第八章 05 前編
「楽師殿。私はもう近衛隊長ではありませんよ。近衛は辞しました。今では近衛のほとんどが賊だった者たちです」
「なるほど……ですが、それを言うなら私ももう楽師ではありませんよ」
 二人とも、お互いの立場の変化に苦笑いしか出てこなかった。
「……それならば、余ももう姫ではないな?」
「それは――」
「……」
 焔姫の言葉に、男と元近衛隊長は顔を見合わせる。
「我々にとっては、姫は……いつまでも姫ですよ」
 元近衛隊長の言葉に、男もうなずく。
「……まったく。身勝手な理屈じゃな」
 しんらつな言葉だったが、焔姫はどうやら苦笑しているらしかった。
 それに気づいて、二人もほほ笑む。
 元近衛隊長はともかく、男はその苦笑に事のほか安心する。焔姫の苦笑は、宰相の反逆以来、傷を負って以来初めての悲愴のともなわない笑みだったからだ。
「……まぁよいわ。して、アンワル。何用じゃ?」
 焔姫の問いに、元近衛隊長は姿勢を正す。
「……は。目下、元近衛兵を中心として、現国王サリフへの反抗勢力を集めております。現在、総勢二十名ほどです。姫がきて下されば、皆の士気は高まりましょう。サリフを討つ事も不可能ではありません」
 そう語る元近衛隊長は落ち着いていたが、その声音は自信に満ちていた。男にも、元近衛隊長の言葉はこの絶望下にやっと差した光明に見えた。しかし、話を聞いていた焔姫の顔はなぜか暗い。
「……」
「……姫?」
 怪訝そうに男が呼びかけると、焔姫は静かに口を開く。
「……多勢に無勢じゃな。余が怪我をしておらなんだら、まだ分からんかもしれんがの」
「それは……」
 元近衛隊長はとっさに反論が出来ず、口ごもる。不利である事は、彼も十分承知しているのだ。自信に満ちた態度は、焔姫を引き込むための演技だったのだろう。
「現状では、死にに行くようなものじゃよ」
「……では、姫が全快するまで待ちましょう」
 食い下がる元近衛隊長の言葉に、焔姫は悲しげにほほ笑む。
「その頃には……守るべき民は殺され尽くしておる。街など残っておらぬ」
「……」
 元近衛隊長も黙り込む。
 焔姫の予測を否定出来なかったからだ。
「余には分からぬ。なぜ皆がそれほどまでに余に頼っておるのかがの。余は、余の考えている以上に皆にとって大事なものだったようじゃが、なぜなのか理解が出来ぬ。余には……大した力など無いと言うのに」
「そんな事はありません。姫は我々皆の希望なのです」
 焔姫の言葉に元近衛隊長がそう反論する。男も同じ気持ちだった。だが、男にはそれを簡単に口には出来ない。
 焔姫の心の殻は、硬いがもろい。何も出来ない現状にそれがくだかれてしまった今、自らを縛り付けていた鎖の締め付けに耐えられず、声にならない悲鳴を上げているのだ。
 本当は「焔姫」である事もつらいのかもしれない。
 今の彼女は「焔姫」ではなく、怪我をしたか弱い女性なのだ。
「……アンワル殿。申し訳ありませんが、日を改めていただいても構いませんか?」
「楽師……カイト殿。しかし、事態は一刻の猶予も――」
「お願いです」
 男は、元近衛隊長を真っ直ぐに見る。彼は男を直視出来ず、視線をそらした。
「……アンワル殿の言う事にも一理あるものと思います。ですが――」
 男は、焔姫を見る。その美しい横顔には、憔悴の跡が見て取れた。
「姫には……休息と、療養が必要なのです」
「しかし――」
「――姫は」
 言いかける元近衛隊長をさえぎり、男は続ける。
「……姫は、父君を亡くしました。王宮を奪われ、自らも深手を負っています。手助けをしてくれた者は処刑されました」
「……」
「傷の治癒だけでなく、心を落ち着かせる時間もまた、必要なのです」
「そのよう……ですね」
 元近衛隊長は、やっとの事でそう言った。
「……姫も、王宮の奪還を望んでおられます。サリフ殿とハリド公に報いを受けさせねばなりません。それに……国王の弔いも、姫の望みです。決して、姫はそれをあきらめたわけではありません。ですが、今少し……姫には考える時間がいるのです」
「……分かりました」
 そう言う元近衛隊長は、ひどく悲しそうな顔をしていた。――打ちひしがれていた、とも言えるかもしれない。
「姫が再び剣を手にしたその時には、アンワル殿にお伝えいたします」
「是非、お願いします。姫の安全は……」
「私が、命に代えてもお守りいたします」
 男が戦えない事を知っているせいか、元近衛隊長は不安そうな顔をする。
「……大丈夫じゃよ。こう見えてカイトは危険に敏感じゃ」
 元近衛隊長を見ないまま、焔姫がそう言う。先ほどの男の言葉に口を挟まなかったあたり、本心に近かったのだろう。
「そうですか。ですが、護衛は――」
「人が増えれば、見つかる危険も増す。……カイトだけで十分じゃよ」
「分かりました。では……姫。お早い回復を祈っております」
「……アンワル。すまんな」
 焔姫の謝罪に少しだけほほ笑むと、元近衛隊長は部屋から出ていった。
「……ふぅ。……カイト、すまぬ」
 元近衛隊長が出ていくと、焔姫は安心したように息をつく。たとえ味方と分かっていても、今の焔姫は気を張らずにはいられなかったのだろう。
「お気になさらず。……出過ぎた真似でしたか?」
 焔姫は笑って首をかすかに振る。
「よい。……助かった」
 そう言って、焔姫はおずおずと手を伸ばす。
 男はその手を両手で包んだ。焔姫の手は、ひどく冷たかった。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
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焔姫 38 ※2次創作

第三十八話

またも文字数オーバーになってしまいました。
続きは前のバージョンにお進み下さい。

閲覧数:88

投稿日:2015/05/03 11:04:08

文字数:2,266文字

カテゴリ:小説

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