第四章 05 前編
その後まもなく、二人は街の大通りを歩いていた。
「……」
「……こちらです」
男は焔姫の手を握って進む。時折彼女の顔色をうかがいながら、丁寧に声をかけて進んでいく。
軍の任務で外へと出るために街を通りすぎる事しかしない焔姫にとって、人々で混み合った雑踏を行く事は初めてだろう。それに戸惑いがあるせいか、静かに従順に男に付き従ってきている。
正体がばれはしないか、という事については、今のところまったくその兆候はない。
焔姫とはすなわち紅蓮で、焔姫とはすなわち傲岸不遜だった。
赤や紅など一切無い平服に、黙って男に付き従うその姿。それがよもや焔姫であろうなどとは、誰一人として考えもしなかったのだ。
王宮ですれ違う侍従や裏口の門衛も、簡単な変装程度で騙されてしまっていたのだ。
それには、王宮を離れてから「この国の危機管理がこんなに抜けておるとは思わなんだ」と焔姫がこぼしたほどである。
男は、大通り沿いの酒場へと焔姫を連れてゆく。
にぎわいの見せるその酒場で、空いていたテーブルに男と焔姫は座る。と、がっしりとした体格の店主が遠くから声を張り上げた。
「らっしゃい!」
「あぁ……ええと、とりあえず麦酒を二つ」
「あいよ! そっちの別嬪な嫁さんも麦酒でいいのかい? うちは西方から入った葡萄酒も置いてるよ! この国で上ものの葡萄酒置いてんのはうちくらいさ」
「無礼者。余がなぜこやつの嫁など――」
焔姫の反論まがいの指摘も、店主は豪快な笑い声でかき消されてしまう。
「がはははは! この国の姫様みたいに強気な嫁さんだ。あんまり怒らせないようにしろよ!」
「この――」
「……はは」
みたいも何も……という事実を知っているだけに、男は苦笑いするしかなかった。
反論するだけ無駄だと悟ったのか、強弁に反論する事で正体がばれてしまう事を恐れたのか、焔姫は納得がいかない様子ながらも黙る。
「来たばかりでよく知らないのですが、この国には……何というか凄い姫様がいるようですね」
自らの身分を偽り、男は麦酒を運んできた給仕の娘へと、単なる世間話のように話しかける。
「ふふっ。この国には初めて来られたんですね。初めて来られた方は皆、姫さまの事を尋ねられるのですよ」
焔姫の事を聞かれたのがよほど嬉しいのか、給仕の娘はうきうきした様子で話し出す。
「この国の姫さまは紅蓮の衣をまとっていらっしゃって、誰もが焔姫、と呼んでいます。もう本当に凄いんですから! とっても強くて、誰にも負けた事がないんですよ!」
「うちの焔姫はこの国の将軍でもあるんだぜ」
興奮した様子の娘の話を聞きつけてか、隣の椅子に座った男もそう付け足してくる。
「焔姫はこう仰ってる『夫にするなら自分より強くないと認めん』ってな」
「そうなのですか?」
「あんちゃん、姫様と決闘してみたらどうだ? 勝てたら晴れてこの国の王になれるかも、だぜ」
酒に酔った男の言葉に、店主の笑い声が響く。
「がはははは! あんちゃんみたいななよい男なんて、うちの姫様相手じゃ十秒保たずに負けちまうよ。俺みたいに筋肉が無きゃな!」
そう言って力こぶを作ってみせる。
「何言ってんだい。あんたみたいな筋肉馬鹿じゃ十秒どころか五秒も保たないよ。さぼってないでさっさと料理を作んな! さっきからお客を待たせてんだよ!」
そう割り込んでくるのは、店の女将らしき中年女性だった。その声に店内のあちこちで笑い声が上がる。
「言ってくれんじゃねぇか。誰のおかげで飯が食えてると思ってやがる!」
店主が店の奥でそう凄んでみせるが、店内を回って皿やテーブルを片付けながら反論する女将は店主を見てもいない。
「誰ってそりゃこの国を守ってくれてる姫様に決まってんでしょうが。食材買うのに交渉一つ出来ないくせに何言ってんだい」
「ぐっ……」
「口動かすヒマがあったら手を動かしな!」
客が喝采を上げる。皆の「そうだそうだ」とか「旦那、言い負けてんじゃねえよ」とかいう野次に、店主は何だかんだと反論していた。
「この国の女性はたくましいですね。西方では考えられない」
給仕の娘がほほ笑む。
「それも……きっと、姫さまのおかげですね」
「姫の?」
男の疑問にも、娘は当然だとうなずく。
「姫さまはあたしとそんなに変わらないくらいの歳なのに、あんなに強くて、あんなに綺麗で……その姿を見てると、あたしたちも頑張らなきゃって思えるんです」
娘は焔姫の事を誇らしげに話していた。見れば、焔姫自身は信じられないものを見ているようにぽかんとした表情で娘を見返している。
その焔姫の視線に気づく事なく、女将に呼ばれて娘は離れていく。
「焔姫は強えだけじゃねぇ。指揮官としてもずば抜けた才能がある。この前の戦なんて凄かったんだぜ」
隣の男も自慢したくてうずうずしていたらしく、嬉々として話しかけてきた。
「この前というと、つい先日、戦があったのですか?」
「ああ。まだ十日も経ってねえよ」
酒に酔った男はそう言って笑った。
その話題のせいだろう。表情には出さないものの、焔姫は少しだけ肩を震わせた。
「聞いて驚け。うちの姫様は敵軍と倍近い人数差があったのに、それをひっくり返して勝っちまったんだぜ。なあ皆!」
そう叫んで酒杯を掲げると、店内の客たちも酒杯を掲げて「その通りよ」とか「焔姫万歳」とか言って応える。
「うちの姫様はどんな戦いでも負けねえ。姫様がそうやって我らを守って下さるから、今こうしてあんたらは酒が飲めてる。あんたらもうちの姫様に感謝しろよ!」
客の声に皆も再度酒杯で応える。店内は大盛り上がりだった。
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