雨の中を歩いた。僕はいつでも雨の中を歩いた。雨が降れば外へ出かけた。雨の日は好きだった。晴れの日は嫌いだった。そこにどんな理由が必要なのだろう。好きなものに理由は要らない。だから僕は、それと同様に嫌いなものには理由はいらないときめこんでいる。
僕は僕が嫌いだった。僕はいつでも僕を嫌った。雨はそんな僕を守るように僕を濡らしてくれる。雨は僕と僕以外の繋がりを完全に断ち切ってくれる。雨に濡れれば、僕は雨の一部になったような感覚を覚える。雨は自分自身の一部になろうとしている僕を干渉もしないし、歓迎もしない。どうでもいいもの、と分類されている自分に僕は陶酔している。
そんな僕を、万人は口を揃えておかしいと言う。
この場合の適切な対処法は、僕は僕が正しいと思うことだ。つまり万人の感性がおかしいと言う事にしている。そうすれば万人にあわせて、そこに疎外されないように自分を殺す必要なんて無い。僕は万人の住む世界に疎外されるより、僕を殺す事の方が苦しい。何故なら、自分を殺すと言う事は、僕自身の存在を肯定することに繋がるからだ。僕は先にも述べたように、僕が大嫌いなのだ。
独りが心地よくて、今日もこうして、僕は雨の中をゆく。
僕は人が踏み込むことを忘れたように、すっかり表から疎外された路地裏をゆったりと歩いていた。もちろん雨の日だった。遠のいて行く様々な足音。疎外される世界。だんだんと世界が僕を世界から離していく。離れた先には一体何が広がっているのだろう。何が僕を待っているのだろう。きっと何処までも空虚なのだろう。きっと何処までも穏やかなのだろう。そこには雨の奏でる旋律しか聞こえてこない。僕は呼吸すらもわすれてその旋律に陶酔するのだ。嗚呼、それはなんて心地の良いことなのだろう!
しかし僕の考えは呆気なく外れてしまう。
そこには人らしき影があった。
僕は人に触れる恐怖を思い出した。僕は人が怖い。僕はそれ以前に、僕が怖かった。誰もが僕を臆病だといった。…満足だった。
そう思われることで、僕は人に嫌われる権利を失うことが出来た。つまりそれは好かれる権利を放棄することだった。僕はそれがどうしようも無く心地よかった。心地よくて仕方なかった。
だってそうすれば、僕は傷つかなくて済む。
そういう理由で、僕は孤独を好んだ。独りになりたくてこの疎外された空間に来たというのに、そこに人がいたとなっては、本末転倒だ。
僕はすぐに踵を返そうとした。
「ねえ、」
影でしかとらえることの出来なかった距離の筈なのに、呼びかける声は真後ろから聞こえてくるように鮮明で、はっきりしていた。
「待って、」
それは明らかに僕に向けての声だった。僕は無視を決め込んだ。
鮮明に聞こえてくる声を、僕は恐れた。それはどういうわけか、僕の耳に直接ささやきかけてくるように、聞き逃すことを許してはくれない。
「こっちを向いてよ、ほら」
楽しそうに笑う声。…嗚呼、この声がどうしても僕の心を劈く。
僕は仕方なしに足を止めた。何処までも着いてこられたら困ると思ったからだ。そんなの耐えられない。そんな最悪の結末になるくらいなら、ここで終止符を打つのがどれだけ良いかを考えた結果だ。
「嫌だよ、」
「どうして、」
素っ気なく返事をしても、声はどうしても僕を解放してくれない。声色で相手は自分と同じくらいの年代の少年であると判断した。…否、性別は甲乙付けがたい。まだ幼さが残る中性的な声色だ(それでも僕は相手が男であると決め込んだ)。
どうしてだろうか、僕はこの声を何処かで聞いたことがある。でも、何処で聞いたか、いつ聞いたのかはさっぱり思い出せない。
「人が嫌いなんだ、僕も嫌いなんだ、全部嫌いなんだ」
「どうして嫌いなの、」
「どうしてって…」
僕は言葉に詰まってしまった。どう答えて良いのかまるで分からなかった。 今まで嫌いな理由なんて考えたことなどがなかった。必要ないと思っていたし、嫌いなものは嫌いなのだ。
彼はそんな僕の戸惑いに気付いたように、くすくすと笑う。僕は無性に腹が立った。
「雨は好き?」
彼は重い空を仰いでしばらくしてから、不意にそう訪ねる。僕は、彼は僕が雨が好きであることを知っている上でこの質問を投げかけてきたような気がしてならなかった。そう思えばいっそう、素直に答える気など失せてしまう。
「君には教えない」
「どうして教えてくれないの」
「嫌だ。…話しかけないで。僕は独りになりたい」
僕は決して後ろを振り向かなかった。今すぐここから逃げ出したいのに、どうしてか、足が地面に捕らわれたように動かない。それは泥濘に沈んでゆく感覚だった。少しずつ、少しずつ、それでも確実に僕は沈んで行く。
僕は咄嗟に足下を見た。そこには先ほどはなかった水溜まりが広がっている。
雨はそこに、僕の顔を反射させない。僕は不意に、僕の顔はどんなものだったかを考えて絶句した。…分からない。
「離して、君でしょ」
僕の目はだんだんと水溜まりが路地裏の地面を浸食していくのをとらえた。なんの根拠もなしに、僕はそれを彼の所為にする。膝下まで来た水溜まりに、僕は息を呑んだ。
「僕の名前を聞いて、ねえ、僕は今僕を探しているんだ、君、知らない?」
「嫌、離せッ」
上がって行く水位を気にしながら、僕は彼が僕の躰にまとわりついてくる感覚に襲われる。僕はそれを振り解こうと腕を振る。しかし何の感触もしなかった。
やがて水は僕をすっかり飲み込んだ。
*
「僕」は何処にいるの、僕は何処にいるの、ねえ、教えて、教えて―――…
僕はキヲクの中を浮遊した。彼の言葉が幾度も頭の中で谺した。
気が付けば、僕は寝台の上に眠っていた。
起き上がってみると、そこは明らかに僕の部屋だった。
泡沫微睡んだ後、僕は今までのことが夢であると悟った。締め切られたカーテンを開ける。
…雨だ。
僕は胸をなで下ろす。
雨はまだ僕をおいて何処かへ行ったりはしない。結局雨はきっと僕を守ってくれる。このおかしくて仕方ない世界から僕を守ってくれるのだ。
「君は、どうして見てくれない―――」
背筋が凍り付いた。それはやがて全身を拘束した。動かない躰を気にせず、僕は首の回る最大まで、突如聞こえてきた声の根源を探そうと部屋中を見回した。
僕は独りだった。だのに、声が聞こえる。
「僕は誰、」
「何処に、ッ…誰、」
「何故君は僕を見てはくれないの」
耳元を掠める声、それは直接脳を刺激しているようだった。耳を塞いでも、僕は、僕は誰、と囁かれる。
僕はその声が先ほど夢見ていた時に出てきた彼の声に似ていると思った。
それにしても、僕はこの声を何処かで聞いたことがある気がしてならないのだ。
「ねえ、本当の君は何処にいるの」
トン、と窓を叩く音がする。
僕は咄嗟に窓を見た。
窓は僕の部屋を鏡のように映し出した。しかし僕だけ反射しない。僕のいる場所だけ真っ白になっていて、確かに窓は僕以外を反射させている筈なのに、僕だけを映してくれない。僕は不思議に思った。
「ねえ、君は誰。僕は何処にいるの。」
彼はそう言って、くすくすと笑った。
「僕は僕だ」
「僕って誰、君の名前は、君は何なの」
先ほどから彼は君は何、僕は何としか言わない。そんなの知らない。僕は僕だけで精一杯なのに、僕以外なんて構っていられるわけがない。僕は僕だ。僕だけの、…僕だけのものがある限り、僕は僕以外の何者でもない。
そこまで考えて、僕は言葉を失ってしまった。
僕は僕の何を持っているんだろう。
僕だけの顔、僕だけの手、僕だけの躰、声…名前。
……あれ…ッ―――…
「ねえ、僕は僕の何を知っているの、」
僕は窓ガラスに反射しない僕を不思議に思っていた自分に不思議に思った。
…僕はどんな顔をしていたっけ。どんな躰をしていたっけ。僕の名前は、声は―――…分からない、思い出せない。
僕は自分を抱きしめた。腕は空を掴んだ。僕は視界に僕の腕を入れる。この腕は僕の腕だっただろうか、この手は、指は、僕のものだったろうか、僕は何だったっけ…。
気付けば、僕は窓ガラスを割っていた。そこから雨が部屋に入り込む。
雨が僕の部屋を浸食し始めた。
はらはらと落ちて行く雨に目を向けていると、急に雨が強くなる。いつの間にか窓ガラスが消えていた。大粒にかわっていく雨に、僕はだんだんと痛みを覚えた。
痛いと感じている以上、僕は僕の器をもっているらしかった。
雨は僕を貫くように激しさを増していった。
目を瞑ることすらどうするのかを僕は忘れつつあった。結局この視界は誰によって映された世界なのだろう。止まらない疑心暗鬼に陥り始めていた。
「ほら、君は何を知っているの、」
聞こえてくる彼の声が、僕に重くのしかかる。
「僕は…知らない、…何も…ッ…何も知らない――」
…知りたくない――……
「嗚呼、なんて弱い君、」
何かが弾けた音がした。
気付けば雨など降っていなかった。彼の声も途端に消えてしまった。 割ったはずの硝子窓は何事もなかったかのように平然としている。
僕は雨の降らない空を見つめた。まぶしい太陽は僕を溶かすように燦々としている。その光が本当に自分を溶かしていると気付くのに、そんなに時間は要らなかった。視界に入ってきた僕の指令で動く指が蝋のように溶け始めている。僕は指だけでおさまるはずがないと思った瞬間、鏡を探した。立ち上がる足も少しずつ溶け始める。僕は蝋のように溶け始めた指で勢いよくカーテンを閉めて日光を遮断した。それでも溶融は止まらない。僕は必死で鏡を探した。頭が混乱して、僕は鏡の居場所を思い出せずにいた。僕はやっと壁に掛かっている小さな鏡をみつけ、そこに自分の姿を映した。
映した筈なのに、そこに僕の姿はない。
「…どうして…」
僕はその後に続く言葉を失ってしまった。
僕は言葉を発しているはずなのに、口はおろか、顔も躰も見当たらない。
鏡は僕を反射させてくれない。
「どうして、」
…声が聞こえる。
「どうして君は僕を見てくれない」
…僕はこの声を聞いたことがある。
「僕をみて、僕をみて」
…嫌、嫌…
「嫌だッ!」
鏡の中から影が現れる。それは手の形を成して、僕を呑み込んでしまった。
*
雨が降っていた。
僕は何もない殺風景な道を歩いている。
僕はどうしてここにいるのかも分からない。ただ歩いている。そこに僕の意志は反映されない。
僕はなにも考えることもなくその道を歩いている。視覚は土砂降りの白い雨を捕らえた。聴覚は雨の無機質な音を捕らえた。触覚は冷たさを感じさせる。味覚は感じられない。嗅覚は効かない。
僕はただ歩くことに夢中で、目の前に現れた大きな水溜まりに気付かないでいた。
足を水溜まりに入れた瞬間、水は僕を包み込んで離さなかった。
*
僕はいつだって、君を愛したいんだよ。
僕はいつだって、君の近くにいたんだ。
僕はいつだって、君に囁きかけている。
*
「僕はいつだって君なんだ」
彼は僕を抱きしめているようだった。。
不意に現れた彼の声は、やはり何処かで聞いたことがある声だった。僕は覚醒しきれていない頭で、彼から伝わってくる温かさを感じ取った。。
僕は彼に目を向けた。彼の顔は、影になって伺えない。それでも僕は、彼の頬に触れようと手を伸ばした。しかし僕の手は彼を貫いた。幻なのか、と思いこそすれど、彼の温もりは確かに感じられた。
「君は誰、」
「…君は誰。」
彼は僕が出した質問に答えることはしないで、同じ質問を僕に投げかけた。僕は僕が誰なのだろうと考える。僕は僕な筈なのに、僕は僕の顔も、声も、指も、名前すらも、何も思い出せずにいる。
…僕はいつから独りなんだろう。
「君は誰、」
彼は再び僕に質問を投げかけた。彼が僕と同じように、僕の頬に触れる。
僕はこの手の温かさを何処かで感じたことがある。彼は僕の頬を軽く指で掠めて、離れようとした。僕は咄嗟にそれを阻止してしまった。彼の指を握る。そのまま上へ、上へと触れていった。彼の顔にまで指が届いたとき、僕は彼の頬に触れられた。
「…嗚呼、…そうか、」
僕はもう片方の手で、彼を抱きしめた。伝わる温もりが僕の中に入り込んで体内で暴れた。涙が急に溢れてくる。僕は涙を拭うこともせずに、彼を抱きしめて顔を見つめた。
雨が彼を濡らして行く。そこからだんだんと彼の顔が現れ始めた。
僕はこの顔を知っている。僕はこの顔と温もりを知っている。そう思えば思うほど、涙ははらはらと流れ落ちた。落ちた場所から、雨がほどけるように捌けてゆく。そこから光が線となって僕たちを照らした。彼は笑って僕に問いかける。
「僕は誰、」
僕は泣きながら、それでもはっきりと彼に言った。
「君はいつだって、僕なんだ…」
雨が止んだ。
最後の一滴が、彼の足下に掬われた。そこから滲んでゆくように、彼は粒子となって消え始める。
彼は最後に、笑いながら、道標、と囁いた。
「君の名前は、」
目を細めて笑い続ける僕の顔、質問する僕の声。
「僕の名前は、」
彼はもう上半身まで消えかけていた、それでも彼は笑う。僕は彼との調和を図る。彼はそれに気付いて首を傾げた。
「…花梨、」
何かが弾ける音がした。それは僕の胸を貫いた。空洞化した胸に、彼はすっかりと収まった。胸がいきなり熱くなって、それは僕の中を流れてゆく血汐なのだと思った。
僕は目を瞑って、僕を抱きしめた。
僕はいつだってひとりなんだ。
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