心の風景とでも言うべき景色っていうのは、確かに存在する。
そしてそれはふとした瞬間に俺を捉える。そしてかすかな名残惜しさと共に溶けて消えるのだ。

でも。

ぼた、と顎を伝って流れた汗を手の甲で拭い、マンションの小さな窓の外に広がる嫌味な程に青い空に目をやる。

こんなうだるような暑さの夏の日に思い出す風景が、中でもとりわけ懐かしい。
実家にいる時は滅多に思い出すことのなかったその風景。なのに何故か都心に越してきてからは頻繁に思い出す。
ただ、その情景は殆ど記憶の中から消えかけていて、掴もうとしても、それを構成するもののほぼ全てが指先を擦り抜けて溶けていってしまう。残るのは夢から目覚めた後でその夢に思いを馳せるような、名残惜しさと残念さだけ。

だから、俺はそれを思い出すたびに、それが一体いつの風景だったのか―――考え込まざるを得ない。




<私的Dog Day Afternoon 上>




「でもちょっと残念かな」
「何が?」

久しぶりに実家の縁側に座って西瓜を食べながら足をぶらつかせる。生き生きとした草木が目に鮮やかで、俺はほんのりと心が和むのを感じた。
うん、やっぱりここはいいな。のびのび過ごせるし、安心する。お盆とか年の節目にしか帰って来れないのが残念だ。

「え?何がって、決まってるでしょ」

隣に座っているのは同年の従姉、リン。都心の高校に進学して家族でこの地を離れた俺と違い、リンは実家から通える高校を選んだ。だから、小さい頃から双子みたいに同じものを選択してきた俺達は、そこで初めて道を分かつことになった…んだけど、結局特別何が変わったわけでもない。と、思う。
そりゃまあ会う時間は格段に減ったけど、関係性は少しも変わることないままで保たれている。
記憶にあるより少し伸びた髪を揺らして、リンが俺の西瓜に目を付ける。
食い意地の張った奴め…もう少し自重とかを覚えなさい。はしたない。

「去年はレン、部活が忙しいって殆ど家に来なかったじゃん。かなり淋しかったんだから。あ、レンが家に帰ってくるのって帰省って言うのかな?十五年間はここに住んでた訳だし」
「えー?やっぱり今現在親が住んでる家を実家って言うんじゃん?てかどっちも実家で良いと思うけど」
「おお、レンいい事言う!」

隙を見つけられなかったのか、リンの目が俺の西瓜から逸らされる。自分の取り分の残骸が乗った皿を少し遠くへ押しやり、彼女は細い腕を一杯に伸ばして背伸びをする。
…ああ、何が変わったわけでもないって言葉は訂正しようかな。
確かに仕種は小さい頃と何一つ変わっていないのに、その姿にあの頃と随分違う感情を抱くようになったのは何故なんだろう。
吹き込む涼しい風が纏わり付くような湿っぽい暑さを払いのける。リンの髪を飾る白いリボンが、風を受けてひらりと泳いだ。ここはとても居心地が良い。

なんか今って俺、幸せだな、と思う。
気温は嫌になるほど高いくせにクーラーなんてつけないから、肌が乾くことなんてない。サウナみたいだと思うけど、冷房ががんがんに効いた今の家よりはずっと過ごしやすいと思った。これってやっぱり慣れか?

この家とリンは、俺にとってあの日の世界の象徴なんだと思う。多分、なにもかも全てが幸せだったのだと思えた、遥か前の事に思えるけど、冷静に考えればそうでもない世界。
ただ笑って泣いて、思ったままを飾る必要なんてなかった、今はもう手が届かない子供の世界。

…俺は、帰りたいのかな。あの時に。

自問してみなくても答えは分かっていた。


それは、帰りたいに―――決まっている。
責任も重圧も殆ど無かった。勿論今はその代わりに達成感とかを感じられるようにはなったけど、今良いずっと息のしやすかったあの時に戻りたいと思うのは、今の俺にとっては本当に良くある事だった。

苦しくなった胸をごまかすように、西瓜の種を庭に放り投げる。共犯者の笑顔でそれを眺めるリンに、同じ笑みをにやりと浮かべながら聞いてみた。

「よくこうやって種投げたよな」

リンの反応は素早かった。透き通るような声が、開けっ広げな感情を乗せて弾ける。

「西瓜が出来るかも!なんて思ってかなり撒いたね。結局母さんや叔母さんにめっちゃ叱られたけど」
「お行儀悪い!ってね。ははっ、あれ何歳の時だっけ?」
「んー、九歳か十歳くらいじゃなかった?幼気な時代だよ」
「え?そんな時代あったっけ?」
「ちょっ!…だ、駄目だよ、本当であっても言っちゃいけない事っていうのがこの世には存在していてだね…」
「認めてんじゃん!」

笑い声が弾ける。俺も縁側に体を倒すような勢いで笑った。
なんか、こんなに笑うのは久しぶりだ。都心よりこっちの方が湿度が少ないからか、気温としては変わらないはずなのに笑ったり冗談を言ったりする気力が湧いてくる。

―――あるいは、ここだからプラス方向に作用しているのかも。

十七の男にしては随分ロマンチックな考えかもしれないけれど、その考えが何となく気に入った。自分が笑顔になるのが分かる。

「あーあ!懐かしいな。またああいう事気兼ねなくしたいよ!」

背中に軽い衝撃。背中から縁側に倒れ込んだから当然だ。
思いきり伸ばした指先が畳に触れて、それを意識した途端に微かにイグサが香る。そういえば畳の色が結構濃かったっけ。最近畳替えしたのかな?
腕に当たる板の冷たさが気持ち良くて目を閉じる。

暗くなった世界の中、リンの声がすぐ横から聞こえて来た。

「何?レン君にしては珍しく回顧主義ですか」
「そうですよ。俺だってたまには変わらないものを大切にしたくなる時だってあるさ」
「ふふふ、珍しい事もあるものだねぇ」

さら、と衣擦れの音がして目を開けると、すぐ隣でリンが猫みたいに転がっていた。
道理で声が近い訳だ。襲うぞこのやろー。
ぴん、とでこぴんで額を弾いてやると、リンは「あたっ」と叫んで目をしばたたかせた。お返し、とむにむに俺の頬が引っ張られるのは、まあ甘んじて受け入れてやる。痛いわけでもないし、これでお相子だ。
むにー、と俺の頬を摘んだまま、リンが口を開く。
その顔と声に滲んだ複雑な感情に俺は少しだけ目を細めた。

「でもね、やっぱりこの辺も変わってきてるよ。レンがいなくなったこの二年の間だけでも、原っぱがマンションになったり、池が枯れてただの窪地になっちゃったり。いろんなものが消えて、いろんなものが出来てる」
「そっか…」

リンの声と同じ位、聞く俺も複雑な感覚だった。
今や俺達の記憶にしかなくなった場所達。それらが消える瞬間に俺は立ち会えなくて、これからもきっと立ち会えないんだと思うと…なんだろう。胸がざわめく。
ふと、頭の中を情景が過ぎった。あの、懐かしいくせに全然捕まえられない記憶だ。
途端に、居ても立ってもいられない気持ちになる。でもそれが何故だか分からない。だからどうすればこの焦燥感が消えるのかも分からない。
経験的に、この衝撃は無視していれば薄れていくのだと分かっていても…

「…帰れなくなっちゃうな」

特に何か考えていたわけじゃないけれど、口が勝手にそう動いていた。
その言葉を拾ったリンが、きょとんとした顔で俺を見る。

「へっ?」
「!え、あ、いや、ごめん変な事言って。何言ったか自分でもよく…」
「…」
「…あの、リンさん?」

急にリンにまじまじと見つめられて、いたたまれない気分になる。変な事を言った自覚があるから余計平静になれなくて、あちらこちらに視線を動かす。
別に言うつもりでもなかったのに口から飛び出した言葉でこんな反応をされるとは思ってもみなかった。うう、ぜんぜん視線を逸らされないのはキツい。

しばらくそれに耐えていると、やがて変な事に気付いた。
俺は、てっきりリンは「いきなり何変な事言ってるんだろう」って思いながら俺を見ているんだと思っていた。
でも…そうじゃない。その目が映す感情は、明らかに疑問や不審じゃない。
じっと俺に注がれている視線は、何て言うか…確認とか納得みたいな感じだ。黙っているのも呆れているんじゃなく、自分の中で考えを纏めているみたいだし。
そこまで考えて、ちょっと頭が混乱する。

―――だって、リンが何を考え込んでいるのか全然見当がつかない。

だからって「何考えてるんだ」って聞くのもなんだか間が抜けた感じだし、結局俺は何も行動を起こさずに横になったままで硬直していた。
やがてリンが一つ大きく頷く。

そして、彼女は―――その場で跳ね起きた。

まだ横になったままの俺の腕を掴んで、ぐいぐいと引っ張ってくる。引く力に容赦とか気遣いとか、そういう優しい感情が感じられないのは何故なんだろう。つまり痛い。端的に言うと痛い。
あのーリンさん、すっごい痛いです。とりあえず手、離して。腕が抜ける、抜ける抜ける抜けるすっぽ抜けてしまう!

「い、痛、いだだだだだだだッ!!」
「ね、レン、ちょっと来て!」

いつの間にか立ち上がっていたリンに促されて、何とか俺も両足で立つ。素足に板張りの床がひんやりと気持ちいい…筈だけど、それを感じるだけの余裕もなく、またもや腕を引っ張られる。ただ、今度掴まれたのは二の腕じゃなくて手首だ。

「え?わ、ちょ、リン!引っ張るな!っていうか食べたもの片付けないと…!」
「いーのいーの、お叱りは私が受けます。さあレッツゴー!」
「…お前、母さん達に叱られた時辺りから精神年齢上がってないんじゃ…」
「あーあーあー、聞こえないー。とにかくレン、今は黙ってついてくる!文句もツッコミも、あるなら後でちゃんと聞くから」
「……?」

リンの意図が分からない。
でも別にこの命令を拒否する理由もないし、今暇だし…まあ、いいか。
少し首を傾げつつも言われた通りに大人しく従うと、リンは躊躇いもせずに玄関へと向かい、サンダルを突っかけた。
そして、俺を見る。

…え、何それどういう事?
まさか。

「ほら、レン」

リンが当たり前の事を言うような感じで眉を上げる。
示されたのは、男もののサンダル。

「…外行くの?このあっつい最中に?」
「うん。ほら、早く履き替えて!」

磨りガラスの向こうの日差しは、どう控え目に見積もっても三十度を軽く越えている。
暑いを通り越して、もはや痛い域に達している昼下がりの日差しの下にわざわざ出ていくって…正気?
でも、どうやらリンは思い止まるような事はなさそうだ。何をしたいのかは知らないけど、自分の考えに相当乗り気みたいだし。
顔を見るだけでその考えを理解してしまう、リンとの付き合いの長さが恨めしい。

結局俺は溜め息をついてからサンダルに足を滑り込ませた。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
  • 作者の氏名を表示して下さい

私的Dog Day Afternoon 上

残念な感じに時期遅れになってしまったので、せめて上だけでも暖かい日にUPしないと…!と思いまして…はい…
話の時期的にはお盆くらいですかね。

ラムネPで一番好きです。というか、私の中での好きな曲ランキングで相当上位です。
さわやかな夏の歌で、凄く鮮やかな情景の歌だと思います。

閲覧数:916

投稿日:2010/10/01 15:31:08

文字数:4,412文字

カテゴリ:小説

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