ひところ、暖かい風が吹いた時があった。まだ寒い時期だったから、印象に残っている。
 いつもの駅で電車を待つ間、遠くの山を見ると、少しけぶっていた。太陽は柔らかく地面に落ちていた。春を感じるような天気に、柏原は微笑むように目を細めていた。
 ベンチに座り、ぽーっとした柏原の横で、僕もぼんやりとしていた。昨日までのことや、明日からのことや、色んなことが頭から消えていた。僕が後悔したり、すべきことはたくさんあったったのだと思う。だけれど、その時には何も浮かなばなかった。
「どこか、遠くにいけちゃいそうな天気だね」
 ふっと、どこかに消えてしまいそうな声で柏原は言った。現実に戻された僕はぎょっとした気分でそれを受け取った。
「これから学校だぞ?」
 それを聞いて、柏原はしかめ顔を作ってうつむいた。
 遠くに行ってどうするつもりなんだろうと、僕は不思議に思った。確かに浮かれる陽気の天気だった。フワフワと浮いてどこかに行ってみるのも悪くないと思える。ただ、いつもどおりに学校に行く事が僕らのつとめだし、実際にそうだと思う。
 ぱたぱたと柏原が足を鳴らしだした。気になって柏原を見ると、そっぽを向いている。その姿のむこうに、赤い電車の影が見える。何が気に入らないのか僕には皆目見当がつかないが、柏原は気づく風がない。そんな柏原の頭をポンと触れて、僕はベンチから立ち上がった。
 電車は僕らの前に止まり、扉を開けた。電車はいつもどおりに空いており、いつもどおりに僕らは座席についた。
 アナウンスが流れて、その後に扉が閉まった。機械音が車内に響きだして、外の風景が徐々に動いていく。
『踊りませんか次の駅まで』
 そう車内にアナウンスが響いた。
「「え?」」
 僕と柏原はそのアナウンスに顔を上げた、と同時に、車内に音楽が流れ出す。
 流れだす、と言うより、演奏が始まった。前後にボックス席のあるこの車両。車両の後ろ側のボックス席の影に何人かの陽気な男女が潜んでいて、アナウンスとともに飛び出してきてギターを弾きながら、踊り始めた。その踊りは、タップダンスを踊るものや、フラメンコを踊るものや、コサックダンスを踊るものや、社交ダンスを踊るものや、手拍子をリズミカルに繰り返すものだったり、様々だった。
 めちゃくちゃだった。てんでバラバラだった。どこにも統一感はない。そして僕らが面食らっている間に、電車は次の駅に着き――その集団は車両の前側のボックス席に潜んだ。
 ――唖然とする。こんなことが電車で行われていいのか?と言うより、こんなことを全区画で延々とやっているのか、この電車は?というより、こんなことが起こる電車だったろうか?
 次の駅でまた電車は扉を開け、何人かが乗り込んできて、座席に座った。アナウンスが流れて、その後に扉が閉まった。機械音が車内に響きだして、外の風景が徐々に動き出して
『踊りませんか次の駅まで』と車内アナウンスがまた流れる。
 乗り込んできた乗客たちは一様に、え、と驚いたように顔を上げて、そして演奏が唐突に始まってそれをみて驚く。
 僕は驚かない、本当にまたやるのかと呆れたくらいだ。踊る人間はさっと車内に広がって、てんでバラバラにダンスを踊る。冷静に見ると、ギターを弾く人間はゆっくりと車内を歩いて横断している。むちゃくちゃだけど統率はとれているようだ。
 愉快な音楽に、愉快なダンスがまた車内にあふれる。音楽が好きな僕でも、こう唐突に音楽を聴くことになると辟易する。柏原と話でもしてやり過ごそうと柏原を見ると――目を輝かせて手拍子をしていた。体を揺すって、頭を小刻みに振って、全身で音楽を楽しんでいた。違和感があるのは――音感のない柏原の手拍子がむちゃくちゃなのと、楽しそうな柏原のその表情だった。
 あっけに取られてそれを見ているうちに、柏原は僕の視線に気づき、ニコッと笑っただけでやめようとしない。そうして、電車は次の駅について、愉快な集団は電車の後ろ側のボックス席に潜んだ。
 次の駅でまた扉が開き
「面白い?」
 と僕は苦々しげな顔で聞いた。アナウンスが流れて、その後に扉が閉まった。
 柏原は不思議そうな感じで小首をかしげ
「踊りませんか?次の駅まで!」
 と言って僕の手をとって立ち上がった。
 陽気な集団が繰り出してきて、陽気な音楽が弾かれだした。すぐに僕の手を話した音感のない柏原がむちゃくちゃに動き出す。立ち上がった僕らの周りに陽気な集団が固まり、柏原は一緒に踊りを踊りだす。僕はもう何が何やらわからなかったが、立ち尽くすだけではこの状況に浮いてしまうと、やっぱりめちゃくちゃに動いた。めちゃくちゃに動いて、めちゃくちゃになって――誰かが僕の手を掴んだ。柏原だった。そして両手をとって、くるくる回りだした。僕と柏原は顔を向かい合わせて――柏原はずっと笑顔だった。僕はそれを見て、はにかむくらいしかできなかった。柏原は、楽しんでいた。僕にはよくわからないけど、すごく、楽しんでいた。

 音楽が止んで、扉が開くと、そこはもう降りなくてはいけない駅で、僕は僕のカバンと柏原のカバンをひっつかんで、柏原を引っ張りだすようにして電車を降りた。踊っている最中、ずっと息を止めていたのか、とても息が苦しくて、ぜーぜーと空気を吸い込んだ。
 柏原もそうだったのか、ぽーっと顔を赤くしながら、肩で息をしている。僕より激しく踊っていたのに、僕ほど重症ではないようだ。ひとしきり落ち着いてから
「すっごく楽しかった―……」
 と、溜息混じりに柏原は呟いた。
 乗り換えたバスの中で、柏原は足をパタパタと鳴らした。その動作は心地よさそうに、表情は楽しそうに。よっぽど楽しかったんだろうと僕は思うことにしたが、何が柏原をそこまで駆り立てたのか、そこまではわからなかった。
 それからずーっと、授業中だろうと休み時間中だろうと、柏原は上機嫌だった。いつもは硬くて、神妙な表情か、ぽーっとしていることの多い柏原だけに、ずっと不思議な感じがした。昼休みになって、芳川がついに
「何かいいことあったの?」
 と、柏原に聞いた。僕もそれには俄然興味があったから、聞き耳を立てたが、柏原が答えたのは
「えへへ、いいこと~」
 とそれきりで、芳川もそうなの~とにこにこと返しただけ。それを見ていた杉本も、箸を動かす手を止めて、不思議そうに二人のやり取りを見ているだけだった。駄目だ、こいつら使えん。

 学校が終わって、みんなと別れて、帰りの電車を柏原と待っている時、ふと朝の電車で流れていた音楽はどんな音楽だったっけ、と頭をよぎった。――よく思い出せない。
「柏原」
 声をかけると、そこにはいつもの様にぽーっとした柏原がいた。どこか寂しげに見える目つき。それを僕に向けて、じっとすえる。一息躊躇して、僕は聞いた。
「朝のあの曲さぁ……どんな曲だったっけ?」
 え、と驚いた声を上げて
「えーっと、いやさ、いい曲だったんだろうけど、忘れちゃってさぁ……」
 その言葉を聞くが早いか同じ頃か、柏原はあの時やっていたへんてこな手拍子を思い出そうと手を叩きだした。ひとしきり記憶を辿ろうと頑張ってから、申し訳なさそうな顔で
「わ、私も忘れちゃった……」
 そう申し出た。まぁ柏原の音感に期待してはいけなかった。
 帰りの電車が滑りこんできて、電車は僕らの前に止まり、扉を開けた。電車はいつもどおりに空いており、いつもどおりに僕らは座席についた。
 アナウンスが流れて、その後に扉が閉まった。機械音が車内に響きだして、外の風景が徐々に動いていく。
 もしかしたらまた朝のように――と思ったが、それはなかった。静かな車内に電車の機械音が響いている。窓の向こうの風景が音もなく流れていく。真っ赤な夕日が差し込んでいた。
 いつもの日常だった。柏原と一緒に帰る、平穏な日々に戻ったのだった。しかし、何かが変わっていた。ぼんやりと窓の外の風景を眺めるだけで、満足できない。そういう、些細な変化。
 次の駅でまた電車は扉を開け、アナウンスが流れて、その後に扉が閉まった。機械音が車内に響きだして、外の風景が徐々に動き出して、僕はこういう日常が嫌になったんだと気づいた。僕は、そっと柏原の手に自分の手を重ねて
「踊りませんか次の駅まで」
 そう小さく、柏原を見ずに呟いた。そして、朝から柏原がやっていたように、足をパタパタと鳴らした。太ももに手を打ち付けて、パタパタとリズムを取った。朝の曲は覚えていなかったけど、あの陽気な感じや、楽しそうな柏原を真似てみようと思った。ぼーっと、僕はそれを続けた。そのぼーっとした意識の中で、隣の柏原が同じようにリズムを取り出したのに気づけた。僕と柏原のリズムはてんでバラバラだったけれど、僕らはリズムを刻んだ。何もかも忘れて。

 ぼーっとしていたけれど最寄り駅についた時には、何かにとりつかれたように僕らは揃って降りた。綺麗事ではない、現実的な一日が終わって、もうすぐ家に着く。駅の前まで行って、柏原と別れた。じゃあねと手を振った柏原の顔は、朝のような笑顔に見えた。
 自転車にまたがって家に向かいすがら、僕はまだぼーっとしていた。星がまたたきだした、夕暮れ終わりの空を見て、いつか柏原と遠くに行けたら、とても素敵なんじゃないかと思った。その時は、電車だったら、今日みたいに踊るのも悪くない。そう思えた。
 その時は、アナウンスじゃなく、僕の声で
「踊りませんか?次の駅まで」

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
  • 作者の氏名を表示して下さい

踊りませんか、次の駅まで

お久しぶりです。
僕の中の永遠の少女・柏原知子と、僕の中の永遠の少年・古藤公義のお話です。

このお話は、くるりの「踊りませんか次の駅まで」を表題としてとっており、彼らが聴くのもこの曲となっております。どうぞ、お手元にこの曲があります方は、それを聴きながら読んでいただけたら幸い。

こう、なんていうか、ハプニングっていうかサプライズっていうか、ま、それを純粋に楽しんじゃえる女の子って、ぐっとくるよね。

鬱々と考えこむよりも、こういうハッピーな子が隣にいてくれたら、前向きに自分の人生楽しめるんじゃないかと。古藤公義もそうあってもらいたいもんです。男にとって女の子って、そういう存在であると思うのです。

難しく考えるなよ?とにかく踊るんだ踊り続けるしかないんだよ(村上春樹だっけ?)。一緒に、踊りませんか?次の街まで。

閲覧数:229

投稿日:2012/07/22 21:11:53

文字数:3,906文字

カテゴリ:小説

クリップボードにコピーしました