暫く走った後、流架は足を止めた。全速力で走ったせいで喉はからからだ。本棚に片手を置き、噎せるように喘ぐと、暴れまわる心臓を落ち着かせるために乱れた呼吸を調える。
流架は生存本能に従い、無意識にあの場所から一番遠い本棚の近くまで来ていた。
英語で書かれた伝記や参考書、さらには和英辞書まで、外来語を中心とする書物が纏められている一角だ。この辺りは生徒にとって面白くもないからなのか、人があまり見受けられない。
「こ…この辺なら…」
突然アイス雑誌がマッハのスピードで顔面ぎりぎりに飛んでくる、なんて事は起こらないだろう。
そう思い、流架が安堵の息を漏らした矢先だった。
後ろからにゅっと伸びた手の平が、上下に動く流架の肩にポンッと置かれた。
「きゃああああああああ!?」
流架はびくぅと肩を跳ね上げ、無意識に左足を軸に身体を捻った。その時振り回した右腕が、背後にいた人物の首にクリティカルヒットした。
「ぅお゛!?」
流架の見事なラリアットをくらった人物は、踏みつけられた蛙のような悲鳴を発し、本棚に背中からぶつかった。衝撃で本棚の中の本が空中に投げだされ、その頭にどさどさと落下していく。
「あ…」
やってしまった。
流架は顔を真っ青にすると、もうもうと立ち込める埃の中に見えた人影の傍に慌てて駆け寄った。
埃の向こうには、本棚にもたれるように座り込み、頭の周りにひよこを飛ばしている一人の男子生徒が居た。
流架と同等かそれ以上の長さはありそうな紫色の髪を後ろで一つに纏め、腰のベルトにどういうわけか木刀を一本ぶらさげている。
…ってなんで木刀!?
流架は彼に伸ばそうとした腕を引っ込め、まじまじと彼を見る。
顔立ちはまるで人形のように整っているが、もしかしたら不良かもしれない。ああ見えて、何人もの人々をその木刀でねじ伏せ、やりたい放題やってきたのかもしれない。
「いたたた…」
脳内で勝手な想像を繰り広げていた流架は、目の前から聞こえた声で我に返った。低く、しかしどこか凛とした声だ。
「一体何が起こったのだ…?」
彼は頭の上に乗っかった本を取ると、初めて流架に視線を移した。
切れ目の青い瞳が驚きに見開かれ、真っ直ぐに流架の淡いブルーの瞳を見つめる。
「ご…ごめんなさい!!」
「へ?」
二つの視線がかちあった瞬間、心の底から湧きあがってきた衝動とも呼べる感情に突き動かされて、流架はがばりと頭を下げた。
こういう相手は謝っても、許してくれない可能性が高い。落とし前をつけろと言って無理な事を要求されるかもしれない。
だが、彼の次の言葉は流架が予想していたようなものではなかった。
「こ…こちらこそ驚かせて申し訳ない。英和辞書の場所が聞きたくて近くに居たお主に話しかけようとしたのだが…まさか腕が飛んでくるとは…」
長い沈黙が流れた。
「え…英和辞書?」
「うむ。恥ずかしながら、我は横文字がさっぱり読めぬ故…」
はははと乾いた笑い声をあげる彼と対照的に、流架は冷めた目で彼を見た。
「どうかしたのか?」
彼は心配そうに尋ねてくるが、流架は膝に手をあてて立ち上がると、彼に背を向けて歩き出した。
「へあぁ!? ちょ…ちょっと待ってくれ! 英和辞書は何処に…」
「係員に聞きなさい!!」
振り向いて一喝すると、落ちてきた本の中でもがく茄子頭を無視してずんずん歩いていく。
無性に胸がむかむかする。
木刀を持っていたとはいえ、あんな頼りない男に恐縮していた自分に腹が立った。
陰口を言われたりアイス雑誌が飛んできたり変な侍崩れにからまれたり…今日は最悪な一日だ。
流架が頭を抱え、盛大な溜息を吐いた時だった。
「危ない!!」
矢のように飛び出した低い声音が流架の耳を突いた。
「え?」
流架が振り返るのと、視界がぐるんと回ったのは同時だった。
平行感覚を失い、一瞬だけ身体が宙に浮く。
「きゃ!?」
だが、それも一瞬だった。どさっと背中から着地したかと思ったら、何か固いものに叩きつけられた衝撃が流架の背中を駆け上がった。
「いったぁ…」
背中がずきずき痛み、何故か身体が異様に重い。不思議に思い首を動かすと、目と鼻の先にある紫色の頭が目に入った。
流架は暫く状況を呑み込めなかった。
たっぷり三秒かけて、漸く事態が把握出来た。と同時に瞬時に顔に熱が集まり、心臓の鼓動が速くなる。この時の流架は完全にパニックに陥っていて、彼が自分の上に覆いかぶさっている意図を理解する事が出来なかった。
「ふぅ…危ないところだった。お主、大丈…」
気づけば、彼の顎にパンチを繰り出していた。
流架は、またもや見事にヒットして仰向けに倒れた彼の上に馬乗りになり、その胸倉を掴んだ。
「いきなり押し倒すとか一体何考えてんの!? ちょっと無視したからって仕返しのつもり!? なんとか言いなさいよ!!」
「ちょ…そっその前に手を放してくれ…!」
形勢逆転し、今度は流架が彼に覆いかぶさる形になっているが、流架にそんな事を気にする余裕は無い。
彼の方はというと、がくがくと流架に揺らされるがままに揺らされながらも、両手をぶんぶん振って敵意が無い事を必死でアピールした。
「お主の頭上目掛けて本が落下してきたので…恐らくお主の反応が間に合わんと思い、突き飛ばしてしまったのだ…」
二度目の沈黙。
彼の胸倉から、流架の手がすとんと滑り落ちた。
「えっと…つまり…」
ぐるぐると思考が頭の中を駆け巡る。
話しかけようとしただけなのにそんな彼にラリアットをくらわせ、恐らくその衝撃でずれた本が時間差で落下してきて、その本から自分を守ってくれた彼にパンチをおみまいして…。
考え直せば考え直す程、罪悪感が胸に募る。
「ご…ごめんなさいっ…」
気づけば口から謝罪の言葉が、目から涙がこぼれていた。
確かに、初対面だというのに彼の事はなんだか気に食わない。彼のペースに流され、自分の中の何かが持っていかれそうで怖かった。でもそれ以上に、軽率な行動をした自分が許せなかった。自分の勝手な早とちりで、彼に不快な思いをさせてしまった。
こんな自分が嫌い。
一度溢れた涙は中々止まってくれない。一向に流架が泣き止まないので、彼はおろおろと辺りを見回した後、心配そうに流架の顔を覗き込んだ。
「いやいやいや! 我も悪かったから、涙を拭いてくれ! えっと…」
「巡音…流架です」
「流架殿…だな? 良い名だ」
流架は答えた後、遠慮がちに差し出されたハンカチを受け取り、目元を拭った。
「それで…貴方の名前は…?」
「我か? 我は神威楽歩と申す。以後、お見知りおきを」
そう言って、彼はにこりとほほ笑んだ。
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