彼女は、俺を許してくれるだろうか。
<千引の石に罅入れて>
―――ああ、俺は死んだのだな。
ぼんやりと霞んだ景色の中で、俺の頭の隅の方がそう結論を出した。
感覚は、ある。意識も、ある。それでもここは「違う」のだと、心が確かに理解していた。でなければ、こんなに全てが曖昧であるはずがない。
自分の中で納得したところで、改めて辺りを見回す。
さて、ここは果たして天国だろうか。それとも地獄だろうか。普通に考えるならここはどちらかの筈なのだが、どちらも違う気がする。
天国とするには余りに淋しく、地獄とするには余りに温い。何もないくせに、本当の意味で何もない訳ではない。霞の向こうに見える赤、あれは彼岸花だろうか。
ふと気付くと、少し離れた場所にぽつんと一人の男が佇んでいた。
化け物じみた青い髪が、線香の煙のように微かに漂っている。
表情の窺い知れない瞳が俺を見る。
何か言いたげだ…そう気付き、俺もその目を見返す。
しん、と生暖かい静寂が、満ちた。
『―――此処は狭間』
ふと、その人物が口を開く。
『君を待っていた者が、間もなく此処にやってくる…君が来たと気付いたから』
「…」
待っていた者?
そう問い返そうとして、そこで気がついた。
声が出ない。何故?
『だから君は選ばなければならない。受け入れて苦しむか、突き放して苦しむか』
俺の微かな困惑を気にせず、その存在は続ける。
姿と同じ、薄青色の声で。
つい。
その指先が、滑らかに上がる。
遥か遠くを見透かすような目をして―――その影は言った。
『ほら、来た』
ずる。
湿ったような音が背後から聞こえ、俺は反射的に振り返り…目を見開いた。
金の髪。青い瞳。白い肌と赤い唇。
見たことのある、いや、忘れられるはずのないその顔。
―――リン?―――
「…ぐ…っ!」
意識せずに、足が半歩後ずさる。
抑え切れない吐き気に、俺は口を強く抑えた。
…そうか。
見たくない、と叫ぶ心を押し殺し、俺は彼女を見詰める。
…俺に、会いに来たのか…。
ゆらり、と陽炎のように空気が揺らめく。
顔は辛うじて原形を留めているものの、リンの体は哀れな程溶け爛れている。朽ちた衣との相俟って、それはさながら幽鬼そのもの。
そうなった理由をも考慮するなら、愛という名の執念にこごった死者、とでも言うべきか。何故なら、彼女がこんな姿になったのは―――俺を愛しているが為だろうからだ。
俺に対するリンの、悪く言えば妄執じみた愛。それは、彼女が先に死ぬことで余計に強くなっているのではないだろうか。
愛されている。その事自体は幸せなことだと言えるだろう。
こんな姿になった今でも、彼女は俺を愛してくれている。
そして俺もまた、彼女を――――…
「レンさま…」
その溶けた皮膚が、口が動くのに引きずられてぞろりと揺れた。
健康な肌の色ではない。腐り、黴たような不気味な色をしている。
…駄目だ、見るな、考えるな!
俺は慌てて意識と視線を宙に迷わせた。
そんな俺を真っ直ぐに見遣り、リンは、それだけは生前と変わりのない澄んだ声で笑みを形作る。
「レンさま。ようやっと来て下さいましたか」
「…ああ、来たよ」
そう、俺は死んでここに来た。
…彼女の後を、追って来た。
追いつける筈がないと分かっていても、追わずにはいられなかった。
そして結局、俺は追いつけなかった…のか…?
「リン、…会えたな」
「ええ」
一つ頷いてから、リンは淋しげな笑みを作る。
その笑顔が俺の愛した姿と全く同じで、ぞわりと背筋が粟立った。
「追って来て下さるとは思っていませんでした」
「当然だ」
「何故?」
何故?
リンの問いに、少しだけ戸惑う。
でも、そこで言い淀む訳にはいかない。
俺は、リンの顔を見て口を開いた。
「それは…お前を愛しているからだ」
「嘘吐き」
すぱり、と振り下ろされた言葉の刃に、笑顔のまま固まるしかなかった。
強張った笑顔のまま固まる俺に、リンは少しだけ悲しげに微笑み、所々骨が見える指をこちらに向かってゆっくりと伸ばす―――剥げかけた爪先の黄色の彩りが、かつての艶やかさを失い安っぽい。纏う布切れなどにも華やかな花魁の名残はあれど、逆に言えば名残のみに留まっている。
まるで朽ちた花。
あの大輪の花も、運命に負けたのか。そんな苦い思いが、ふい、と胸を横切った。
「レンさまはそうして私を気遣い嘘を吐く。―――それがどれだけ私を苦しめるか、少しも分かっていないのでしょう。私は貴方を諦め切れずこんなにあさましい姿になってまで此処に来てしまった…さぞ私をお厭いになっていることでしょう」
でもどうしても、追わずにはいられないのです。
腐った花は、それでも美しい声でそう告げる。
『すみません』
一瞬、記憶の中の笑顔が頭の中を過ぎった。
優しく、儚く、許容と諦めと失望と…愛情の混ざった、泣き出しそうなあの笑顔。
『契るべきではなかったのでしょうね…』
美しい夢を夢のままで終わらせまいとして、彼女は動いた。
そして俺が―――その彼女を打ち砕いた。
愛していた。
…筈、なのに。
―――『お先に。お待ちしております』
俺は改めて彼女を見た。
リン。
誰からも―――かつて愛し合っていた俺からも人とは思われなくなり、人としての生ではなく花として散ることを強いられた、孤独な一花。枯れて落ちて朽ちて、それでも尚俺を求めるその存在。
どれだけ強く見えていたとしても、本当は押せば潰れる儚い花だと気付いてやるべきだったのに。のに。のに。…俺は、そればかりだ。
いつだって自分の安全を考えてしまう。
そして、後で必ず後悔する。
どこで繋いだ手を離したのだろう、どこで彼女を諦めてしまったのだろう、そう自責の念に駆られて頭を抱えたあの時もそうだった。
―――そしてそれは、今の俺でもどうしようもない事。何度も変えようとしたけれど死んでも変わらずじまいだった、臆病な自我。
そしてその自我が、今、目の前に立つ幽鬼の存在を否定している。
醜く。
哀れで。
恐ろしい。
外見で誰かを判断する、なんて愚かな真似はしないと思っていた。でもそれが飽くまで「思っていた」だけだったことを思い知る。
愛したい。
でも、愛せない。
―――『君は選ばなければならない。受け入れて苦しむか、突き放して苦しむか』
あの青い影が告げた言葉を思い出し、唇を噛む。
今の彼女を受け入れたところで、俺は愛せない。
だからといって突き放せば、永遠の後悔に身を苛まれる。
どうすれば良いんだ…!?
頭を掻きむしりたくなって、強く目を閉じる。
救いはないのか。俺達には、もうどうしようもないんだろうか。
死して尚―――
―――…死して、尚?
はっ、と目を開ける。
そうか。
…そうだ。
そうだった。
「リン」
方法はある、かもしれない。
リンを救い、俺を救う、賭のようなたった一つの方法。
確実な方法ではない。
でももう…逃げられないから。俺が代償として支払うべきこの心を確実にリンに届けるために思い付く事が出来たのは、これくらいなんだ。
だから、俺はリンに笑いかけた。
「今、一緒に死のうか」
心中者は来世で男女の双子になるという。
それならば今度こそ、俺はリンの手を取る事が出来るだろう。何と言っても、俺達は生まれる前から隣にいる存在になるのだから。
そうしたら今度こそ―――俺はリンを愛することが出来るだろう。
どんな形であれ、きっと、今度こそ。
そしてその時こそ、俺は彼女に許される。
「あの時は叶わなかった。でも今なら一緒に死ねるよ」
沈黙。
そして、一拍置いてから小さな声が呟いた。
「黄泉の国で死ぬというの」
「おかしいかい」
「おかしいわ。…そんな事、考えてもみなかった」
「でも、リン。それもまた選択肢の一つだろう」
「…」
死の国で、更なる死を望む。
そんな俺達が向かう先は、一体どこになるのだろうか。少し怖い。
…いや、どこであろうと構わない。
どれだけの時が掛かっても構わない。
その先にある未来の何処かで、なんのわだかまりもなく君の手を取ることが出来るのなら。
「君と共に在るためなら、この世での命も絶とう。…頼む」
きっと俺は今、満面の笑みを浮かべていることだろう。
「殺してくれ、リン」
「…レンさま」
涙混じりの呟きが、胸元から聞こえる。
その感触にはやはり温もりがなく。
腐り溶けた…死体の様で…
―――許してくれ。
―――許してくれ。
俺は、ただ黙ってそのおぞましい手触りを抱き寄せた。
こんな時でも嫌悪が勝る俺の想いが、次の世では浄化されていることを祈りながら。
―――…君を愛せなかった俺を、許してくれ。
神よ、何処かにいるというのなら、罪深いこの身を見逃して欲しい。
俺は、彼女を、愛したかっただけなんだ。
千引の石に罅入れて
mayukoさんの曲で、科目屋シリーズ→手毬唄(→請イ唄)の手毬唄時点での話のつもりです。
なんだか、歌詞を考えると手毬唄のレンってリンを愛しているようにはとても思えないんですよね…諦めているだけという解釈も良いですが、今回はこういう解釈で。一度目の死は、レン的には間接的にリンの手による死です。
ちなみにこの後請イ唄に繋がるので、まあ…一緒にはいられませんでしたね!という結末です。
ミクの日おめでとうございます!
でも話にはミクちゃんがいない…あれ?
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もっと見る「…なんかなー」
「ん?何、どうかした?」
隣に座る女の子…リンの金髪が肩に当たるのを感じながら、首を傾げた。
リンはご機嫌斜め、というか、どこか納得出来ないような顔をして俺の事を見上げて来る。
「いや、なんかレン見てると、『男女の間に友情は育たない』とかなんとか言うような迷信を信じそうになると...楽園に別れを
翔破
心の風景とでも言うべき景色っていうのは、確かに存在する。
そしてそれはふとした瞬間に俺を捉える。そしてかすかな名残惜しさと共に溶けて消えるのだ。
でも。
ぼた、と顎を伝って流れた汗を手の甲で拭い、マンションの小さな窓の外に広がる嫌味な程に青い空に目をやる。
こんなうだるような暑さの夏の日に思い出す風...私的Dog Day Afternoon 上
翔破
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頭だけキッチンから出した格好でめーちゃんが声をかけてくる。私は読み掛けの雑誌から顔を上げて返事を返した。
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銀の針が示しているのは七時半。別にそんなに遅...なまえのない そのうたは
翔破
規約的にやばい気がしたので、ワンクッションとかいうものをやってみました。
・かなりバイオレンスです。
・最低×最低。それなりに気を付けてお読みください。そうだったらいいのにな
翔破
わたしは可愛いお人形を持っているの。レンという名前よ。
私の言うことにはハイ、ハイと頷くとっても従順なおもちゃ。
檻の向こうでわたしに跪づく、とても綺麗なおもちゃ。
そして、何と言ってもレンは生きているのよ。自我だってあるし壊れ難さは段違い。
どうして手に入れたのだったかしら。覚えていないわ。
気付...私的篭ノ鳥
翔破
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ご意見・ご感想
零奈@受験生につき更新低下・・・
ご意見・ご感想
手毬歌キターーーーー!!
私は手毬歌の方が好きなので、ブクマ戴きますw
なんで翔破さんはいつかやろうと思っていた私の好物ばっかやるんですか!?
しかも上手で羨ましいです。
こんな解釈もありなんですね・・・
私は「科目屋シリーズ」→「請イ唄」→「手毬歌」だと思ってました。
それだと、科目屋で心中した二人だがバラバラになり、しびれを切らしたリンは異形に堕ちると知って諦めていたレンに会いに行く、というお話ですが。
他のmayukoさん楽曲も小説化してください!
「前夜祭の黒猫」とか「絡繰賛歌」とか!
2011/03/10 19:47:49
翔破
コメントありがとうございます!
手毬唄お好きですか!あのシリーズいいですよね。大好きです。
mayukoさんの曲は単品のもいいですが連作非常においしいです^・ω・^
そして零奈さん、ぜひ書いて下さい!私の書いている話って、大体「自分の中にある解釈の内から一番書いてて面白いor普通そうじゃないやつ」を選んでいることが多いので。
うっ、だって、折角いろんな解釈が出来るんだからいろんな解釈した方が楽しいじゃないですか←
書くのも好きですが読むのはもっと好きなので、零奈さんの解釈も是非見てみたいです!
あと歌の順番は、私も普通にその順だと思っていました。というか思っています。
でもどうせなのでちょっと曲げて考えてみました…すみません。
そうですね、mayukoさん楽曲は非常に感考えるのが楽しいので、今後も書く事があると思います。だって曲そのものがついに70曲を突破してますしね…凄すぎる!
ブクマありがとうございます、今後も好きな物を好きなように書いていきますが、少しでも楽しんでいただければ嬉しいです。
2011/03/10 23:13:08
まくるよ
ご意見・ご感想
科目屋シリーズきたぁぁぁぁぁ!!!!!(*° ∀ °*)
私 mayukoさん大好きなんです…!
とても魅入らせていただきました!
ブクマいただきます☆
あ、前の"ココロ"のテキストと"詰め合わせ・色塗り編"もブクマいただきますね!
2011/03/10 03:24:44
翔破
コメントありがとうございます!
はい、私もmayukoさんの曲、大好きです!調教が非常に良いですね。あと中毒になりやすいので、はまった当初(丁度請イ唄が投稿されるちょっと前ぐらいでした)、一週間ぐらい入り浸ってmayukoさんの曲しか聞いてませんでした。
あの中毒性、ちょっとでも書き出せていたらいいのですが…なにぶんまだまだ未熟なもので。でも、少しでも心にかかるような話が書けていたら幸いです!
ブクマありがとうございます、今後も精進します!
2011/03/10 23:01:10