないだろ」
真面目で頑固一徹の乃木ちゃんが、と学生時代なら続けるところだが、あまりにも癪に障るので言わせないことにしていた。
「読んだわよ」カレンダーを見ながらコーヒーに口を付けた。
「先生の論文、通ったのね」
「発表は明日の朝だとさ」
「ええ」
それも新聞に書いてあったことだ。
「ここにいるやつら、これから大変だなあ」
「分かってることをいちいち言わないで」
飯沢の言葉に苛立ちを覚えた。
「私のストレスを蓄積させるためにわざわざやってきたのかしら」
「違うよ。乃木ちゃんに会いたくて来た」
乃木は今度こそ奥歯を噛みしめた。
「それ、飲んだら出て行ってね」
「先輩にその言い方は無いんじゃない?」
「たった一つ上なだけでいばらないで。それも、在学中の話じゃない」
「ここに来たのだって僕のほうが先だ」
それがどうしたのか、と食ってかかろうとして、止める。言い合いになれば飄々と身をかわすタイプの男なのだ、この人は。
「それよりも、聞きたいことが有るのだけれど、いいかしら」
「光栄だね。なんだい?」
カップをデスクに置き、乃木は呼吸を整えた。
「論文についてよ」
数秒の間。飯沢はコーヒーを音を立てて啜り、挑発するような仕草で首を傾けた。
「『機械が夢を見る可能性』かい。メディアに直接売り込むとは、西先生も御出世したね」
今朝がた久しぶりに目にした名前を、まさかこの男の口から聞くことになるとは乃木は思わなかった。西聡。乃木と飯沢が共に師事した大学の教授であった。主に機械工学、中でも研究が極めて難しいとされる分野である「人工知能」の専門家であり、世界的に見ても最高峰の知識と技術を持っていた。実際に彼の研究の成果は多くの機関に影響を及ぼしている。それは機械工学の他の研究分野にも、製造業社にも、果てはロボット愛好家にも、である。彼が他の分野に進んでいれば、機械は機械のまま、あと百年は自発的に動くことさえできなかったという。
「あの変人の話はいいわ」厳しい口調になるのは抑えられなかった。
「それよりも教えて欲しいのは、あの論文がロボット社会に及ぼす影響についてよ」
「そりゃ君、世界中がここ一年で最も注目していることだね。だけどまあ……」
珍しく飯沢は言い淀んだ。二股が発覚した時以来ではないかと乃木は考える。
「君にとって嫌な方向に社会は転がっていく」
「はっきりしないわね」
乃木は飯沢の腰かけるベッドににじり寄った。
「私が求めているのが、そんな答えじゃないことくらい分かっているでしょう」
「言いたくないね」
乃木は飯沢の肩に手をかけた。そのまま押しつぶしてベッドの染みにしてやろうかと思った。
「教えて。西先生は、あの論文で社会にどんな影響を与える気なの」
視線がぶつかりあう。
カーテンを揺らした風が、乃木の髪を揺らす。無精に伸びた前髪に隠れた目が、唐突に細まった。
「残念」
軽い口調でそう言うと、飯沢は乃木の手を払いのけて立ち上がった。
「ちょっと、話はまだ……」
「コーヒー、飲み終わっちゃった」
カップをデスクに置く。コーヒーは一滴ものこっていなかった。
飯沢は扉に手をかけた。
「また、飲みたくなったら来るよ」
男の背中を見送りながら、二度と来るな、と聞こえないように呟いた。
飯沢が今回の論文に一枚噛んでいることに乃木は最初から気付いていた。あの出無精男が何の意味もなく機械病院にいるわけがない。西の助手として大学に残ることも十分できた筈なのに、「学生課に勧められたから」という理由で培った技術を無駄にするわけがない。彼は作る側の人間であって、直す側の人間にはなりえない。
乃木は、飯沢がここで被検査体を集めていたのだと予想した。機械がどのような夢を見るか、それが何を意味するか。すべての情報を一年間西にリークしていたのだろう。それも、明日になればすべて確信に変わる。
ごく最近のことである。世界各地で機械が有る筈の無い知覚情報を持ち始めた。多くは定期健診の際に見つかった。主に、視覚情報。
たとえば、日本ではこんなことがあった。人間の命令を受けて一般車を製造する工業用ロボットが車に乗ってドライブを楽しんでいたという視覚情報が検診の際に見つかった。もちろん、ロボットに車の運転をさせることは許されていない。運転を任せるまで技術がつきつめられていないのが現状だ。だから、そんな視覚情報はあるはずがないのだ。
さらに、北欧にはこんな例もある。児童の教育に使われる教師ロボットが自分の息子に社会学を教えていたというのだ。それも、検診の際に視覚情報として発覚した。機械が、息子を持つ。あり得ない、と誰もが首を振った。
夢を見ているのではないか。誰かがそう言った。人間にだって、過去を思い出す際に稀に夢の中の記憶と混同してしまうことがある。それらのあり得ない視覚情報たちは、休んでいる間に機械が見た夢なのではないかと。
そんな疑惑がメディアを通じて社会に流れたとき、人間は恐怖を覚えた。これはフィクションの世界で語られてきた人間と機械の対立の前兆なのではないか。「機械病院」という名の収容施設が世界中に出来たのは、間もなくしてからだった。世界は、研究者の判断を待つことにした。夢を見るということが、どういうことなのか。
西先生の論文が報道されれば、機械たちは――。
「先生、どうかしましたか」
意識を引っ張られる。乃木は目の前に横たわる少年の顔をしたロボットに目を向けた。栗色の人工毛髪の隙間から覗く目は、ガラス玉のように彼女の表情を映しだしていた。
「いいえ、なんでもないわ」
それがなんであっても、機械に話してどうなることでもなかった。
「それよりも、教えて。どんな夢を見たのか」
機械の見た夢を聞くこと。それが乃木の主な仕事だった。人間の見る夢と、機械の見る夢。それは果たして同じなのか。夢を見るに至るメカニズム、夢の中での制限、夢の内容。半年の間聞き続けて分かったことは、そこに違いなどない、ということだった。
人間が夢で鳥になって大空を飛ぶように、機械もまた魚になって海を泳ぐ。
人間が夢で人を殺すように、機械もまた夢の中で人を殺す。
ただ、違うと思うことが一つだけあった。機械の見る夢は、その機械の仕事に深く関係があった。
「今回も、ピアノを弾く夢です」
アーマは言う。
「誰かに命令された曲ではなく、どこかで聞いたことのある曲を僕は演奏しました。コンサートホールです。満員でした」
「そう」白衣のポケットにこぶしを突っ込んだ。
「前は、お気に入りのCDを聴く夢、だったわね」
「そうだったと記憶しています」
記憶。やけに人間臭い言葉だと、思う。
「分かったわ。ありがとう。今日は部屋に戻っていいし、中庭に出て遊んでもいいわ」
そう言って、乃木はカルテに走らせていたペンをノックした。今回のカルテをファイリングして、この仕事は一段落となるだろう。結局、成果をあげられたのか。彼女にはわからなかった。欲しい情報が今までの彼の夢の中にあったか、どうか。それはこれから検討していくしかなかった。
一通りの定期健診を終え、アーマに服を着せた。起き上った彼は、乃木が思いもしなかった言葉を口にした。
「夢を見ることはいけないことですか」
「え?」
自分の耳を疑う。何故、自分が混乱しているのか、わかった。夢を見ていると、彼らは認識していたのだ。自分たちが見ているのが人間における夢なのだと、彼らは分かって夢を見続けていたのだ。
そんなの、まるで、人間みたいではないか。
「何を言っているの」
「僕が夢の話をする時、先生は決まって悲しそうな顔をします」
悲しいですって?
乃木は、自分の胸の中にある感情が恐怖であると思った。しかし、すぐにそれが憎悪であることに思い至った。
「ふざけないで、あなたたちに何がわかるの」
「怒らせてしまったのであれば申し訳ありません。訂正します。でも、僕はなんとなく、そう思うんです」
「いい加減にしてよ。プログラムされただけの感情が、偉そうな口を叩かないで」
言って、身をすくませた。自分は今、なんと恐ろしい言葉を口にしたことか。
恐る恐る、寝台に腰かけるアーマを見る。
彼は、微笑んでいた。
「気になさらないでください。その通りですから」
そう言う風にプログラミングされているのだと、乃木は自分自身に言い聞かせた。そうしなければ自我を保つことさえ難しかった。
病室に沈黙が下りる。窓の外ではひばりが鳴いていた。枝葉が風に揺れていた。その音の一つ一つが部屋に満ちては、沈黙に塗りつぶされていった。
「夢の中で、僕たちは自由です」
アーマは言う。
「弾きたい曲を弾きます。奏でたい音を奏でます。動きたいようにリズムをとります」
乃木は黙る。
どうして今さらになって、そんな人間らしいことを言うのだ。
「睡蓮の花を愛でることもできます。小鳥に餌をやることもできます。好きな曲を入れたCDを作ることもできます。それを聴きながら、誰かと楽しむこともできます」
すべて今までのカルテの情報に含まれたものだった。
アーマは遠くにレンズのピントを合わせて言う。
「いっそ、このまま夢の中でピアノをずっと弾いていることができればと、思います」
乃木はもう、声も出せないほどに硬直していた。
「……いい加減にしてよ」
近くに手ごろな物があれば迷わず彼にぶつけていただろう。
「どうしてあなたは、そうやって私を苦しめ続けるの。あなたは機械なのよ。ただの、ピアノを、求められた曲を弾くだけの機械なの。そのためだけに作られて、壊されるために作られたの。あなたは機械なのよ」
頭に上った血は、行き場を失って乃木を高ぶらせた。
「どうして、死んでまで、私を苦しめ続けるのよ」
言いきって、乃木は息を荒げた。肩を上下させ、床だけを見つめていた。
アーマは動揺していた。戸惑い、どうするべきか、回路がショートする寸前まで追い込まれていた。
その様子を、扉の隙間から無精髭の男だけが見つめていた。
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