ソファに座って本格的に落ち着ける。
「ごめんなさい、陛下」
一しきり泣き切るまでただ抱きしめていると、天才少年からぼそりと普遍的な謝罪が漏れた。
「言うまでも無いと思うけど、もう絶対するなよ。信用ってのは、たぶんお前が考えてる以上に大切なんだ」
イルの個人的な意見を言ってしまえばむしろ感謝したいくらいなのだが、教育上これは肯定するわけにはいかなった。他国との関係を良好に保つ上で、相手から送られる情報を信じられなくなるのは致命的事態だ。ましてや国王の署名付きの手紙が偽装されるなど、絶対にあってはならない。
「もう絶対しないよ。ジンともそう約束したんだ」
やっぱりか。再び心中で同じ言葉が呟かれる。そもそもアレンが青の国からの申し出を知っている事がおかしかったのだ。ジンならレンに話したあの場で聞いていたか、もしくはセシリアから話を聞かされていてもおかしくない。
「ならいい。俺としてはアレンにお礼を言いたい」
ありがとな。そう言うとアレンの目は意外そうに見開かれた。
「何で?」
「レンがちゃんとした診察を受けられればいいと思ってたのは、お前だけじゃない」
涙を拭ってやるが、金色の目からの流水は止まらない。
「治らないんだ。父様の目、どうしても治らないって」
レンの望みは無いと言う判断を疑ってはいなかったし、アレンの様子からほとんど分かっていたが、やっぱりそれをきくと心のどこかがべっこりとへこんだ。
「そうか」
「ぼくの所為だ」
幼いながらも端正な顔がまた歪む。一度でも父親本人にこう言って泣きついてしまえばいいものを、やることなすこと親子揃って遠回りで極端すぎる。
アレンとちゃんと話し合ったか、確認しようとは思っていたのだ。しかし数週間後に緑の国との友好条約調印を控え準備に久々に忙しく、更にジンに対していつになくしっかりと対応していたものだから、てっきり実の息子にもああやって許してやっているものと勘違いしてしまっていた。
「お前がそう思うこと、レンは望んでない」
アレンの所為じゃない。こう言い返してやるのは簡単だが、イルが言った所で気休め程度にしかならないだろう。それ以前にアレンは既にイルにはこれ以上無いくらい謝罪し、イルも許している。
「どうして分かるの?」
「知ってるだろ。生まれた時からの付き合いだし、義兄弟だからだ」
正式な書類上の繋がりは十一の時に切れているが、イルはレンの事を兄として信頼しているし相手も御同様だろう。だからジンは親友の事を伯父と呼ぶのだ。
「父様はぼくのこと許してくれないよ。下らないことして、酷い目に合わせちゃったから」
諦念に近い声だった。同時に前室の扉が件の人物によって開かれる音を耳が拾ったが、アレンは気が付いていない様だった。恐らく状況を察知して入室はしてこないだろうし、間接的ながら親子対話のいい機会なのでイルはアレンに続きを促すようにその小さな背中を摩る。
「本当にごめんなさい。ジンは正義感から言いだしたけど、ぼくはもっと自分勝手なことだった」
「自分勝手?」
訊き返すも、アレンはつい口が滑ったようで口を噤んだ。
「言ったら陛下もぼくのこと嫌いになるかも」
言いたくない。と唇を噛みしめる少年だが、イルはともかく扉の向こうで盗み聞きしている馬鹿親は、この類の話題にとことん鈍い。はっきりと言葉にしてやるべきだ。
「嫌いになんてならねえよ」
言ってみろ。そう視線だけで問いかけると、何度か躊躇ってからアレンは口を開いた。
「今までちゃんと迷惑かけないようにしてきたけど、それでも父様はぼくに何も話しかけてくれなかったから、父様がぼくを嫌いなのか他に理由があると思った。仕事に何も貢献していないからかと思って、犯罪組織を捕まえられれば助けになるし、いつも以上にとんでもない悪戯になるだろうから、とにかく褒めるか叱るかしてくれるって」
途中から言葉にならず、また嗚咽が部屋に響き始める。
「あんなことになるなんて、考えもしなかった。父様の、目が……ぼくの所為で!」
悲鳴のように泣き叫ぶ幼子の頭を撫でながら、イルは溜息をつく。
「腹が立つ事実だけどな、この事件でレンは誰よりも冷静だ。片目が見えなくなった事なんて、本当に何も気にして無い。けど、それにはちゃんと理由があるからなんだよ」
何故だか分かるか? と問いかけるが、アレンは首を横に振る。
「自分の命より大切な存在を守れたからだ。俺やジンもだろうけど、何よりアレンをほとんど無傷で救えたから、目の一つくらいはどうでもいいとさ」
今だから考えられることであるし、絶対に誰にも言えずレンには特に知らせられない本音だが、あの時義兄が一人残されなくて良かったかもしれない。アレンがあの場に居たからこそ、あの生に対する執着が薄過ぎるレンが生還出来た気がしてならないのだ。
「嘘だ」
しかし金髪の少年からは、間髪入れずに完全否定された。
「俺は意図して黙ってる事はあっても嘘は言わねえよ」
確かに、と内心で言ったであろう顔でまじまじと見られるが、その金色の瞳にはまだ色濃い不信がある。あー、もう。親子揃って疑り深くて面倒臭い。
「じゃあ、なんで父様はぼくに構ってくれないの?」
アレンが不貞腐れるように頬を膨らませる。いくら頭が良くても、それが親の愛情を不要にすることはできない。そして頭が良いからこそ己が他と違う環境に置かれていることに、理由が絶対必要だったりする。そうやって、このあり得ない勘違いが産まれたのだろう。
「馬鹿だから」
こちらも間髪いれずに返してやると、瞬間敵意満載の目で睨まれた。
「父様は馬鹿じゃない。誰よりも賢くて、国のために働いてるんだ」
「馬鹿だ。外交で相手を納得させる事は出来ても、目の前に居る息子の悩みに気が付かないんだから」
冷たい声で嘲弄して言ってやると、アレンは本格的に怒り始めた。
「違う!」
「何が?」
「ぼくが父様に悟られないようにしてるんだ! そんなこと気にしてるって、気が付かれたくな」
甲高い怒鳴り声は不自然な形で途切れた。にやりと笑ったイルを見て、無駄に矜持の高い少年の頬が紅潮する。羞恥にまた涙目になって俯く少年に、一瞬前とは違う暖かな声をかけた。
「一応言っとくけどな、恥ずかしい事じゃないぞ」
十歳の子供が父親から興味と注目を欲しがったからといって、何も責められる謂れなどありはしないのだ。今回は、余りにもやり方があれだっただけで。
「当たり前じゃねえか。尊敬してるんだから褒めて欲しいし、注目して欲しいよな。こんなに勉強も大好きで頭も良くて、頑張って読書してるんだからな?」
ぽんぽんと頭を叩いてやると、泣き声を必死に殺しながら金髪頭は僅かに頷いた。
「ちゃんと本人に言ってみろよ。それと目のことは一人で気にしてないで、ちゃんと自分の口で謝まってみろ」
また首が左右に振られる。この親子は総じて、素直に一度で他人の言うことを聞く能力に著しく欠ける。
「呆れられるよ。父様は忙しいんだから、ぼくに構ってる暇なんて無い」
「確かに忙しいけど、それ以上にお前の父さんは優秀だから息子一人に構う時間くらいある。呆れられるなんて、なんでやってみたことも無いのに分かる?」
「……今以上に嫌われるのは、怖い」
「レンは嫌ってねえよ。本当にアレンのこと、心から大切にしてるんだぞ?」
言いながらも、親友の普段の態度を考慮すればそれを信じる事は難しいだろう。イルとしてはここで本人の登場を待っているのだが、まだ動く気配が無い。
いっそ誘き出すために過去の馬鹿親話を一つ一つ暴露していこうかと考えた所で、その心理を読んだかのように広間の扉がおっかなびっくりと言った調子で開いた。
「ただいま」
片手にいくつかの資料を抱えているが、仕事で使うものとは様子が違っている。
「遅かったな」
にっこり笑ってやるが当然のようにそれは無視されて、視線をアレンに向けている。
「と、父様」
イルには今レンが相当に緊張しているからこそこうなるのは分かるのだが、金色の瞳は硝子玉のように感情が無く、その上人形のように無表情であれば息子が硬直するのも当然だ。
レンがそのまま手を伸ばしたのでアレンはびくりと目を瞑るが、親友はそっと頬を濡らす涙を拭う。
「アレンに少し話す事があるんだけど、今からいいかな?」
思ってもみなかった父からの対応に混乱しているが、アレンはその問いかけに何度も頷いた。それに軽く頷き返してからレンは荷物をテーブルに置いて、イルとアレンと向かい合うように座って資料を広げた。
広げられた資料は眼球の構造が描かれているもので、そこに筆記用具でいくつか線とメモもあった。興味深そうに金髪の幼子は見入るが、上下反対で見辛そうだった。イルは資料の向きはどうあれ、見る気が起きない。
「アレン」
それに気がついたのか、レンが名前を呼ぶ。アレンは返事はしたが、何を求められているかしばらく分からなかったらしく首を傾げるも、父の手が隣の席を叩いていることに気づき、妙に固い動きで隣に腰を下ろした。
「ここがあの忌々しい灰色頭に刺されて、壊れちゃった組織。物が見える仕組みは分かるよね?」
アレンが首を千切らんばかりに振るが、イルは知らない。しかしもちろんそんな事を指摘するほど野暮ではないし、後で親友には改めて説明してもらおう。
資料を指差しながら説明が開始されるが、ほとんどイルの脳内では意味を成さない音として右から左へと素通りして行った。退屈でうとうとし始め、そんな睡魔と闘うこと数十分だろうか。
「だから、視力回復の見込みは無い。わかった?」
親友はそう言って締めくくった。
「ごめんなさい、父様。ぼくの所為で、ぼくが馬鹿なこと考えたから」
アレンの目には何度か引いたはずの涙がまた溜まって、俯いた拍子に本人の膝に落ちた。そんな少年にレンは手を伸ばすが、触れる直前に停止した。
息子を抱き寄せるのに何を躊躇する必要があるかと思うが、義兄が何をしてどう言えばいいのか分かって無いのは前述の通りだ。しかし愛しい息子が目の前で泣いていて、放置することもできなかったらしくそっと小さな肩に腕を回した。
「イルが言っただろうけど、僕の目に関してアレンが責任を感じる必要は無いよ。本当に気にして無いんだ、君とジンとイルが無事だったからね」
言われたことと身体的接触が意外だったのだろう。アレンは一瞬目を見開いて、それから自分からその腕に縋って泣き始めた。ごめんなさい、ごめんなさいと何度も謝りながら。
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