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誰が歌うか 子守唄を歌うか
それは私よ 白い蛇がそう言った
藪の木々と 大樹に祈って
私が歌おう 賛美歌を歌おう
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カタリという物音で私は目を醒ました。目をこすって私のいる部屋――使用人用の寝室――を見渡すと、閉め切っていたドアがほんの少しだけ開いている。ベッドから身を起こすと冬の冷たい空気に抱かれる。この部屋に侵入者でも入ってきたのだろうか。
隙間の空いたドアの外からはゆっくりとした足音。それはきっと私の部屋のドアを開けた侵入者の者だろう。引きずるようなそれは、少しずつ遠くへと向かって行っている。ドアを開けただけで、部屋に入らずどこかに行ってしまったということだろうか。
その足音が誰のものなのか、分からないけれど察しはついた。いや、これは希望的観測なのかもしれない。私は彼女だったらいいな、違ったら挨拶してまた眠りに戻ろうと思いながら、小さな足音を気付かれないように追うことに決めた。毛布を二つ掴んで、一つは肩にかけ、もう一枚は手で抱えて、私は部屋から出てみる。
足音の主は、廊下をとぼとぼと進み、私達が住む屋敷……フリージス邸の外へと出ていく。時折、柱にぶつかりそうになりながらよろよろと歩いている。音をたてないようにそうっと勝手口の扉を閉めたはずなのに、かえってギギギと派手な音をたててしまう。……間違いなく彼女だ。
彼女は、庭園の「いつもの場所」に座り、俯いている。表情は見えない。しかし、彼女の様子を見る限り明るい調子ではないことは分かる。だが、私にはこのまま放っておくことは出来なかった。話しかけようと彼女に近づく。
その前に身だしなみを整えよう。もしもキール様やミキナ様が起きていたら怒られてしまうだろう。まずは髪を束ね、手で軽くまとめる。人間になったばかりの頃は、長い髪が面倒くさくって無造作に紐で縛っていたけれど(エルルカに言われるがまま見た目で選んだのが間違いだった)、今ではすっかり慣れたものだ。服の埃を取り、顔をごしごしこすった。落ち込んでいるかもしれない相手に、間抜けな顔なんて見せられないよね。……うん。これでいいかな。噴水の水溜りに自分の顔を映し、確認してから声をかける。
「クラリス、起きてる?」
「……! ミカエラ……」
クラリスの赤い目がチラリとこちらに向けられる。私が名前を呼ぶと、やまびこみたいに彼女も私の名前を呼ぶ。その様子がなんだかおかしくて、意識せずに口元が緩む。
「カゼひいちゃうよ。ほら、毛布、持って来たから。」
それとなくクラリスの膝に毛布を掛け、私も隣に座りこむ。彼女は私から顔を背けていたけれど、やがて私の方を向き、クマの出来た目で「ありがとう、ミカエラ」と答えてくれた。
きっと何かあったのだろう。でも、あえて話題を逸らしてみる。
そういえば昼間、偶然会ったエインと3人でお茶をしたっけ。ちょうど時間があって2人でお買い物をしていたら、エインもどうやら今日は休みだったみたいで。思ってもない鉢合わせだったから、クラリスが挙動不審になっちゃって。そんな話をしたらクラリスは、もう恥ずかしいからやめて、って、ちょっと頬を膨らませる。私もごめんごめんと笑い返すと、二人で微笑んだ。
「エインのしてくれた話、おもしろかったよね。エルフェゴート軍の人たちって楽しい人ばかりなんだね」
「ええ。珍しいコウモリを焼いて食べただとか、眼鏡を指の力だけで割っただとか。ネズミにマリーなんて名前を付けて、芸をさせた人もいたって言ってたわよね? 私も見てみたいわ」
ふふふっと安堵したように笑うクラリス。やっと気持ちが落ち着いてきたようだ。そんな彼女を見てると私も楽しくなってきてしまう。
「ねえねえ、いつか私達もエインに会いに行こうよ! エインが訓練するところ見てみたいし。なんだかエイン、逞しくなったと思わない? 前よりもかっこいいな……なんてね」
冗談めかしてそう言うと、クラリスは少し面食らったような顔をして、ちょっと俯いてしまった。何やら様子がおかしい。
「え……それは、ミカエラが一人で行った方がいいかも……」
「どうして?」
「だって、だって……。エインさん……ミカエラのことが……好きかもしれないんだから……」
クラリスは顔を赤くしたり青くしたり、恥ずかしそうにしたり寂しそうにしたり、よく分からない表情で言葉を濁らせそっぽを向いてしまった。私、何かマズいこと言っちゃったのかも……。
一応、誤解は解いておきたい。エインが私に向けている感情はきっと恋やら愛やらではない。私がもともと人の感情に詳しくないからむしろ気付けたのかもしれないが、何となく違うと思った。
たとえば、カイルのように私に想いを持ってくれる人は、なんだか熱い気持ちを感じる。他にも、貴族に商人に、たくさんの人に恋心をぶつけられたが、どれも皆、熱い。でもエインは違う。彼の気持ちはとても暖かだ。でも熱さや必死さと言う者とはかけ離れていて、ごく自然に親切にしてくれるし、当たり前のように助けてくれる。もしエインが困っていたら私も助けたいと思うほどに。きっとこれは友情というものなのだろう。私は、エインがクラリスにもそんな感情を向けてくれるのがとても嬉しかった。
ただ……こんなあいまいで感覚的な説明をクラリスにするわけにもいかない。そもそも、クラリスが私に抱いている感情も、実はちゃんとわかっていない。エイン同様暖かな友情を抱いてくれるのは分かる。でも、その暖かさがたまに熱いというか……暖か過ぎるというか……。悪気はないのは分かるが、どんな気持ちなのかはわからずちょっと不思議に思っている。私もまだまだ勉強が足りない。
そんなことを考えてるうちに、何も言わず黙ってしまった私をクラリスが不安そうな顔で見ていた。何か取り繕った方がいいだろう。私は肩にかけていたもう一つの毛布を、クラリスの肩にもかけて、肩に手を回した。もっと近づいた方がきっと寒くないよね。
「ミ、ミカエラ……」
「大丈夫だよっ。絶対クラリスも一緒に連れて行くから、ね?」
「う、うん……あのね、ミカエラ……」
「どうしたの?」
クラリスの顔が赤い。目には涙も溜まっている。
「ミカエラは、本当に私を置いて行かない? いなくなったりしない?」
「……! どうしたの、突然」
ううん、突然なんかじゃない。私はクラリスが悩んでいるって分かっていた。こんな時間にここに来ているのが何よりもの証拠だ。でもなぜ彼女がそんなことを言いだしたのかは、分からない。
「ミカエラ、私ね、嫌な夢を見たの……ヤツキ村にいた頃の夢……。みんな私を嫌って、大好きだったお母さんも私を置いて逝って……思い出しちゃったの……だから」
とぎれとぎれに、肩を震わせながら。クラリスに取ってあの村は輝かしい思い出ばかりじゃない。星の壊れた夜のような、昏い気持ちを想起させる思い出だってあるんだ。
「辛いの。エインにも、ミカエラにも、こんなに優しくしてもらってるのに……私の気持ちはまだあの村に囚われてる。優しくしてもらっう度に、あの辛い日々を思い出してしまって……いつか2人ともあんなふうにいなくなってしまうのかもしれないって……」
私は言葉を失った。優しい言葉が人を傷つける時もある……そういうことだろうか。クラリスはきっとあの頃よりも楽しい日々を送っていると思っていたのに。
「最低だって分かってるの。私、こんなにも弱くて卑怯な人間なんだって。分かってる……分かってるのに……」
クラリスの涙は止めどなく流れる。私にはこの涙を止めることができないの? クラリスは昔の痛みを引き摺ったまま、ずっと生きていくの……?
「そんなの嫌!」
思わず叫んだ私の言葉に、クラリスがビクッとする。そんなクラリスをまるで逃げないように捕まえるかのように、私は強く抱きしめた。
安心して、私は何所にも行かないよ。ずっとクラリスの傍に居る。クラリスを思い出から解き放てるまでずっと一緒にいてあげる。
喉まで出かかった言葉を飲みこんだ。私はそんな無責任なことは言えない。私には使命がある。人間でいられる期限がある。だから言えない。でも、でも……!
「クラリス、私にとってのあなたは、とてもとても素敵な人。この気持ちはずっとずっと変わらない。だから――」
私はクラリスの心を解かしたい。一緒に居られる時間に限りがあるとしても。
「だからクラリス、私と一緒に思い出を作ろう? 昔の思い出を忘れることは出来なくても、せめて私と居た思い出で塗り替えられるように」
「ミカエラ……」
「エインとまたお茶会しよう? キール様やユキナ様に言って、お話する時間を作ってもらおう? 使用人同士でお茶会とか……いっぱい、いっぱい。楽しいことを私と見つけていこう!」
私にはこんなことしか言えない。でも、クラリスには笑顔になって欲しい。間違っても、一緒に居ることで寂しさや悲しさを感じてほしくない……!
気付けばクラリスはまた熱い涙を流していて、でも先ほどまでとは違い、私に体重を預けてきた。彼女の手が私の肩に回る。心臓の鼓動が鮮明に聞こえる。
「……ありがとう……ミカエラ、私……」
「うん、うん……いっぱい泣いていいよ。私が受け止めるから。大丈夫」
「うっ……ううぅ……」
数分間泣き続けていたクラリスがようやく泣き止んで、私は今が深夜だということに気付いた。そろそろ戻らないと、明日も早く起きないといけない。
「もう大丈夫、クラリス」
「うん。もうミカエラの前でたくさん泣いたから」
あとは一人で悩んで、答えを出してみる、ということか。それが良いだろう。きっと、クラリスが自分で決めたその答えにこそ価値があるんだ。彼女はいつか必ず自分で答えを出せるような人になる。それまで、私は待っていよう。
「また、ミカエラに甘えちゃったわね」
クラリスが恥ずかしそうに言った。ヤツキ村でのことを言っているのだろうか? 私はそんなこと気にしていないのに。
「何言ってるの。もっと甘えていいんだよ? ほら、部屋に戻ろ? キール様に見つかったらちょっとまずいかも」
私が手を差し出すと、クラリスはちょっと戸惑うそぶりを見せて、でも、冷たくて白い手を重ねてきた。
「うん」
そのまま彼女は肩を私に寄せて、腕を組んできた。幸せそうな顔が私の頬にくっつく。そんな彼女の表情が無性にいとおしかった。
空の雲とは対照的に、空気はとても澄んでいる。明日は冬の晴れ空になるだろう。
「じゃあ、私はこっちだから……」
「うん、また明日。おやすみ、クラリス」
「おやすみ」
私は廊下でクラリスと別れた。部屋まで送ろうと思ったけど、その必要はないと言う。一人で考える時間が必要なのだろう。
でも少し心配になって、こっそり彼女の部屋に行ってドアに聞き耳を立ててみる。案の定、彼女のものと思われるすすり泣く声が聞こえた。でも私は開けたりせずに部屋に戻る。さっき、彼女が寂しくて仕方がなくて、思わず私の部屋に来た時のように。でも私が寝ていたから、起こすのが申し訳なくて帰った時のように。私にはわかっている。不器用な優しさが嬉しかった。
今は涙を流しているかもしれない。でも明日、朝に笑顔でおはようって挨拶して、彼女の微笑みが返ってきたら、きっといつもの毎日に戻れる。私はクラリスを信じる。
またあした、私の大切な人。
<Fin>
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