髪も結って靴も履き替えて、エプロンを腰に巻いて伝票とボールペンをそのポケットに入れて。出勤時間になったので階下のお店にいくと、店内は二組しかお客はいなくて落ち着いた様子だった。カウンターでは店長の鳥海と厨房スタッフの森さんが次の季節メニューの相談をしている。
店長は物腰柔らかなひょろりとした印象の20代後半の男性で、森さんは清潔感溢れるナチュラルな印象のやっぱり20代後半の女性だ。二人は高校時代の同級生で、店長がこの店を立ち上げるときに飲食業の経験があった森さんが手伝いをしたのだ、そうだ。
おはようございます。と二人に声をかけると、おはよう。と返ってきた。
「あ、ミクちゃんの髪の毛くるくるだ。」
可愛いね。との森さんの褒め言葉に、えへへ。とはにかみながら、巻いてみました。と言うと、森さんは悪戯っ子のようにくすり、と微笑んだ。
「小林君の言ってた通りだわ。今日、ミクちゃんの髪型がいつもと違って可愛いって。」
「え?小林が?」
そんな事を言ったの?と思わず目を輝かせると、カウンター内で飲み物を作っていた小林が顔を上げて、森さん嘘をつかないでください。と言ってきた。
「俺はいつもと違うって言っただけですよ。適当なことを言わないでください。」
そう小林はぶっきらぼうに言う。その素っ気も何もない言葉に反射的に、べえ。と舌を出すと、小林は眉をしかめた。
「これのどこが可愛いんですか。」
そう指さして言う。全く失礼な奴だ。と私は更に顔をしかめた。
「たまには、可愛いとか、お姫様みたい。とか甘い言葉を言ってみなさいよ。」
「あー、はいはい。可愛いですねわがまま姫様。」
そう感情のこもらない声で一言余計な言葉を、言ってくる。本当にむかつく。カウンター奥に備え付けてある手洗い場に向かう、通り抜けざまに、がす、と小林のわき腹を殴りつけておいた。
「痛てえ。お前はプリン要らないみたいだな。」
そう、作業の手を止めずに小林は言ってきた。しかしプリン?何のことだろ?
首を傾げる私に、お前が、と小林は言葉を続けた。
「プリン食べたい、って駄々捏ねたのはお前だろうが?作ってきたから。」
その言葉に、ミクは本当に?声を上げた。
小林の言葉通り、確かにミクは雑誌に載っていたスイーツ特集を見て、美味しいプリンが食べたい。とわがままを言った事があった。だがしかし、まさか作ってくれるとは思っていなかった。
「本当に、あんたが作ったの?ていうかプリンって作れるの?」
プリンなんて買うものだとばかり思ってた。
目を丸くしてびっくりしていたら、小林が苦い顔で見返してきた。
「、、、お前、厨房スタッフに対してその非常識な質問はなんだ。プリンなんか簡単につくれる。」
「へぇ。凄い。」
そう驚きをそのままに口にすると、凄くない。と小林は不機嫌そうに眉をひそめて言う。
「だからプリンなんか、簡単に作れるんだって。」
そんな事を言いながら小林は視線を手元に戻して、とん、とクリームをホットチョコの上に落とす。更にその上にココアパウダーを振って。横で蒸らしていた紅茶も漉してポットに入れ、ミルクと砂糖も横に添えた。
きびきびと立ち振る舞う、その姿は何割り増しか格好良く見える。これは惚れた欲目だろうか?そんな事を思ってぼんやりとその作業を見守っていると、ぼんやりするな、と叱責が飛んできた。
「ほらぼんやりするな。3卓にお届け、お願いします。」
「はーい。」
慌てて手を洗い、カウンターから出てホットチョコとミルクティーの置かれたトレンチを受け取った。
とん、と左手にトレンチを持ち、窓際3卓へと運ぶ。
「お待たせしました。」
にっこりと微笑んで商品を提供。
姿勢良く、きびきびと緊張感のある、だけど雑に見えない動作で。そしてなによりも笑顔は基本。だけど今はそんな事を考えなくても背すじは伸びて顔は前を向いて、自然に口元に笑みは浮かんじゃう。
ごゆっくりどうぞ。とお客様に声をかけて他のテーブルに残っていた食器を下げる。戻って、既に食器を洗っている小林にそれをカウンター越しに渡した。
「お願いします。」
そう声をかけると、はいはい、と相変わらずの醒めた返事が返ってきた。
会話の邪魔にならない程度の音量で、ボサノヴァがのんびりと午後のお店の中に流れている。お客様も、くつろいだ表情でお喋りやお茶を楽しんでいる。テラスから注ぐ日の光も心地よい。
思わず鼻歌でも歌ってしまいそうな気持ちだけど、そんなことをしたら、へんな店員になっちゃうから我慢。だけど浮き立つ気持ちは抑えきれず。私はカウンターの上に置いてあった、洗い済みで布巾がかけられていたグラスを拭き始めた。
きゅっきゅ、とひとつひとつリズミカルにグラスを拭いていく。いつもの、なんでもない仕事。だけど今はその簡単な作業がいちいち、楽しく感じられる。
「何、にやにやしてんだよ。プリンがあることがそんなに嬉しいのか?」
「違います。小林のプリンなんか嬉しくないんだから。」
小林の言葉にそう憎まれ口を返しながら、しかし、言葉に反して表情が笑顔なのは自分でもよくわかってる。
知らず口元が綻んじゃうのは、プリンが食べられるから。じゃなくて、小林が私のためにプリンを作ってくれたから。
「ミクちゃんが言ったから作ったんだね、あのプリン。」
ミーティングをしていた店長が横からそう、茶化すように口を挟んできた。
その言葉に、小林がそうですよ。と頷いた。
「こいつがこの間、美味しいプリンを食べたい~、ってわがまま言ったからです。」
ため息交じりの、皮肉めいた小林の言葉。そんな風に言ってないもん。と私はグラスを拭きながら口を尖らせた。
「もっと可愛く言ったわよ。」
「可愛く言ってもわがままはわがままだろ?」
冷たい小林の言葉に、あら、と森さんも口を挟んできた。
「普通、男の子って可愛い女の子にわがまま言われたら、嬉しいものじゃないの。」
「そうですよね。」
私のわがままなんか、可愛いものじゃない。
そう森さんの言葉に賛同しながら、ちらりと視線を向けると、小林は手元に視線をやったまま、そうですか?と素っ気無い口調で言った。かしゃかしゃと、ナイフやフォークなんかをまとめてすすぐ音が響く。
「それは、好きな子のわがままだったら可愛いけど。どうでもいい奴のわがままは面倒なだけですよ。」
きゅ、と水道の蛇口を閉めながら小林はそう言った。
がつん、とおでこを小突かれたような気がした。
浮かんでいた笑みは落っこちて、肩も下がって背筋も丸まってしまう。夢から醒めた後のように、風船が割れてしまったように、嬉しい幸せな気持ちがはじけてどこかに消えてしまった。
「奥で仕込みに入りますね。」
洗いものを終えて、そう森さんに声をかけて小林は厨房の奥へ戻っていく。
「あ、小林。」
思わず、その後姿に声をかけていた。
「何だよ。」
不機嫌そうに振り返る。
一瞬、言葉を言いかけて、しかし、なんでもない。と私は首を横に振った。
「プリンありがと。後で食べるから。」
そう笑顔で言って、私はくるり、と小林に背を向けた。
からん、とあめ色の扉が開いて新たにお客さんが入ってきた。意識して背筋を伸ばして顔を上げて。いらっしゃいませ。と声をかけて、お冷とメニューを持っていく。オーダーを取って、厨房にそれを伝えて。作られた商品をお客様に提供する。
いつものように立ち振る舞い、いつものように笑顔で働いた。意識して背筋を伸ばして、丁寧な物腰になるように気を使って。
だけど、心の中ではずっと小林の言葉がぐるぐるまわり続けていた。
どうでもいい奴のわがままは面倒。
小林は私のわがままどう思ってるの?面倒、とか思ってそのプリンも作ったの?
そう言いたい事はある。だけど、お前メンドクサイ、とか言われたらきっと立ち直れない。想像しただけで、座り込んで大声で泣きたくなる。
私のわがまま、小林にメンドクサイって思われてたらどうしよう。
そう思ったら、笑顔が引きつった。
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