第八章 05 後編
「もう少し、弱音を吐いてもよいか……?」
「ええ。私でよければ……いくらでも」
焔姫を安心させようと、男はほほ笑んで見せる。焔姫は、不安そうにぎゅっと手を握り返してきた。
「これまで、やらなければならぬと思って戦をし、戦いを繰り返してきた。じゃが……余は戦などしたくはなかった。草木の生えぬ荒野でも、この大地は余の故郷じゃ。……ここで静かに暮らしておれば、それだけで十分じゃったのじゃ」
焔姫は、張り裂けてしまいそうな心境を吐露する。男はただ静かに耳を傾けていた。
「それでも、余は将軍としてそれを為さねばならなかった。王族の義務だとか民の為などと言い、本心を隠し……いや、違うな。そうやって自分自身を納得させようとしていただけじゃな」
「……」
焔姫の告白は、男の胸を打った。
いつだったか、焔姫について考えていた事。それが今、正しかったのだとこんな形で知らされるとは、思ってもいなかった。
今こそ、彼女が演じる激烈な「焔姫」が必要な時と言える。しかし、それを求めるような酷な事を、男は口には出来なかった。
「……大層な話ではない。余はただ、父上に認めてもらいたかっただけなのじゃろうな。父上に認めてもらうために民の為に為さねばならぬと。じゃが――」
焔姫は遠い目で壁を見つめる。その壁の向こうにあるのは、王宮にほかならない。
「父上は逝って仕舞われた。余は結局、一度も父上から認めてもらう事は出来なんだ」
焔姫の言葉に、男は戦慄を抱く。
賊に王宮が襲撃されたあの夜、国王は男に告げたのだ。「よくやったと……そう、言ってやればよかったのだろうな」と。
男はその時思った。
焔姫を褒めてほしいと。
だが、それを男は言わなかった。その時の男は死罪を受けた身で、そのような立場をわきまえない真似をするべきではないと思ったからだ。
だが、もう国王は二度と焔姫に「よくやった」と言う事は出来ない。その機会は、永久に失われてしまった。
あの時、男が自らの立場などかえりみずに国王に告げていれば――焔姫も、このように思い悩む事もなかったかもしれないというのに。
「……すまぬな」
焔姫の手を包んでいた両手が、震えていた。
その震えの意味を勘違いしてしまったのだろう。焔姫は自らの弱さをさらけ出してしまった事を謝る。
男はあわてて首を振った。
「謝らねばならないのは……私の方です」
男の声も、震えてしまっていた。
だが、焔姫はそんな男をいたわるようにほほ笑むと、男に包まれていたその手を伸ばし、男のほほへとそえる。
「……よい。泣き言を言ったのは余の方じゃ」
「違うのです!」
「……?」
男の目には涙が浮かんでいた。焔姫はその涙を指でぬぐう。
焔姫の心を救うのに必要なのは、歌だけではなかった。国王からの――実の父親からの温かい言葉を聞かせる機会を設けなければならなかった。その機会を作るチャンスが、男には確かにあったのだ。
だというのに、それを男は無為にしてしまった。
それが、そんな自分が、男は許せなかった。
「あの夜。王宮が賊に襲われた夜に、王の……姫の父君の言葉を聞きました」
「……」
その言葉に、焔姫の手が硬直する。
「……父君は、嘆いておいででした」
「……そうじゃろうな。余は父上の理想を叶えられぬ、半端な将軍でしかなかった。余が生まれて母上が亡くなり、男の跡継ぎは望めなくなった。余の代わりに男児が生まれておれば――」
「――そうではありません。父君は、姫を素直に褒めてやれない自らの振る舞いを、嘆いておいでだったのです」
「……何?」
予想外の言葉に、焔姫は目を見開く。
「父君はおっしゃっていました。この国のため、姫が幼い頃から厳しく接してきたのだと。厳しく接し続けるあまり、姫に甘えさせる事も、褒めてやる事も出来なくなってしまったと」
「……嘘じゃ」
焔姫の声は呆然としていた。
「嘘では、ありません」
「余は、父上の望みを……何も叶えられなかったのじゃ」
焔姫がつぶやく。男の言葉をどうしても信じられないのだ。
「……」
確かに、信じられないだろう。男はしぶしぶそれを認めた。いくら男が言葉を尽くしても、それが国王自身の言葉でない限り、焔姫を信じさせるには足りない。
だが、それはもう不可能だ。国王は宰相に殺されてしまった。
しかし、これは焔姫が信じてくれないからとあきらめていい話ではなかった。
ならば、どうすれば焔姫に納得させられるだろうか?
「確かに……父君は言葉にしなかったかもしれません。ですが……父君がどれほど姫を信頼し、頼りにしていたかは分かると思います」
「……?」
男は、これまでの国王の行動や態度を思い出す。それを……その理由を考えれば、納得させられるはずだ。いや、させなければならない。
そう考えながら、言葉をつむぐ。
「父君が姫を信頼していなければ、姫を将軍にはさせなかったはずです。国の将来を決める大事な戦を、姫に任せはしなかったはずです」
「……そうであれば、よいのじゃがな」
懐疑的な声音で、焔姫は悲しそうに言う。
「それに……先日の夜中の賊の襲撃、覚えておられますよね?」
「あぁ。覚えておる。が……それが?」
それはまだ、たった十数日前の出来事だ。焔姫も当然うなずいてみせる。たが、それが何なのかまでは考えが至らなかったようだった。
「あの時、ハリド公が国王を人質とし脅してきた時、焔姫の『くだらぬ』という返答に、国王は捕まっていたにも関わらず苦笑されていました。なぜそんな事が出来たと思います? 自分の命がかかっている危機的状況です。普通ならそんな余裕あろうはずがありません。ですが、国王は笑っておられた」
「それは……」
言われてみれば、といった様子で焔姫は口ごもる。
男は自らのほほにあった焔姫の手をとり、優しくなでる。
「分かりませんか? あんな状況でも、国王は安心しておいでだったのですよ。王宮には姫がいる。こんな状況など姫が健在ならば簡単にひっくり返してしまえるから、心配する事など何もない、と。事実、姫はそれからすぐに現れ、苦もなく国王を助け出されました」
「……。余にも、あの時の父上がどうして逃げようとしなかったのか……腑に落ちなかったのは事実じゃ。あの部屋には、万一に備え、秘密の脱出口がある。何故それを使わなんだか――」
男はほほ笑む。
「――姫を信頼していたから、という他に何があるというのですか」
「いや、じゃが……」
焔姫の手が震えていた。男は再度、その手を強く握りしめる。
「姫、もっとご自分に自信を持ってよいのですよ。貴女は誰よりも強く、恐れられる存在です。でなければ、サリフ殿とハリド公がここまで必死になって姫を探すはずが無いではありませんか」
「……そうじゃろうか」
「そうなのですよ。姫の事は、この私がずっとそばで見てきました。姫の強さも、姫の深い愛情も、私は知っています」
男の言葉に、焔姫は不意にきょとんとした顔で男を見た。
「……姫?」
特段、変わった事を言ったつもりの無かった男は、そんな姫の顔に目を丸くする。
「愛などと……馬鹿げた事を」
ぼそりとつぶやいて、焔姫は顔をそらす。その顔は、少しだけ朱に染まっていた。
「馬鹿げてなどいません。大真面目です」
「……」
「姫の民への愛は、ちゃんと皆に伝わっておりますよ。だからこそ、皆が姫を愛しているのです」
「……なれも、か?」
おずおずと、気恥ずかしそうに焔姫が問いかけてくる。
「もちろんです」
男の返答に、焔姫は目を見開く。
「私も、この国の民の一員として、姫を愛していますよ」
「……民の一員として、な」
焔姫はがっくりと肩を落として、あきれたようにつぶやく。
「……変な期待をした余がおろかであったわ」
「……? どういう事ですか?」
男にはどういう事なのかさっぱり分からなかったが、焔姫は答える気はないらしく、何でもない、というように首を振る。
「……そうじゃな。……余も、いつまでも泣き言ばかり言うわけにはいかぬな」
「姫。無理をする必要はありません。まだ――」
男はそう進言するが、焔姫の瞳には強い意志の光が帰ってきていた。
「余があきらめたわけではないと、そう言ったのはなれであろう?」
「それはそうですが……」
「弱音を吐いて、少しはスッキリした。父上が余を認めているなどとは、未だ信じられぬ。じゃが……不思議じゃな。なれの言葉なら信じようという気にもなる」
「そうであれば、よいのですが」
何がきっかけだったのかは分からない。だが、焔姫の顔からは、先ほどまでの悲愴は消え去っていた。
「なれの言うとおりじゃ。余は、サリフを許さぬ。あのハリドもじゃ。あの者たちには、余と父上を裏切った償いをさせなければならぬ。そのための努力を惜しむつもりもない。じゃが――」
「……?」
不意に、表情がかげる。
「――なれには……また、弱音を吐いてもよいか?」
不安そうに尋ねてくる焔姫に、男ははっきりとうなずいてみせる。
「ええ。……私でよければ、いつでも聞きますよ」
その答えに、焔姫は安心したように息をついた。
「……ついでじゃ。もう一つ……余の頼みを聞け」
「ええ。それは構いませんが……?」
急に焔姫の声のトーンが変わり、男は首をかしげる。
焔姫は男の手を離し、寝台のシーツを引き寄せて口もとあたりまで顔を隠す。
「二人の時くらいは……名前で呼べ」
「ひ、姫! それは……」
「……不服か?」
少しにらみつけるような視線だったが、その焔姫の琥珀の瞳には不安が見え隠れしているように見えた。
「めっそうもありません。ですが……」
「ですが、何じゃ?」
男は頭をかく。
焔姫の名前を呼ぶなど恐れ多く出来るはずもない、と男は思ったが、それを言えば焔姫は余計に不機嫌になるような、そんな気がした。
「……これは、余からの“お願い”じゃ。どうしても嫌と言うなら無理強いはせぬ」
「……っ!」
卑怯ですよ、という言葉を男はどうにか飲み込んだ。
了承する以外に選択肢がないという事に、男は苦笑いする。
「どうして私が遠慮しているのか、分かっていただきたいところですが……」
その言葉に、焔姫の不安は増したようだった。
「嫌などと、そのような事を言えるはずがないではありませんか」
「……それは、余が恐ろしいからか?」
焔姫の自らを卑下するような発言に、男は顔をしかめる。
「……本当にそんな理由だと思っているのであれば、いくら姫といえど怒りますよ」
「……すまぬ。じゃが――」
おびえるように目を伏せる焔姫の頭へ手を伸ばし、男は優しくなでる。
「――姫は、私にとって何よりも大切なお方です。だからこそ遠慮してしまう部分はもちろんありますが、嫌だなどと思う事はありません。決して」
「カイト……」
そう言うと、焔姫はシーツを引いて顔を見せた。その瞳にたまった涙はまぶたからあふれ、こぼれ落ちる。
「……余の真名は、メイコという。余を産んだ母上からいただいた名じゃ」
その美しい雫に、男はただ優しくほほ笑んだ。
「余の名を、呼んでたもれ」
「……喜んで」
男の言葉に、だが焔姫は少しだけ不満そうな表情を浮かべる。
「先に言うておくが……様を付けるのは無しじゃぞ」
「姫、さすがにそれは……」
先に釘を刺され、男は情けない顔をする。
「無しじゃ。二人の時は……その時くらいは、敬語も使ってくれるな」
焔姫は頬をふくらませ、精一杯の抗議をする。
「……無しじゃからな」
再度念を押す愛らしい姿に、思わず苦笑がもれた。
「……分かった。私がそばにいるから、ゆっくり休んでくれ。……メイコ」
男の勇気をふりしぼった精一杯のささやきに、焔姫は嬉しそうにほほ笑むと、心底安心したように眠りについた。
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