次の日、七河は仕事のため、出社した。
 大手町の駅からそのまま地下を100メートルくらい歩くと会社のビルに直結しているエレベーターがあり、七河の会社はそのビルの22階にある。七河は現在打ち合わせが終わり、喫煙所で一服しているところだった。
 七河は主に自宅で作業をしていて、打ち合わせ等があるときにだけ出社する。大体2週間に1度だ。七河は現在26歳。この歳でほぼ理想どおりの生活を手に入れていた。
 まず主な仕事場は自宅というところが一番大きい。毎朝決まった時間に会社に行くことが一番の苦だったので朝起きてベッドから5秒のところに仕事場があるのは、とても時間を有効に使えるし気分的にもリラックスした状態で作業ができる。
 その状況になったおかげで七河は空いた時間でいくつかの趣味ができた。気分が乗らないときは絵の練習をしたり、散歩をしてみたり、読書に明け暮れた日々もあった。どれも幸せな時間だ。
 ただ仕事が忙しくなると、1週間デスクのパソコンの前に寝るとき意外座り続けているということも珍しくない。それはそれでつらいものがある。
 「よお、おつかれ」
 喫煙所の窓の外を見ながら無心にたばこを吸っていると、突然声をかけられた。いつ入ってきたのか全く気づかなかった。
 「おつかれ」
 声をかけてきたのは会社の同僚、馬場和也(ばばかずや)である。会社の知り合いとしては七河にとって比較的友達に近い関係だ。馬場と親しい人は彼の事をばばかずやを略して『バカ』と渾名を設定して呼んでいる。
 背は178センチくらいで七河より全体的に一回り大きい体格で、髪は短めでいつも前髪を控えめに立てていているのが特徴的だ。
七河は何回か二人で飲みに行ったりもしたし、馬場の家にも遊びに行ったことがある。同じジャンルの趣味も馬場はもっていたし、話があうのだ。
現在は同じプロジェクトの仕事をしているので、仕事の面でも話す機会が多い。先ほどの打ち合わせも馬場は出席していた。
 馬場はシャツの胸ポケットからタバコを取り出し火を点けた。
 「まったく。今回のプロジェクトは気が進まないよ。食品関係なんて俺初めてだし」
 「そうかな」七河は適当に返事をした。
 「おいおい、どうしたんだよ。疲れたのか?」馬場は言った。
 「え?そんなことないけど……」「なんで?」
 「おまえ、なんかぼぅーっとしてなかったか今」
 七河は自分でぼぅーっとしてるなんて思わなかったが確かに考え事をしていた。
 「いや、ごく普通だよ。馬場は今日は帰るの?」誤魔化しながら七河は話題を変えた。いつもと様子が違うのは自分でも分かっていた。ただそこを問われると非常にまずいことになる。
 「今日は少しここで仕事してくかな。なあ、今日終わったら神田に飲みに行かないか?」なにか面白い話があるのか、にやにやしながら馬場は言う。
 「今日はちょっと、駄目かも……」
 「駄目かも?」馬場は目を細め鋭い視線を送る。
 「いや、駄目だ。今日は駄目」七河は慌ててきっぱり断った。自分らしくないなと思いながら。
 「そうか。じゃあまた今度な。お前はどうするんだ?この後」
 「僕はそろそろ帰るよ、家に用事あるし」
 「家に用事は誰だってあるがな、んじゃまたな、おつかれ」馬場はタバコを揉み消し喫煙所を出て行った。
 (さて、帰るか)
 七河はため息と一緒に煙を吐き出し、タバコを揉み消し喫煙所を後にした。
 簡単にプロジェクトのメンバーに今日は帰ると告げ、七河はそのまま大手町の駅に向かった。来た時と同じように会社のエレベーターに乗りそのまま駅に繋がっている通路にでる。まだ昼過ぎなのであまり人は歩いていない。100メートル程歩いたところでさらに地下に行くエスカレーターに乗り改札を通過し駅のホームに立った。すると丁度良く電車が滑り込んできたので、七河はそれに乗り適当に空いているシートに座った。20分程座っていると電車は最寄の駅に到着し、七河は電車を降りた。
 今日は真っ直ぐ自宅に向かった。
 公園にも寄らず、本屋にも寄らずに真っ直ぐ……早足で……
 そして10分程で自宅に到着した。時刻は14時。七河の自宅は7階建てのマンションの2階の角部屋。
 玄関の前に立ち鞄からカードキーを取り出し読み取り機にスライドさせると電子音が鳴り鍵が開いた。
 そっとドアを開け、家に入り鍵を閉めた。まるで、他人の家に上がるみたいだ。
 七河はとりあえず寝室兼作業部屋に向かった。玄関から最初のドアを開くとキッチンがあり、そのさらに奥のドアを開くと寝室兼作業部屋がある。
 かつて自分の家にいるのにこんなに緊張していた事は無かった。
 作業部屋のドアを開くとそれはあった――
 初音ミクタイプのヴォーカロン。
 それは昨日七河が公園から持ってきたものだった。否、持ってきてしまったもの。
 七河は昨日、救急車が来る前に急いでヴォーカロンを担ぎ、その場を後にした。自分でも良くわからない行動だった。頭より先に体が反応してそれに従って行動するなんて久しぶりの事だった。その後どうなったかは分からない。連絡もこない。
 家まで運ぶのにはかなりの重労働だった。20キロ以上はあるヴォーカロンを雨の中出来るだけ人目に触れず運んでくるのは精神的にも大変だった。この時ばかりは2階で本当に助かった。
 これは人様の物を盗んでしまったのか?
 しかし状況が悪かっただけに七河は捨てられているものと確信していた。服こそは着ているものの家に持ち帰ってよく見てみるとボロボロだった。手足や顔、人間でいう皮膚の部分もコーティングが所々剥げているし、ヴォーカロンの主電源も落ちている。
 七河はとりあえず1週間様子を見ることにした。何か連絡があればすぐに返そうと思っていたしすぐに電源をオンにするには少し危険そうだったからだ。感電もしたくない。
 現在七河が持ってきたヴォーカロンは部屋の奥のソファに座らせてある。ベンチに座っていた時と同じ格好だ。
 静かにそこに沈んでいる。当然だが息もしていない。しかし一見人間にも見えるヴォーカロンである為、息をしていないという単語は七河には馴染まなかった。
 七河はまずデスクのパソコンを機動させてざっとメールをチェックした。特に重要なメールは無かった。いらないメールを一通り削除した後にさっそく仕事を始めた。
 これから開発にあたる某大手食品メーカーの業務システムの開発で七河はまず設計書を見直した。30分くらい見直した後コーヒーを入れるためキッチンにお湯を沸かしに行く。お湯を沸かしている間にも設計書の確認作業をしていた。
 しかしどうも視界の端に映るヴォーカロンが気になったので、仕事に集中できるようにヴォーカロンをキッチンの奥に移した。お湯が沸いたのでコーヒーを作って再び設計書の確認作業をする。
 10分くらい経つと携帯の着信が鳴った。馬場からだった。
 「はい、もしもし」
 「もしもし、お疲れ。馬場だけど」
 「うん。どうした?」
 「明日、おまえんちでプロジェクトの打ち合わせしたいんだけどいいかな?」
 「うーん、明日か……」キッチンの奥にあるヴォーカロンを横目で見ながら悩んだ。まだヴォーカロンを人には見られたくなかった。
 「どうせ家にいるんだろ?まあ手土産くらいもってくからさ」
 「何人?」七河は出来るだけ不信感を抱かせないよう聞いた。
 「俺だけだよ」
 「分かった。何時ごろ?」七河はとりあえず隠しておけば大丈夫だと思った。咄嗟の事だったので、上手い言い訳が思いつかなかった。
 「うーん、昼過ぎかな。別に俺も何時でもいいんだよね。ちょっと相談したい事があってな。それじゃあ2時くらいに行くよ」
 「分かった。じゃあ待ってるよ、また明日」そう言うと七河は電話を切った。電話で相談じゃ駄目なのかと思ったが、これが馬場の癖で直接話しをしたがるタイプなのだ。
 コーヒーが丁度良い温度になったので一口飲みタバコに火を点ける。
 とりあえず今日いっぱいは仕事をしてヴォーカロンの事は明日の午前中にでも考えようと思った。
 七河はその後、6時間キーボードを叩き続けその日の仕事を終わらせた。コーヒーはその一口飲んだだけで仕事が終わった時にはすっかり冷たくなっていた。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
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2話目です。

閲覧数:31

投稿日:2011/10/09 11:48:52

文字数:3,418文字

カテゴリ:小説

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