宵の口から土砂降りの雨を降らせていた雨雲が、深夜を過ぎると雷を落とし始めた。
地が裂けたかと思うような雷鳴が鳴り響き、ミクは目を覚ました。
彼女は普段子供のように眠りが深く、滅多に夜中に眼を覚ますことはない。
あたしが起きるくらいだから相当近いわね…。まあいいや、寝よ…。
再び枕に顔をうずめる。しかし、すぐに肩を揺すられて夢の世界から連れ戻された。
「…ミク姉、ミク姉」
顔を上げ目をこする。リンだった。大きな枕を抱いている。
「…リン? 何? こんな夜中に……」
「…雷、怖いの……」
何言ってんの、子供じゃあるまいし――。
そう言おうとしたとき、稲妻が部屋を白く染めた。
ひどく怯えたリンの顔が、一瞬闇に浮かび上がる。
間を置かずに、窓ガラスが震えるほどの雷鳴が轟いた。
リンは悲鳴を上げて耳を塞いだ。抱いていた枕を取り落とす。
「リン、おいで」
ミクは布団をめくり、リンを招いた。
リンは枕を拾うと飛び込むようにベッドにもぐり込んだ。
両手で耳を塞ぎ、ミクの胸に顔をうずめる。
ミクはリンの背に手を回して抱きしめた。
「大丈夫よ、怖くないから」
リンは、ボーカロイドとしての人気に水をあけられているミクに強い対抗心を抱いている。
だからリンは、ルカに甘えてもミクには甘えようとしない。
ミクは、リンが雷を怖がることを知らなかった。
きっとこれまで、嵐の夜はルカの部屋に逃げ込んでいたに違いない。
今日ルカはCD製作のスタッフに誘われて飲みに出かけている。
ルカがいないからって、あたしのとこに来るなんて、よっぽど怖かったのね…。
ミクはリンが寝付くまで背を撫で続けた。
☆
翌朝、昨夜の雨が嘘のように、空は晴れわたっていた。
午前様のルカが、寝不足の目をこすりながら朝食を用意する。
四人揃ってテーブルにつくが、今日は会話が少ない。
いつも一番喋るリンは、昨日ミクに弱いところを見せたことを気にして黙っている。
ミクはリンのプライドの高さを知っているから、昨夜のことを話題にしたりしない。
二人がギクシャクしていることにルカとレンは気付いていたが、とりあえずそっとしておこうと思っていた。
☆
朝食の後は、みんなでレッスンルームに集まった。
一週間後に札幌市内で大きなライブがあるのだ。
公演の二日前からは本番さながらのリハが始まるので、曲のアレンジやダンスの振り付けを今で叩き込んでおかなくてはならない。
「この後あたしいなくなるから、次リンがリフトで登場ね」
レッスンルームをステージに見立て、セットリストと演出を確認する。
リンが自分のソロ一曲目の歌を歌う。
伸びやかで澄んだ歌声がレッスンルームに響き渡る。
その時だった。曲の途中で突然大音量のノイズが走った。
それはほんの一瞬だったが、耳障りで背筋が寒くなるような音だった。
四人は一斉にビクッと肩をすくめた。
「うえー。何、今のノイズ? 鳥肌立っちゃった」
レンの腕の産毛が逆立っている。
「変ね、うちの機材、ノイズなんて出たことないのに……」
ルカが首をかしげてミキサーをチェックする。
彼らはクリプトンのドル箱なので、高級な音響機器を惜しみなく与えられている。
「…い、今の…あたしだ…」
震える声でリンが言った。他の三人がハッとして彼女に目をやる。
リンの顔は驚くほど真っ青になっていた。
「リ、リン、そんなはずないじゃない。あなたの声にノイズなんか…」
ルカがそう言ったが、確かに機器の不良ではない気がしていた。
「自分で、分かるの…。何で? 何であたしの声…」
「リン、もう一度歌って。最初から」
ミクがコンソールを操作して曲のオケを流す。
リンは躊躇いの表情を見せていたが、曲が歌詞にかかるとボーカロイドの本能で歌いだした。
さっきのことがあったのでいつもの突き抜けたような元気さはないが、普段と変わらない澄んだ声――そう思った矢先、同じノイズが空気を引き裂いた。
愕然とするリン。ルカとレンが心配そうに見つめる。
「…何で? どうして…あ、あたし…ジッ…」
とうとう普通に話している時にもノイズが入るようになった。
「…あたジッ…しの声ジッ…う、ジッ…歌が…」
糸の切れた操り人形のように、リンが床にへたり込む。
ルカが駆け寄り、呆然としているリンの肩を抱く。
「リン! 大丈夫よ! こんなの、クリプトンに行って診てもらえば、すぐに…」
「クリプトンじゃダメよ。剣持さんでなきゃ」
ミクが携帯で電話をかける。
剣持とはヤマハのボーカロイド開発責任者、剣持秀紀のことである。
ボーカロイドの礎となる基本技術を一から開発し、「ボカロの父」と呼ばれている人物だ。
普段は静岡県のヤマハ豊岡工場にいる。
ミクは彼の携帯番号を知っていて、直で電話をかけている。
「あ、剣持さんですか? ミクです。はい、元気なんですけど、ごめんなさい急ぎのお話なんです。リンの声が…」
ミクは事細かにリンの症状を伝えた。
リンがそれを判決を言い渡される被告のような顔で聞いている。
残酷だが、この際仕方がない。
剣持の指示を聞き終わると、ミクは通話を切った。
「リン、剣持さんとこに行くわよ。チケットはヤマハで手配しとくから、すぐ千歳空港に向かってって」
いい終わるとすぐに電話を掛け直し、タクシーを呼ぶ。
うろたえるばかりのルカとレンとは対照的な手際の良さだ。
ミクは普段のほほんとしているのだが、緊急時には突然器量を発揮することがある。
「さ、行くわよ」
ミクがリンの手を引く。ルカが慌てて止めた。
「ちょ、ちょっと、ミク。いくらなんでも手ぶらで静岡へ行く気?」
「要る物があれば向こうで買うわよ」
「日帰りできないの分かってるんだから着替えくらい…ちょ、ちょっと待っててよ!」
ルカは慌てて着替えや身の回りのものをバッグに詰め込み、ミクに持たせた。
ミクとリンがタクシーに乗る。
「新千歳空港まで」
行き先を告げると運転手は二万円近くかかりますよと言った。
ミクは「急いで」とだけ答えた。
タクシーで空港に向かっている最中に、ヤマハからミクへ電話があった。
チケットが無事取れたそうだ。
運転手からボールペンを借り、予約した便の時刻と予約番号をメモする。
☆
ヤマハも心得たもので、予約してあったのは本当にギリギリ間に合うような時刻の便だった。
飛行機の座席はプレミアムクラスで、ちょうど二人の席が独立して並んでいた。
ヤマハの社員が気を使って席を取ってくれたのだろう。
二人が並んでシートに腰掛ける。
席に着くとミクは、ふう、と息をついた。
札幌からここまで慌しかったが、羽田までの二時間は座っているだけだ。
ここまで黙ってミクについてきたリンの顔を見ると、相変わらず青ざめて、死んでしまいそうな顔をしている。
「ヤマハの人が羽田に迎えに来てくれるって。夕方には静岡につけるからね」
努めて穏やかな声で、ミクは言った。
「…ミク姉ジッ…」
レッスンルームを出てから、はじめてリンは喋った。
ノイズを気にしてか、消え入りそうなほど小さな声だった。
「リン、無理に喋らなくてもいいよ」
「…あたジッ…し、歌えなジッ…くなったりしたら…どうジッ…すれば…」
言葉にすることで抑えていた思いがあふれてきたのだろう。
リンの眼からぽろぽろと涙がこぼれた。
「リン、心配ないから、泣かないで」
「…あジッ…たしには…歌しか…うたジッ…えなくなったら、ジッ…もう、何も…」
ミクがリンの手をぎゅっと握る。
「大丈夫、剣持さんが必ず直してくれるから」
「必ずなんジッ…て、どうして分かジッ…るのよ!」
ミクの手を払いのけ、振り絞るような声でリンは言った。
ときおり混じるノイズが痛々しい。
「ミク姉にジッ…は、あたしの気持ちなジッ…んて…どうせ人ごとジッ…としか…」
うつむいてすすり泣くリン。素足の太腿の上に幾つもの涙が粒となって落ちる。
「リン…」
ミクは震える背中を悲しそうに見つめた。
歌えなくなるかもしれないという恐怖で、リンは貝のように心を閉じている。
誰もがかける言葉を失ってしまうだろう。
だが、ミクは唇をキュッと結び、リンの肩をつかんで身体を起き上がらせた。
「リン、あたしの眼を見て」
「嫌!」
リンが俯いたまま頭を振って拒否する。
「リン、あたしの眼を見て!」
さっきよりも強い声で、ミクはもう一度言った。
毅然とした声に何かを感じ取り、顔を上げて眼を合わせる。
リンはハッとした。
ミクの眼は静かで、真っ直ぐだった。嘘やへつらいとは無縁な、澄んだ瞳だ。
「リン、あなたは、何よりも大切な、あたしの妹よ」
ひとことずつ言い含めるように、ゆっくりと話す。
「だから信じて。あたしは嘘なんかつかない。剣持さんなら直せる、本当よ」
穏やかだが、限りない力強さを込めて、ミクは言った。
その言葉は、頑なになっていたリンの心にも染みこんでいった。
「…信じてくれる?」
リンはこくりと小さく頷いた。
ミクが聖母マリアのような優しい笑みを浮かべ、リンの頭を撫でる。
「いい子ね、リン。愛してるわ」
照れもせずにミクは言った。リンの胸がキュンと音を立てる。
泣きやんだリンは、羽田に着くまでおとなしく座っていた。
心を締め付けていた不安が消え去ったわけではない。
それでも、胸に宿った温かいものが、彼女の気持ちを落ち着かせていた。
(…あたし、いつもミク姉に突っかかってばかりなのに…)
隣を見ると、いつの間にかミクは眠っていた。
昨夜の雷で、二人とも睡眠不足である。
安らかなミクの寝顔を見ていたら、リンも眠気が差してきた。
身体をシートに預け、眼を閉じる。
(…ミク姉は、どうしてあんなに確信が持てるんだろう…)
リンはそんなことを考えていたが、間もなく深い眠りの淵へ落ちていった。
☆
(中編へ続きます)
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