(前編からの続きです)
羽田空港でヤマハ東京支社の社員と合流し、静岡県磐田市の豊岡工場に着いたのは午後四時だった。
剣持がいるのは工場内にあるサウンドテクノロジー開発センターだ。
四階建ての立派な社屋。玄関前にタクシーを横付けする。
若い男性の社員がミク達を出迎えた。
「遠いところからお疲れ様でした。早速ですが、ボーカロイド開発ルームにご案内いたします」
長い廊下を歩き、開発ルームへ向かう。静かな廊下に、早足の足音が反響する。
リンの胸には再び不安が芽生えてきていた。
案内した社員が、開発ルームのドアを開ける。中には誰もいなかった。
開発ルームはレコーディングルームのような間取りになっている。
音響関係のコンソールとハイスペックのコンピュータが並び、大きなガラス窓を隔てた隣にはレコーディング用の防音室がある。
壁や床はライトブラウンの板張りで、落ち着いた雰囲気だ。
「アレ? 剣持主任は…」
若い社員がキョロキョロしていると、後ろから声をかけられた。
「ミク、リン、久し振り」
振り向くと剣持が缶コーヒーを飲みながら立っていた。
ジーンズにTシャツとラフな服装に、茶色に染めた髪。
エンジニアというより、ミュージシャンといった感じの風体だ。
彼の顔を見てミクはホッとした。
ミクは剣持の髪の色が好きだ。
研究者には似つかわしくないとも思える明るい茶色の髪には、音楽業界で最先端テクノロジーをリードして生きていくのだという気概がうかがえるのだ。
はいよ、と言ってミクとリンに紙パックの緑の野菜ジュースを手渡す。
これを買いに行っていたらしい。
連れてきた社員は返し、剣持とミク、リンの三人で打ち合わせ用のテーブルにつく。
「遠いとこから来て疲れてるだろうけど、早速本題に入ろう。ノイズが出たときの状況、もう一度詳しく教えてくれるかな」
できるだけ詳しく話すミク。
リンは隣でおとなしく座っているが、少し不安げな表情だ。
「…うん、状況は分かった。じゃあリン、隣に入ってもらえるかい」
リンはレコーディングルームに目をやった。
大きな窓越しにマイクスタンドが見える。
レコーディングは慣れているのだが、今日はマイクが恐ろしく感じられた。
「剣持さん、あたしも一緒に入っていいですか?」
リンの怯えを感じ取ったミクがそう聞いたが、剣持は控えてくれ、と言った。
一人でマイクの前に立つリン。
青ざめた顔をしているが、ミクにはガラスの向こうで見守ることしかできない。
「リン、何でもいいから喋ってみて。…何でもって言ったらやりにくいか。そこにある『レコーディングルーム使用時の注意』って紙読み上げてみて」
剣持の声がスピーカを通して防音室に流れる。
リンは飛行機の中で喋ったのが最後で、ここまで声を出していない。
唇を噛んでなかなか喋ろうとしないが、剣持とミクは辛抱強く待った。
覚悟を決めたリンが、スッと息を吸って、喋り始めた。
「マイクのジッ…電源をいジッ…れる際は、コンソージッ…ルのボリュージッ…ムが最小に…」
悲しそうな顔で喋るリン。ときおり混じるノイズに胸が痛む。
剣持はモニターに映し出される波形をじっと見つめていた。
彼の頭の中ではリンの声が発音記号に分解され、精緻な分析が行われているのだ。
数行を読み上げたところで、剣持がもういいよと言った。
リンが息をつく。ボーカロイドにとって、ノイズ交じりの声で喋るのはかなりの苦痛である。
「次は歌ってもらうよ。音域が広い曲がいいから。――を歌ってくれるかい」
剣持が曲名を言うと、リンはビクッと肩を震わした。
今朝のレッスンルームでのノイズを思い出したのだろう。
「BGMがあると邪魔だから、悪いけどアカペラで頼むよ」
マイクを前にためらうリン。ちらりとミクを見る。
ミクは頷いて、歌うように促した。
氷の張った湖を歩くように、こわごわとリンが歌いだす。
一小節歌いきらないうちに、例のノイズが耳をつんざく。
リンは自分のノイズに肩をすくめ、歌を止めてしまった。
「リン、辛いのは分かるけど、我慢してくれ。いつもと同じように歌うんだ」
少し強めの語気で剣持は言った。愛情のある厳しさだった。
ひとつ深呼吸をしてから、リンはまた歌った。
喋っている時とは比較にならない音量のノイズが走る。
汗を浮かべ、辛そうに歌うリン。
ミクは胸が締め付けられるようだったが、目を背けずに見守っていた。
剣持はひたすらモニターを睨みつけている。
目まぐるしく動く波形に、ときおり鋭いノイズの腺が現れる――。
リンは一曲を通して歌った。
それだけでひどく疲れた顔をしている。
ミクも見ているだけで参ってしまった。
剣持は相変わらずモニターとにらめっこして、記録した波形を拡大・縮小したり引き伸ばしたりしていた。
欲しい情報が得られたのか、しばらくすると手を止めて、防音室につながっているマイクからリンに声をかけた。
「リン、こっちに来てくれる?」
原因を調べるためとはいえ、耐え難い責め苦から開放されたリンが深い溜息をつく。
ミクが防音室の扉に駆け寄った。
ドアを開けて出てきたリンは、散々自分のノイズを聞かされたためか、憔悴しきっていた。
「リン、大丈夫……」
リンが小さく頷く。ミクは手を引いて剣持のそばへ連れて行った。
テーブルを挟まず、剣持の前に置かれたオフィスチェアに座らせる。
ミクは医師の診察の付き添いのように、リンの後ろに立っている。
「リン、苦しいのによく頑張ったね」
剣持がまずはねぎらいの言葉をかける。
「思い出してほしいんだけど、リンは最近、感電したとか電化製品が漏電してたとか、そういう電気に関わるトラブルが身近でなかった?」
リンは顎に手を当ててしばらく考えたが、横に首を振った。
「剣持さん、雷とかも入ります?」
「雷? いつ?」
ミクの言葉に剣持が食いつく。
「昨夜です。十二時過ぎくらいから近くに雷がいくつも落ちて、リンが、すごくそれを怖がって…」
リンがベッドに潜り込んできたことは言わないでおいた。
「リン、雷が落ちてる時、ヘッドセットつけたまま充電したりしてなかった?」
リンが頷く。ミクはちょっと怒った顔になる。
充電中なのを忘れて歩いたりするとコードを引っ張ってしまうから、そういう行儀の悪いことをするなといつも言っているのだ。
「充電しジッ…たまま、寝ちゃって…そジッ…のうち雷が…」
背後に怒りの気配を感じるのか、リンは後ろを向こうとしない。
「原因はそれだろうね。君たちのヘッドセットは、頭の中のプロセッサーとメモリーにアクセスするためのゲートウェイでもあるから。コンセントから入った過電流がヘッドセットを通じてプログラムにバグを生じさせたんだろう。それなら大体僕の予想通りだ。すぐに直せるよ」
――すぐに直せる――救いの言葉が、二人の耳にこだまする。
ミクがほ~っとものすごく長い息を吐いた。
「よ、良かった~! 剣持さんのこと信じてたけど、なかなか言ってくれないんだもの、そのひとこと。良かったね~、リン」
ミクは身をかがめてリンとおでこを合わせた。
リンもホッとして、久し振りに笑みが浮かんでいる。
「そりゃ確証がもてるまでは言わないさ。さて、リンはアクセスルームに移動、ミクは休憩室で待っててくれるかな」
アクセスルームはボーカロイドの内部コンピュータにアクセスするための部屋だ。
開発ルームの隣にある。
「あたし、ここで待ってます。一人の方がいいから…」
「そう。じゃあ、茶菓子くらいは持ってこさせるから、待っててね。二、三時間で済むと思うよ」
アクセスルームの前で剣持にリンを託し、ミクは開発ルームに引き返した。
女性社員が茶菓子と飲み物を持って来てくれたが、喉を通らないし何も手に付かない。
手術室の前で家族の手術が終わるのを待つ心境だった。
☆
アクセスルームのカプセルの中で、リンは静かに目を覚ました。
圧縮空気の抜ける音がして、カプセルの蓋がゆっくりと開いてく。
アクセス中の眠りはとても深い。
リンは少しボーっとしていたが、横を向くとコンソールを操作する剣持の横顔が目に入り、ヤマハに来ているのだと思い出した。
「あ、起きた? リン。ヘッドセット外して起き上がってごらん」
コードがいっぱいついたアクセス用のヘッドセットを外す。
身体がギクシャクしている感じがするので、そろそろと身を起こす。
「どう、気分は?」
「…何か、お昼寝し過ぎたみないな感じ…アレ? ノイズ…、あ! ノイズない! あたし、喋れてる!!」
ノイズが消えているのに気付いた途端、急に元気になる。
「会話は問題ないみたいだね。次は歌ってごらん、さっきの歌」
開発ルームで歌った歌を、もう一度歌う。
最初はこわごわと小さな声で、ノイズが出ないのを確かめながら、だんだん声を大きくする。
曲の中盤を過ぎた辺りからは、嬉しくなってシーケンスよりも大きな声量で歌った。
一曲を歌いきっても、ノイズはまったく出なかった。
「わーい! 直った! 剣持さん、ありがとー!!」
リンは勝手に別の曲を歌いだした。
腰掛けていたカプセルから飛び降り、手振りを加えて歌う。
しまいに調子に乗って、踊りながら歌いだした。
剣持は楽しそうにそれを見ている。
「よし、大丈夫そうだね。早くミクにも聴かせてあげなきゃ。開発ルームに行こう」
「あ! ちょ、ちょっと待ってください!」
楽しげに歌っていたリンが、隣室に行こうとする剣持を慌てて呼び止めた。
「何?」
「あの、教えてほしいことがあるんです…」
急に真顔になるリン。大事な話らしいと思い、剣持はイスに座りなおした。
「教えてほしいことって?」
「…ひょっとして、ミク姉、以前声にノイズが出たこと、あるんじゃないですか…?」
剣持がちょっと目を細めた。
「どうしてそう思うの?」
「だってミク姉、剣持さんなら直せるって、すっごい自信持ってたし、実際剣持さんあっさりあたしのこと直しちゃうし、静岡に来るのだって、ミク姉やたら手はずが良かったし…」
剣持は頬をポリポリと掻いた。
「うーん、誤魔化しようがないな、こりゃ。リンは勘がいいって聞いてたけど…」
「やっぱり、あるんですね」
「ミクには口止めされてるんだけど、まあ、今回でリンも当事者だし、話すことにするよ。二年前のことだけどね…」
☆
(後編に続きます)
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