リンが神威と出会ってから三日が経った。
あれからこの街で男の姿を見掛けることもなく、何かしら話を聞く訳でもない。
勿論、馴染みの客でも惚れ込んで傾倒でもしていなければ、週に一度来るか程度であったりする。
それでもリンにとってはこの三日が長く、神威が来ないことに安堵しつつもまた心内に少しの寂しさを感じる所もあった。
そんな折である。
「ああ、リンか…久し振り」
朝の湯浴みを終えてリンが自分の部屋に戻ろうとしていると、前から男が歩いてきた。
「あ、は…い」
男の後ろにいるのは、彼女の最も尊敬する姐。
三日前に来たばかりだというのに、まったくこの男は相当ミクに傾倒しているらしいと思うしかないが、それは今出会うことがなくても分かっていたことかと考え直す。
ミクの馴染み客の“子爵令息”と言えば、この廓の誰もが名を知る人間だった。
「先日は上客を得たって聞いたけれど…リンも頑張っているんだね」
姐の最もたる上客は彼であり、リンも新造であった頃は男と会うことも多かったが、客を取るようになってからは会うこともなくなった。
――むしろリンの方が、このような状況で彼に会うことがないように気を付けていたのもあるが。
しかし姐は先日のリンの話でさえも告げていたらしく、男から掛けられる労いはまるで嫌味にさえ聞こえる。
「いえ…」
リンは男の顔を直視出来ないままに頭を下げ、返事をする。
未だ彼に対しては消化し切れない思いがあるのだ。
その根にある部分は姐も知らないことなので助け船を出してくれる筈もなく、早く時が過ぎることを願う以外に仕方ない。
三日前、神威に出会ってしまったが為に得たヒトへの信頼は、男に対してあったリンの不信を増した。
「リンも忙しいんですから、あまり引き留めるのはやめてあげて下さい」
いよいよ自分から声をあげて去ろうかと思い始めた時、ミクが苦笑ぎみにそう男に告げた。
リンが顔を上げると、申し訳なさそうに眉尻を下げる姐と目が合う――深い事情までは知らなくとも、リンがこの男を苦手としていることは分かったらしい。
これまで姐の客として話していた時期はまだよかったのだが、どうにもこればかりは仕様もない。
「そうか、まあ僕も帰らなければならないし…引き留めて悪かったね、リン」
男は納得したように頷くと、リンに笑顔を向ける。
その“笑顔”が神威の見せたものとあまりに違うので、リンは突如男のことが怖くなった。
まるで自分自身それを疑ったこともないように、何の邪気も他意もなく、意識さえしていないかのように、リンを見下している表情だったのだ。
「いえ、では失礼します」
これが華族というものなのであると分かっているつもりだったが、それでもあまりの盲信に震えが走る。
世の中は金と権力が全てだと。
この男はそれをまるで生まれながらに疑ったこともなく、神威のように“平等”を意識したことなどないのだ。
今までは比べる対象がいなかったせいか思うこともなかったが、神威と話をしたことでリンの内には確かに、諦め捨てた筈の自尊心が欠片戻っていた。
それさえ粉々にしてしまうのではないかという程、男の内に秘められているのは絶対的な強者の矜持。
だからこそリンにとってこの時、男の笑顔は恐怖だったのだ。
「さあ、行きましょう」
目を見開いたまま身動きも出来ないままのリンを前に、姐は男に静かな口調で言った。
「またのお越しを楽しみにしております、始音さん」
男の名前は始音カイトと言う。
子爵家の令息であり、姐の馴染み客。
彼のようにミクに執心し、また始音程の財力があれば囲うことも身請けすることも可能だろうと皆が噂をしている。
しかし未だそれが為されていないのは男が正式に爵位を継いでいないからだと言われているが、本当は違うということをリンは知っていた。
いくら男がミクに言い寄ろうとも、彼女には始音を客として以上に想う気持ちなどはない。
だから姐は廓を訪れる馴染みの上客として相手はしているのだが、決して彼を頼りにしようなどとは思っていないのだ。
ミクは元々、リンのように借金のカタにこの廓に入れられた訳ではない。
それも関係しているのだろうか、愛してもいない男の元で一生を妾として過ごすなど我慢ならないのだそうだ。
――子爵令息ともなればカイトには既に幼い頃から決められた婚約者が存在する。それをたかだか遊女の為に破棄するような男ではないし、またもし男が家名を捨てることや心中を望んだとしてミクがそれに従いなどする訳もない。
地位も財も約束されても色恋の面では上手くいかない男を憐れんだり、またミクに代わって取り入ろうとする者もいたが、リンにはどうでもいいことだった。
まただ。
そこまで考えて、リンは首を振った。
この廓に来て客を取るようになってから、必死で封じ込めた筈のリン自身の過去。
レンの便りがなくなってからはそれまで以上に思い出すこと自体を止めてしまったのだが、最近やたらと浮かんでくるのである。
やはり、レンに何かあったのかも知れない。
それとも、これから何かあるのはリンの方なのだろうか。
などと考えてはみても、自分自身の先のことなど、何一つ分かりはしないのだった。
「カイト」
呼ばれて顔を上げると、目の前にはいかにも高価な着物を纏った女が立っていた。
全くツイていない。
思わず苦笑しそうになるが、もしかすればこれは偶然などではなく彼女の方が男を待っていたのかも知れない。
いや、間違いなくそうなのだろう。
だとすれば言われることは分かり切っていて、もう放っておいてくれとばかりに息を吐く。
自分が華族に生まれたことも、始音の家のことも誇りに思っている。しかしだからと言ってカイトはこれ以上の地位など望んではいない。
爵位などどうでもいいとは思わない、しかしそれを得る為に嫁を貰うなど面倒この上ないじゃないか。
しかも相手はこの女――それが一番の問題だ。
悪くはない。見目も良いし、器量も良い。
カイト自身は彼女を女として愛している訳ではなかったが、両親もよく知る昔からの幼馴染でもあるし、形式的な結婚をするのなら文句の付けようもない良妻になると思っている。
「僕に何の用かな?メイコ」
彼女もそう思い、彼の女郎通いを黙認してくれるならば。
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