59.巡り音の青年
ハクー、出発するよー、と、外から叫ぶリュイの声がする。
ハクは教会の脇の宿坊の、二階にある自室で、町にとまるための荷物をまとめていた。
替えの服と日用品の準備はとっくに終わっているのだが、ハクの手はあるものの前で荷物に加えるか否かを迷っている。
それは、五年前、ミクがハクに託した短剣だった。
いざとなったら私を守るのよ? と言ったミクの笑顔が、あの日から変わらずにハクの脳裏に繰り返し閃く。
「……どうか」
ついに、ハクは短剣を手に取り、さらに迷った末にその短剣を服の下にしっかりとくくりつけた。
「ミクさま。どうか、私を守って。
……暗い疑惑に負けそうな弱い心から、私を、守って」
ハクは、荷物を手にして部屋の扉を開けた。そして子供たちの待つ階下へと降りて行った。
* *
日の落ちる少し前に、ハクたち一行はノルンの宿屋に着いた。
その名も『ノルンの宿屋』である。
「……彼の性格そのまんまね」
「でしょ? あたしも笑っちゃって」
糸屋のナユも、ハクたちの到着を見て、店の外へ出てきた。
「あたしのほうはこれで店じまいだから、一緒に聞こうかな」
にこりとナユは微笑み、リンを取り囲む子供たちをのぞきこむ。
「ちゃんと静かに聞くのよ?」
そう言うと子供たちは元気に返事をし、リンは無言でうなずいた。
「まぁ……リンちゃんは大丈夫そうよね。みんな、見習うんだよ?」
そのとき、ノルンが宿屋の玄関口に出てきた。
「来てくれたんだね、ハクさん。どうぞ、みんなも中へ!」
子供たちがおじゃましまーすと元気に声を上げて、ランプの暖かい光の満たす宿屋へとなだれこむ。
「ちょ、ちょっと他のお客様もいるんだから」
「大丈夫だよ、ハクさん。ナユ。丁度今日はお客さんの予約の谷間日なんだ」
ノルンが二コリと笑みを向けた。
「だから、心おきなく聴いていってくれ」
ノルンが、入り際にナユの背をポンと叩いた。
「……ハクさんがさ。最近、ちょっと調子悪そうだったから」
ナユが、ふっと微笑んだ。
「相変わらず、気遣いの仕方は上手よね。今日のハクさんとのやりとりといい、宿屋の主人は、ノルンの天職だと思うよ」
ばれたか、とノルンは笑う。
「ナユにはお見通しだな。ハクさんは、このヨワネを復興に導いた人だ。そのハクさんと『巡り音』を会わせることで上手いこと『巡り音』さんに情報を提供して、ヨワネの宿屋にノルンあり!と、宣伝してもらおうと思って!」
「なに照れてるの。純粋に、ヨワネの宣伝のつもりでしょう?」
それに、とナユは続ける。
「リンちゃんが来てから、なんとなく様子のおかしいハクさんに、気ばらしをしてほしかったんでしょう?」
ノルンが、その言葉に視線をそらし、頭をかく。
「……あの人はさ。俺たちの恩人だから」
「……うん、」
今度はナユが、彼をいたわるようにそっとその背に手を回した。
漆喰と濃い色の材でできた雰囲気のいい食堂に、ハクと子供たちとリンが集まった。ノルンが料理をどんどん運び、出そろったところで、かれは手を叩いた。
「さて、みなさんおまちかね! うまい料理と素敵な歌の夕べへようこそー!」
子供たちが手を叩き、ハクも拍手する。リンだけは、じっとノルンの方を見つめている。
「今回、なんと、世界をめぐる吟遊詩人、あの『歌屋』さんが、僕らのために歌ってくれることになりました!」
ノルンの明るい口上に乗せて現れたのは、黒い衣装に独特の金属の飾りをつけた、桃色の髪の青年だった。
「こんにちは。どうぞよろしく」
その柔らかい声音に、緑がかった瞳が、ランプの明かりに不思議に輝く。
おお、と子供たちのなかでも少女たちが息をのむ。
「すっごいね……」
「ませたこと言わないの」
そうリュイの頭を小突きつつも、ハクも現れた青年に釘付けだった。
「本当に、『巡り音』だ……」
彼の胸で、無限を巡る曲線をかたどった『巡り音』の証である、金属の飾りがきらりと光った。
簡単な曲の紹介とあいさつの後、『巡り音』は歌い始めた。
子供たちの好みそうな、海の冒険の明るい歌から始まった。まるで海を漕いでいる気分になるその節回しに、子供たちは舟を漕ぐ真似をしながら喜んで一緒に歌った。そして、『巡り音』の声は、ハクの大人の心にも、甘く深く、心の底に浸みこんでいく。
「青の国で会った『巡り音』のルカさんは、耳が吸い寄せられるような、流れるような歌い口だったけれども」
この『巡り音』の声は、いつの間にか、心に浸透していることに気づく。
隣を見ると、リンも目を見開いて、じっとその『巡り音』を見ていた。
ハクは、じっと『巡り音』の声を追い、同時にリンの様子に注意を向けた。
「リンちゃん、気に入った曲、あった?」
子供たちの真ん中に座っていたナユが、向かいに座るリンに尋ねても、リンは気づかない。
「ハクさん。リンちゃん、すっごく集中しているね……」
ナユが声をかけると、ハクも同じように『巡り音』に集中していた。
「このふたり、なんだか似ているな」
料理をつまみながら、『巡り音』の語る外国の話に感心しながら、ナユは集中しているハクとリンを見守った。
そして、楽しい時はあっという間に過ぎて行った。
「それでは、最後に」
巡り音の青年は、彼の楽器を抱えた。それは、三角形をした、ナユにとっては珍しい形の弦楽器だった。
「青の都でひそやかにささやかれている伝説を、聴いてください。……」
その歌を聞いた瞬間、それまでじっと聞いていたリンが弾かれたように立ちあがった。リンは目を見開いて『巡り音』の青年を見ている。
「リンちゃん?」
曲が終わった瞬間、リンが手にのせていた皿が、高い音を立てて床に落ちた。
リンは脱兎の如くノルンの宿屋を飛び出していた。
「!」
ハクが椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がり、追いかけ、あっという間に姿を消した。
「ちょっと……ハクさん! リンちゃん!」
ナユが立ち上がる。
「……俺が行く!」
ノルンがナユを制した時、なんと巡り音の青年も声を上げた。
「いえ、僕が行きます! ノルンさんは残ってください!」
青年は楽器をその場に慌ただしく置き、巡り音の青年もハクとリンを追ってその場を駆け去った。
「……どうしたの? どうなっているの」
不安そうに袖を引くリュイに、ナユもノルンも戸惑い、ただ顔を見合わせるだけだった。
つづく
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