ハルジオン③ 【小説版悪ノ娘・白ノ娘】
第一章 黄の国の暴君 パート2
剣の訓練を終えたレンは汗に汚れた訓練着を脱ぐと、普段召使として使用している、少年の身には少し威厳がありすぎる執事服に着替えを済ませた。そして、時刻を見る。
「もうこんな時間だ。」
時計の針は午後二時半。そろそろリン女王のおやつの時間だった。一日で唯一の楽しみの時間であるおやつの時間に遅れるとリン女王はひどく怒る。早く行かなきゃ、とレンは考え、少し急ぎ足に厨房へと向かうことにした。その途中、レンは慌てた様子の女官に出会った。
「どうしました?」
急ぎ足にリンの私室へと向かっている女官にそう声をかけると、女官は少し安堵した表情でこう言った。
「レン、丁度よかったわ。リン女王陛下にお手紙が届いているの。」
「お手紙ですか?」
「そう。持って行ってもらってもいい?」
「分かりました。」
レンは一つ頷きながら女官から手紙を受け取り、差出人を確認した。
あ、と思わず声を上げる。その手紙の主は、リン女王が間違いなく喜ぶだろう相手からのものであったからである。
つまらない。
アキテーヌ伯爵の諫言を思い起こしながら、リンは一つ、溜息をついた。
王宮の最上階に設置されているリンの私室からは城下町の様子が一望できる。黄の国の城下町は王宮を中心に、半径約三キロの円を描くような造りをしていた。王宮の東西南北の正門から放射状に延びる四本の大通りを基本とした、網の目の様な道路網が特徴の街である。
リンは窓際の椅子に腰かけ、肩肘を窓枠につきながら大通りの一つを眺めた。その大通りを往来してゆく人々の様子を確認してから、リンはこんなことを考えた。
別に、何も変わらないじゃない。危機的状況だなんて、とても見えないわ。
リンにとっては飢饉という状況が今一つ理解できなかったのだ。城下町の様子は生まれた時と何も変わらず、人々だっていつもと同じように生活している。
別に、あたしがいなくても国家なんて運営できると思うわ。なのに、どうしてあたしは女王なのだろう。自由もない。意思もない。ただ、玉座に居座っているだけの存在なのに。
どうしてお父様は国王をしたのかな?
訊ねたいが、今は聞くこともできない。王女であった時点では気にも留めなかった疑問であった。
贅沢をするため、ならつまんない。でも、それ以外何もできない。
そう考えて、もう一度溜息を漏らしたリンは時計を見た。
そろそろおやつの時間だわ。リンがそう考えた時、私室の扉がノックされた。
「入って。」
レンが来たわ、と直感的に判断して入室を促すと、リンの予想通りの人物が姿を現した。片手におやつの載ったトレイを持ったレンが恭しく入室する。
「如何されましたか。」
入室して一言目、レンはリンにそのように訊ねた。
「何が?」
「少し、ご機嫌が悪い様に見受けました。」
「よく分かったわね。」
「勿論。リン様のことでしたら全て理解しております。」
どうしてだろう、とおやつの準備をしているレンの姿を眺めながら、リンはそう思った。長年主従関係を結んできた者の洞察力なのだろうか。それにしては、少し感覚が違う気がする。まるで、もっと深いものでお互いが繋がっているような感覚。全てが理解しあえるような感覚。
そんなこと、ある訳がないのに。
「少し、お疲れの様子ですね。」
珍しく思索に耽ったリンを見て、同じように何かを感じるところがあったのだろう。おやつの準備を終えたレンはそのようにリンに訊ねた。
「いいえ、なんでもないわ。」
「私で宜しければ、お話をお聞かせ願えませんか?」
そのように訊ねられて、リンは少し考えた。そして、やはり相談できそうな人間はレンしかいないという事実に思い当たる。
「内務大臣がうるさくて。」
「アキテーヌ伯爵でしょうか。」
「そう!国が危機的状況だから節約をしろ、なんて言うのよ!でも、ここから城下町を眺めても普段通りだし、別に危機的状況だなんて感じないわ。どうしていつもあんなことを内務大臣は言うの?」
一度溜め込んでいたものを吐き出すともう止まらない。一息にそこまで言うと、リンはレンの蒼い瞳をまじまじと見つめた。どう答えたらよいのか分からない、というような戸惑いを瞳の奥にちらつかせながら、レンはようやく口を開いた。
「内務大臣は責任の重い役職です。」
「責任なんて。いつもお小言をあたしに言ってくるだけよ。」
どうしようか、とレンは返答に詰まりながらそう思った。
実際、厨房への出入りが多いレンは黄の国の飢饉の状況をリンよりも深く知る立場にあったのである。今日も料理長がよい材料が手に入らなかったと嘆いていたから、おそらく穀物状況が相当に悪いのだろうということは、レンも理解していた。
でも、そのことをリン女王に伝えていいのだろうか。
伝えたらリン女王はどんな表情をするのだろうか。怒るのだろうか。悲しむのだろうか。
どちらにせよ、笑顔は見られない。
「・・いいわ、もう。」
なかなか返答をしないレンに対して、少し諦めた様に、リンはそう言った。
「申し訳ございません。」
「いいわ。言いたいことを言って少しは気が晴れたし。ところで、剣はまだ訓練しているの?」
「はい。まだメイコ隊長に敵いませんから。」
「ふうん。」
召使なのだから、別に剣など強くなくてもいいのに、と思いながらリンはいつの間にか用意されていたおやつに手を伸ばした。今日のおやつはドーナッツらしい。揚げたての、食欲をそそる香ばしい香りがリンの鼻孔をくすぐった。
一口食べて、おいしい、と述べると、レンはようやく安堵したようにわずかに口元を緩め、そしてこのように告げた。
「そういえばリン様、お手紙が届いております。」
「手紙?どなたから?」
一口目のドーナッツを飲み込んだリンはレンにそう訊ねながらレンが差し出した手紙を受け取り、そして差出人を確認した。途端に、リンの表情に喜色が走る。
「まあ、カイト王からだわ!」
カイト王は齢二十歳。青の国の国王であり、リンとは許嫁の関係にあたる。その取り決めはもう五年以上前に決められていたことではあるが、結婚はリンが十六になった時に、という取決めがあった為に、現状ではこのように手紙のやり取りをすることがカイト王とリン女王の主なやりとりとなっていた。しかし、以前は毎日のように届いていた手紙も、カイトが国王に即位した一昨年からは多忙の為か頻度が下がっており、今は月に一度届けばいい方だ。それでもリンにとっては大切な手紙であることは間違いなく、このように手紙が届くといつも満面の笑顔を見せるのである。
良かった、機嫌が直って。
用意されたおやつのことも忘れて手紙に没頭し始めたリンの姿を見ながら、レンは思わず安堵の吐息を漏らした。
やがて、手紙を読み終わったリンは、レンに向かってこう言った。
「レン、気分が良くなったわ。せっかくだし、お花を摘みに行きたいわ。」
リンは春風のような笑顔を見せた。その笑顔を見て、レンは最敬礼を行いながら、こう言った。
「畏まりました。では、早速手配致しましょう。」
愛馬ジョセフィーヌの用意ができたとレンから伝えられたリンは、久しぶりに解放感に浸りながら王宮の階段を下りて行った。その後ろに多くの女官がついてくる。紅いカーペットで舗装された王宮の廊下を歩きながら、今日はどこに行こうか、とリンは考えた。
この時期なら、あたしの好きなあの花が咲いているはず。
リンはそう考えながら中庭に到達すると、愛馬ジョセフィーヌの背中に跨った。レンもリンの隣で騎乗を終えている。レンが背中に背負っているものはおそらくギターだろう。お花畑であたしが好きな曲を演奏してくれるつもりらしい、と考えたリンは、レンに向かってこう言った。
「レン、ハルジオンを摘みたいわ。」
「畏まりました。」
レンはそう告げると、リンを先導して馬を進め始めた。ゆったりとした歩調で馬が歩き出す。リンも、ジョセフィーヌの手綱を僅かに緩めた。レンと同じように頭の良いこの馬はリンの望むままに動いてくれる。リンを不快にさせない、丁度よいスピードで騎乗を続けること小一時間余り、リン達の一同は城下町を遥かに見渡すことができる目的の草原へと辿りついた。一面、白と黄色に染まっているその平原に降り立ったリンはふんだんに深呼吸をした。なかなか外に出る機会が無いものだから、草木の香りがひどく心地よい。その隣に、レンが控えた。
「レン、ハルジオンを摘んで。」
そのレンに向かって、リンはそう言った。
「はい。」
恭しく頷いたレンはそのまま膝を屈め、ハルジオンの採取を始める。白と黄色の花弁が特徴の小さな花である。リンはこの花が好きだった。自分の髪の色と同じ黄色を中心にして、白の花弁が取り囲むように開いている。あたしはこの国の中心。それを端的に表している花だと考えているのだ。
「そのくらいでいいわ。」
レンが片手で収まらないくらいにハルジオンを摘んだところで、リンはレンに向かってそう言った。
「分かりました。この花はリン様のお部屋にお飾りすれば宜しいでしょうか。」
「そうね。」
レンの言葉を受けて、リンは少し考えるように視線を空に彷徨わせた。空はどこまでも蒼い。まるであたしの瞳のようね、と考えてから、リンはレンに向かってこう言った。
「一つは押し花にして栞にしなさい。他はあたしの部屋に飾って。」
「承りました。」
「それから、王宮に戻る前に、あなたの曲が聞きたいわ。」
「畏まりました。曲は何に致しましょう。」
「『海風』を。」
「では、準備致します。」
レンはそう言うと、それまで背中に背負っていたギターを背中から外し、そして慣れた手つきで構えた。レンが音楽を奏で出したのはいつのころだろうか。もう十年ほど前にあたしが歌を聞きたい、と駄々をこねた時、レンは困り切った表情でギターを手にして、奇妙な曲を弾いた。それから十年。レンのギターはすっかり上手くなり、リンが聴いても心地の良い音を響かせるようになっている。
「それでは、失礼致します。」
木製のギターを手にしたレンは、そう言うとイントロの音を鳴らしはじめた。ミルドガルド大陸でも黄の国では一般的に歌われる民謡である。季節風への感謝と、恵みの雨を祈願して作られた曲だ。リンはこの曲が特にお気に入りだった。歌いだしたレンに合わせて、リンもメロディーを口ずさむ。
歌い終わると、リンは満足したように頷き、そしてこう言った。
「いい演奏だったわ。」
「ご満足いただけましたでしょうか。」
ギターの構えを解いたレンは、リンに向かってそう言った。
「満足したわ。では、王宮に戻りましょう。」
リンはそう言うと、少し離れた場所に繋いであるジョセフィーヌの元へと歩いて行った。その後ろを、召使であるレンが続く。
今年はちゃんと季節風が吹けばいいのだけれど。
レンはリンの後ろ姿を見ながら、つい、そんなことを考えた。
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