季節はゆっくりと、しかし確実に過ぎて行った。
僕とミクが出会って12年。干支が1つ回るくらいの年月が過ぎ、僕達はご近所さんから友達へ、親友へ、恋人へ変わった。
それでも、僕は僕のままいつまで経っても泣き虫だったし、ミクはいつだって僕をしっかり支えてくれるお姉さんだった。
そして変わらなかったことで、変わらなかったことこそが、ミクに最後の決断をさせてしまった原因かもしれない。今更、僕はそんなことを考えている。
【泣き虫カレシ 後】
久しぶりにお互いが丸一日自由になる日があって、僕とミクは映画を見に行った。
新作のラブロマンス。恋愛映画は特に興味はなかったけれど、久しぶりに見る映画はやっぱり面白くて、気が付いたらぼろぼろ泣いていた。でも、感動して流す涙はいい涙じゃないかな、なんて、そんなことを思う。
だってそれは、心が動いている証拠だから。
心を揺さぶられ、泣かずにはいられない程の感動を受け止めることができた証拠だから。
…まぁ、僕に限らず、僕が泣いたシーンではあちこちからすすり泣きが聞こえたので、取り立てて僕が感動屋という訳ではないのだろうけど。ミクもしっかり泣いていて、思わず2人で声を殺して笑ってしまった。
とにかく、僕は感動屋ではない。僕はただの泣き虫だ。
そんなこんなで、お互いに目をはらしながら映画館を出て、そのまま軽くケーキを食べたりなんかして、夕方。
僕達は、いつも通る歩道橋に差しかかっていた。
僕達が住んでいる場所は典型的な住宅街で、繁華街とは国道を一本隔てている。だから、国道にかかっている歩道橋は、僕達がどこに出かけたとしても必ず通るお決まりの場所だった。
僕達の思い出が、必ず通過する場所。それが、この歩道橋だったのだ。
「今日は楽しかったね、ミク」
手を繋いで歩きながら、僕よりも少し背の高いミクの顔を見上げる。ミクはぼんやりと歩道橋の向こうに投げていた視線を慌てて戻して、「そうだね」と笑った。
僕は、その様子に思わず立ち止まる。
最近のミクは、ずっとこんな感じだった。
僕は中学3年生。ミクは高校2年生。いつかも経験したような、進学というタイミング。
自身の高校進学の時は僕に何かと相談してきたミクは、僕が「一緒にいたい」と言った日から、僕の進路について聞いてこなくなった。単純に、僕がミクの高校を受けると言い切ったから聞かないだけかとも思っていたのだけれど、今一つそれとは違う気がする。
代わりにミクは、どこか遠くを見るようになった。
今のように。
黙ってミクを見上げる僕に、彼女は何でもないように首を傾げて見せる。
「どうしたの、レン?」
「…どうしたのは、ミクの方だろ」
「レン…」
「最近ミク、ボーっとしてることが多いよ。電話してても上の空だったり。…何か悩みでもあるの?」
「…そんなことないよ?」
「そんなことあるだろ!明らかにおかしいじゃないか」
思わず語気が荒くなる。ミクは小さく息を飲むと、諦めたように溜息を吐いた。
「…ちょっと、悩んでることがあるの。それはレンの言う通り。でも、これは私1人で考えたい。…駄目?」
「…僕には話せないこと?」
子供っぽい言い方になってしまう。でもミクは、その言葉にこっくりと頷いた。
「レンだけじゃない。誰にも言わない。これは、私が悩むことだから」
そしてミクは笑う。にっこりと。
その笑顔に、僕は、これはミクは絶対に折れないなと悟って、仕方なく肩を落とす。
「…分かったよ。でも、解決したら、話してほしい」
「うん。約束する」
ミクははっきりと頷いて、僕の手を離すと「今日は先に帰るね!またね、レン」と言い置いて走って行く。
階段の下に消える姿を見送りながら、僕は知らず知らず、右手の薬指にはめた指輪を手で触っていた。お揃いの指輪。記念日に2人で買った、安物のシルバーリング。
ミク。
「話してくれるよな…?」
そっと風に流した言葉は、でも、できれば彼女に届かないで欲しいと願った。
無性に、嫌な予感がして仕方なかったから。
それからしばらく、お互いのテスト期間が重なって会えない日が続いた。
梅雨のじめじめした空気と、同じくらいじめじめしたテストを乗り越えて、6月の末。
梅雨の晴れ間の、からっとした気持ちの良い日に、僕とミクはデートをした。
他愛もないことを話して馬鹿笑いし、新しくできたというペットショップを冷やかしに行って、ミクの好きなパスタ屋さんでお昼を食べた。午後はまた映画。僕がずっと見たかった新作のアクションを見て、夕暮れ時。
今日も僕達は、歩道橋を渡っていた。
…何か嫌な予感がしていた。
繋いだ手から伝わる温もりが。
いつもと同じ、本当にいつもと同じようにかわす会話が。
ミクの笑顔が。
歩く速さが。
全てが全て、いつも通りなのに、まるで鏡に映したような違和感を伝えてくる。
気が付けば、歩道橋の真ん中で、2人とも立ち止まっていた。
手を、そっと外す。
沈黙。
やがてミクが、絞り出すように言った。
「…あのね、レン」
「私、あなたと別れたいと思うの」
その言葉は、きっと精一杯の誠実さだったんだと思う。
「私達、別れよう」とか、そんな押しつけがましいセリフではなく。
ただ、自分の気持ちを告げるだけの言葉。
僕は手をぐっと力いっぱい握りしめて、揺れそうになる視界を必死に抑えて、言う。
「…どうして?」
「…私とあなたは、一緒にいない方がいいと思うから」
どうして、と僕は問いを繰り返す。
ミクはそっと目を伏せて、胸元に自分の手を引き寄せた。その右手に、指輪はない。
彼女は、もう決めてしまっているんだ。
この場には、話し合いに来たのではなく…ただ、伝える為だけにいるのだ。
それを痛感しながらも、僕は待つ。
ミクは、言葉を選ぶようにゆっくりと、でもはっきりと、言った。
「一緒にいない方がいい、なんて言い方は、卑怯だよね。…違うの。そうじゃなくて、私は、…外国に行きたいの」
「…外国?」
「大学を、海外の大学を受けようと思ってて。学校の先生とは1年の頃からずっとその話をしてて、今は受験勉強してるところ。…このまま頑張ったら、きっと受かると思う」
外国、と、繰り返す。外国。ガイコク。知らない言葉みたいだった。
うつむく僕に、ミクはそれでも言葉を続ける。
「私はね、レン。レンと一緒にいる未来でもいいかなって思ってたの。レンが去年言ってたみたいに、ずっと一緒の学校に行って、卒業したら結婚して、レンが働いて私が家事をして、て、そんな生活でも。でも…」
でも、と、そこで初めてミクは言い淀んだ。
僕は静かに続きを待つ。半分以上予想は出来ている、決定打の一言を。
果たして、ミクは時が止まったような沈黙を挟んで、きっぱりと告げた。
「私は、自分の人生をレンに縛られたくはないと思った」
こんなにきっぱりと言い切るミクを見るのは、いつ以来のことだっただろう。
僕は顔を上げられない。上げた瞬間、何をするか分からなくて、とてもではないが彼女の顔なんて見ることができない。
ミクはすう、と深く息を吸い込むと、決定打の続きを述べる。
「レンと一緒にいるのは楽しい。幸せだし、私はレンが好き。大好き。でも、私は、レンとこのまま一緒にいるよりも、自分の意志で夢を叶える世界に行きたいと思ったの」
だから、別れてください。
最後まで言い終えて、ミクはまるで僕に頭を下げるかのように、目を伏せた。
何となく、こうなることは分かっていた気がした。
彼女の心が僕から離れて行っていることくらいは、分かっていた気がした。
でも、何も今じゃなくたっていいじゃないか。デートの終わりで言うなんて、そんな。そんな思いがこみ上げて来て、ぶつけてしまいそうになるのを必死に堪える。八つ当たりだけはしたくない。そう思った。
ミクは、悩んでいた。
ずっと、僕と留学を天秤にかけて悩んでいた。そして、留学を選んだ。それだけの話。
それだけの、話。
頭まで伏せ気味にしながら目を伏せているミクの頭に、僕はゆっくりと手を伸ばす。右手。指輪はたった今、引き抜いてポケットに入れた。何もない右手で、ミクの髪をゆっくりと撫でる。
これが、僕の答えだ。
「…笑って、ミク」
「レン…?」
「笑って。…ミクは、笑っててほしいんだ」
無理矢理浮かべた笑顔は、きっとぼろぼろだろう。
それでも僕は笑顔を浮かべる。浮かべ続ける。
だって、それしか君に贈るものはないと、知っているのだから。
君にすがってばかりだった僕。
泣き虫だった僕。
君の重みになっていた僕。
君が安心できるように、そんな僕は今だけは覆い隠すから。
だから、笑って。
笑って頭を撫で続ける僕を呆然と見上げていたミクは、我に返るとくしゃりと顔を歪める。そして一歩、後ろに下がった。
僕の手の届かない場所へ。
「…さよなら、レン。…ごめんね」
全てを断ち切るように言うと、ミクは僕が止める間もなく後ろを向いて早足で歩きだしてしまう。
その背中を追うことはできなかった。
僕は力なく手を下ろす。笑顔が崩れる。崩れて消える。
…そうか、別れたんだ、僕達。
その言葉がやっと実感を持って僕の中に落ちてくる。
ミクはきっと、もう振り返らない。
それを理解した瞬間に、僕は泣いた。
声を殺して、しゃがみこみそうになるのをこらえて、こらえて、こらえて。
涙だけを、体中の水分を絞りつくすように流しながら。
ミク
ミク
ミク…
「…ほら、泣かないの」
突然優しい声が降ってきて、僕はハッと顔を上げた。
目の前には、立ち去ったはずのミクが、呆れたような顔をして立っていた。よく見えない。涙で視界がかすんでいる。
「ミ、ク…?」
「泣かないで、レン。…お願い」
ミクの声が、何だか震えて聞こえた。
でも彼女の顔が見えない。涙が止まらない。
ごしごしと何度も目元をこすっていると、不意にミクが僕の手を取り上げて、指先で涙を払ってくれた。
少しだけ晴れる視界。おでこをくっつけるように僕の顔を覗きこんだミクが、歌うように言う。
「レンの涙が止まる魔法をかけてあげる」
「…笑って。私と、同じ顔をして」
そして、ミクは笑った。
笑った拍子に、目尻に溜まっていた涙がぽろぽろと零れていたけれど、ミクはそんなもの気にしないで笑った。
つられて、僕も笑う。
何がおかしい訳でもない。悲しみしかなくて、寂しくて、やりきれなくて、…それでも。
これを、終わりとできるように。
僕達は笑った。
笑って、笑顔のまま、僕はまた彼女を見送る。
去り際にたった一言、これまでの全ての想いを乗せて、口にした言葉は。
「ありがと」
そして僕は、たくさんのありがとうを彼女に贈る。
これまでの全てに感謝するように。
これからの未来を祈るように。
これから、僕が向かうべき場所も分からないまま。
最後の最後で、…強がりを。
…僕は、立ち尽くして疲れ切った足を、一歩踏み出す。
彼女とは逆の方向へ。
剥がれそうになる笑顔を必死に張り付けて。
これで終わりだと、心にしっかり言い聞かせて。
「…泣かないぞ」
呟いた瞬間、零れたものには見ないフリをしよう。
夕暮れが、少しずつ夜に変わっていく。
明日がゆっくりとやってくる。
今夜は、満天の星を眺めて夜を明かそう。
心の中いっぱいに広がる、星のような思い出を胸に抱きしめながら。
<FIN>
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