この物語に出てくる少女には、名前がありません。あなたが名前をつけてあげてください。
あるところに、春のひだまりに咲く花のように美しい女性がいました。彼女は気立がよく、こころが優しく、誰からも愛される女性でした。
そして、天使のような歌声を持っていました。
彼女には恋人がいました。彼は、まるで向日葵のように、彼女を笑顔にすることが好きでした。
彼は詩を書くことが好きで、1日にひとつ、彼女のための詩を書いていました。
彼女の瞳を見つめるだけで、地上に咲いた花の数ほど美しい言葉が浮かんでくると言って、毎日、とても幸せそうにしていました。
ですが、彼は病弱で、ある時、彼は病に倒れてしまいました。彼女はとても悲しみました。しかし、彼は彼女に自分が弱っていくところなどひとつも感じさせないかのように、いつも笑顔を絶やしませんでした。
そんな彼を、彼女は心の底から愛していました。
ふたりで暮らす家のベッドで、彼はだんだん弱っていく意識のなかでも、彼女にうたを書くことをやめませんでした。毎日ひとつ、彼女の手に一輪の花をそっと添えるように、あたたかく、優しく、詩を書き続けました。
「あなた、どこにも行かないで」
彼女は言いました。
彼は、いつもと変わらない向日葵のような笑顔で、こう答えました。
「ぼくが居なくなったあと、きみの美しいその声でぼくの詩をうたにしておくれ。その度に、ぼくがそこに居るかのように、ぼくを感じておくれ。きみがさみしくないように」
それを聞いて、彼女は泣き出しました。
「きみをひとりにはしないよ。さぁ。ぼくのために笑っておくれ。可愛い笑顔をよく見せておくれ」
彼は眠るように天国へのぼっていきました。
最後の時まで、彼女の目には、彼のやさしいほほ笑みが映し出されていました。彼の目にも、涙で潤んだ彼女の明るい笑顔が映っていました。
彼は、とても幸せそうでした。
彼女は、彼との間に子供がほしかったと、毎晩のように夢を見ていました。
「お星さま、どうか……」
胸に手を当てて、彼の鼓動を感じました。
夜空にちいさくつぶやいて、彼が最後に言っていた言葉を思い出していました。
「ぼくの詩をきみの歌声で、うたにしておくれ」
彼が、最後の日に贈ってくれた、ちいさな恋の詩集のノートを花のように大事に胸に抱いて。
「ぼくの可愛い花。どうかぼくのゆく道に咲いておくれ。ぼくがきみの笑顔を忘れないように」
星空に向かって彼女は歌いました。
彼の鼓動と彼女の鼓動が重なるように、胸に手を当てて。そっと花びらが、風に乗って月に届くかのように優しい声で。
すると、窓辺に月の光が降り注ぎました。
その光が、彼女が胸に抱いていたノートを輝かせました。彼女は驚いて、そっとノートのページを指先で開いてみました。
「まぁ……!」
輝くノートの中で、降り注いだ月明かりが魔法のように煌めいて、一輪の花を咲かせました。
それは、見たこともないような美しい花でした。
その花の中で、ちいさなちいさな、可愛らしい女の子が眠っていたのです。
女の子は、目覚めました。
そして、澄んだ光のような声でこう言いました。
「お母さん……?」
彼の描いた詩の中で、彼女の歌声が花を咲かせ、かたちになり、ゆめと願いが叶ったのです。
春になり、花びらが妖精のように舞う窓の外を眺めながらちいさな少女は歌っていました。
彼女が好きなことは、朝日が差し込む窓辺で、綺麗な宝石でできたネックレスをブランコにすること。彼女は日向の窓辺で、ネックレスのブランコに揺られながら、お母さんがいつも口ずさんで歌っている美しい歌を毎日のように歌うのです。
「ぼくの可愛い花。どうかぼくのゆく道に咲いておくれ。ぼくがきみの笑顔を忘れないように」
花瓶に飾られたノースポールの花のとなりで、その花を見てほほ笑みながら歌います。
ネックレスのブランコが、光に照らされて、きらきらと部屋中に光を散りばめています。それは、まるで星の子供たちが部屋のなかで羽ばたいて無邪気に遊んでいるかのような光です。
今日は何をして遊ぼうかな。
そんなことを思っていると。
窓の外から一枚の桜の花びらが風に乗って、彼女の目の前に、ふわりと天使のように降りてきました。
閃いた。今日は、お友達のある男の子に手紙を書こう。ネックレスのブランコからそっと降りて、少女は机の上に降りてきたちいさな桜の花びらを、手に取りました。
この花びらを便箋にして、彼に手紙を書こうと。
うすももいろの桜の花びらは、ハートのかたちをしていました。少女は、その花びらを大事そうに抱きしめて、ふわりと広がったスカートの上で手紙を書き始めました。
それは、春の光を集めて書いたような文字の、恋の手紙でした。少女は、手紙を書き終えました。
「こんにちは」
部屋の扉をノックする音と、とても綺麗な空のように透明感のある声が聞こえてきました。
男の子が、部屋に遊びにやって来ました。
女の子はその男の子が好きでしたが、恥ずかしがり屋であまり声を出して喋る事がありませんでした。窓辺のレースのカーテンに隠れて、彼のことをじっと見上げています。
「こんにちは」
近づいて歩いてくる彼に挨拶をして、彼も彼女を見てにこりと紳士的にお辞儀をしてほほ笑みます。彼女は、背中に隠して持っていた、その桜の花びらの手紙を、彼に手を伸ばして渡しました。
彼はその花びらを手のひらの上に乗せると、なんだろうと、不思議そうに見ていました。
そして、あることに気づきました。
「何か書いてあるけど、これは、顕微鏡か虫眼鏡で見ないと見れないね」
そう言って、男の子は楽しげにほほ笑みました。
女の子も、温かな春の花のように、頬を染めて目を細めてほほ笑みました。
桜の花びらが舞い散る日に、彼と彼女はほほ笑んで見つめあいました。そんな日の出来事でした。
家に帰ってから、男の子は二階の屋根裏部屋に、たまたま仕舞い込んであったルーペを持ち出して来て、女の子が桜の花びらの便箋に書いた手紙を、夜空の窓辺でこっそり読みました。
宝石のように綺麗な瞳で、ルーペの中を覗いてみました。内容は、彼にしか分かりませんでしたが、桜の花の花言葉の通り、彼を幸せな気持ちにさせる内容だったと言います。
彼は窓辺で、そのちいさな桜の花びら一枚を手のひらにそっと乗せて眺めながら、春の日差しの中で幸せそうにほほ笑んでいる彼女を思い出して、また、彼女に会えたらいいな。と思いました。
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