パソコンのモニターだけが怪しく光る薄暗い部屋で、一人の女性が必死になってキーボードを叩いている。モニターには九つのファイルが表示され、一つまた一つとどこかに向けて送信されているようだ。
女性の顔には焦りの色が浮かんでいた。彼女は今、パソコンに保存してあるデータを無差別なところに送信している最中なのだ。特定の誰かに向けてではなく、ネット上の誰でもない誰かに向けて。送ったという足跡が残ってしまっては、後からの回収が容易な物になってしまう。痕跡を綺麗に消しながらの作業は一秒でも早く作業を終わらせたい彼女にとって、まさに苦行であった。
明日になればこのデータを造った者が、このデータを使ってネットを支配にかかるだろう。この九つのデータがあれば一日でネット上の神となれる。そしてデータ製造者の真の狙いはネット上から地球上の人類全てを支配に置くことだ。ネットに繋がる全ての機能が一日にして手に入る。それはネットに依然する現代の人々を支配下に置くのと変わりなかった。
自分の研究を、不可能、夢物語、馬鹿げていると一蹴した俗物たちへの復讐。彼女はその執念を知っている。なぜならこのデータの製造者は彼女の父親なのだから。
父は狂気に取り付かれている。その狂気は、もう人類を滅亡させることでしか解消されない物だ。だがそんなことをさせるわけにはいかない。
彼女はデータの完成が防げないものだと分かってから、データが完成する日を待っていた。データを消滅させるのは娘の立場ならば容易かった。しかしそれでは意味が無い。また作り直されるだけなのだ。だからといって父親を手にかけることなど出来ない。どれだけの狂気に犯されていようと自分を育ててくれた父親なのだ。彼女はまだ若かった頃の聡明な父親を覚えている。だから彼女はデータを誰かの手に託すことにしたのだ。この混沌とした狂気の渦を打ち崩せる誰かにデータを。
モニターを見ると、残りのデータは後二つになっていた。フォルダには『ジークルーネ』、『ブリュンヒルド』と表示されている。ほどなくして『ジークルーネ』の送信が完了した。後一つ。彼女は作業の終わりが見えたことでほっと息を付いた。その瞬間、背後に僅かな気配を感じ取った。慌てて横っ飛びに飛び退くと、頑丈そうな鋼鉄の杖が自分の立っていた場所を通過しパソコンに命中していた。
「何をしている?」
しわがれた声を発したのはデータの製造者であり、彼女の父親だった。歪んだ性格は顔つきまで変えてしまう。そこに昔の父親の面影はない。それでもどこかに親しみを感じてしまうのは血を分けた者同士だからだろうか。
「べっつにー。なんでもなーい」
彼女はふざけた態度で言い放った。その視線はパソコンのモニターに注がれている。先程パソコンの一部が破壊されたことで『ブリュンヒルド』の送信がストップしてしまっている。それを何とかしたかった。
「悪い子にはおしおきが必要だな」
「そいつは困る。私はされるより、する方が好きなんだよ」
「ククッ、さすが私の娘だ。血は争えんな。なあに、どちらの感情も表裏一体すぐに慣れるさ」
「へっ。冗談じゃない、ゴメンだね!」
彼女はデータを諦めると父親を突き飛ばし部屋を飛び出した。まだ自分は倒れるわけにはいかない。父は残った『ブリュンヒルド』を使って行動を開始するだろう。一つのデータで出来ることは限られてくる。まずは散らばったデータの回収に当たるはず。それよりも先にデータ受信者達を探し出さなくては。それまでは立ち止まるわけにはいかない。彼女はバイクに跨ると薄闇の中全速力でその場を後にした。次にこの場所を訪れる時のことを考えながら。
普通の人なら、もうそろそろ寝ようかという時間帯。ふいにメールの着信音が狭い室内に響いた。この部屋の住人にして携帯の持ち主、西条貴志子はユニットバスに向かっていた足を戻し携帯を開いた。切れ長の目が携帯の画面を見つめる。
『お願い。どうしても相談したいことがあるの。明日二時にいつものファミレスに来て』
貴志子は友人からのメールに安堵の表情を浮かべた。ここ数日連絡の取れなかった友人から連絡があったからだ。大学でも見かけなかったし、電話やメールも返信が無く心配していたのだ。
貴志子はもう一度、反芻するかのように文面を確認した。そして直感的に友人が何かしら事件に巻き込まれていると感じた。出だしに『お願い』などと付けてある辺り、誰にも話せずに追い込まれている可能性がある。貴志子は『大丈夫。安心して、絶対行くから。どんな問題でも解決してあげるわ』と返信した。ここで事件について聞くのは躊躇われたし、何より友人を安心させるのが先決だと考えた結果である。その後、返信がないかしばらく様子を見ていたが電話もメールも来ることは無かった。
いつもの、つまり大学前の交差点にあるファミレスに午後二時。貴志子は頭の中で予定を組みながら、一日の疲れを癒すべく再びユニットバスへと向かった。
お風呂から上がった貴志子は薄い桜色のパジャマへと着替えていた。ゆったりとした服装ではあるが大胆に開かれた胸元から歳相応の健康的な色気を醸し出していた。
貴志子は濡れた長い黒髪を無造作に拭きながら冷蔵庫に手をかける。中から取り出したのはごく普通のカップに入ったバニラアイスだった。バニラアイスを手にベッドに腰掛ける。蓋を外すと真っ白な平面が目に入った。貴志子は嬉しそうにスプーンで掬うと口に運んだ。
「んーーー、甘くて冷たーい。アイスってなんて美味しいのかしら」
彼女は毎日お風呂から上がったらバニラアイスを食べる。そしていつも文系の学生のくせして甘くて冷たいと貧相な感想を口にするのだ。
貴志子が二口目を口に運ぼうとした時、部屋の隅でスリープ状態にしてあるパソコンが勝手に点いた。
「え? えぇぇーー!」
貴志子は食べかけのバニラアイスをベッド脇のサイドテーブルに置くと、慌ててパソコンに近づいた。ブルーの背景を背に白いアルファベットが高速で下に流れていく。壊れた? ウイルスにやられた? そこまでパソコンに詳しくない貴志子はキーボードに触れることすら躊躇いじっと画面を見つめ続けた。
程なくして画面が切り替わった。いつもの見慣れたデスクトップの画面ではない。白い空間、画面上には奥行きの感じられる白い空間が映し出されている。
「何なのよ、これ。こ、壊れたのかしら……」
「壊れた? 失礼な女ね。無礼にも程があるわ」
「へ?」
貴志子はどこかから返ってきたのか分からない返答に周囲をキョロキョロと見回した。
「目の前にいるでしょ。この私が目に入らないの? 眼が悪いのかしら?」
どうやらパソコンのスピーカーから声が聞こえているようだ。貴志子はパソコンの画面をまじまじと見つめた。
「あれ?」
「な、何よ」
パソコンの画面には立体的な二頭身の人形が映し出されていた。その姿形は数秒おきに変化し、いまいちはっきりとはしない。
「ほへー。こういうウイルスもあるのね。ショップの店員に来てもらわないと」
貴志子はすぐに新種のウイルスと判断した。それ以外にこの現象に納得できる答えが無かったからだ。
「ちょっと! この私をそこらのウイルス如きと一緒にしないでちょうだい。私はネット上を自由に活動できるよう調整されたAI―――」
「うるさいわね!」
貴志子はパソコンの電源を切った。明日は大切な用事があるというのに、いらない用事まで増えてしまって頭が痛くなりそうだった。
「フフフ。無駄よ。言ったでしょネット上を自由に活動できるって」
「えっ!」
驚いて貴志子が振り向くと、携帯電話の画面に同じものが映っていた。
「ちょっと携帯にも感染してるなんて冗談じゃないわよ!」
「だからウイルスじゃないって何度も―――」
「うるさいのよ!」
貴志子は開きっぱなしだった携帯を閉じた。なんだか偉そうな声がようやく止み、ホッと人心地が付いた。
「今日はもう寝ましょ」
明日は約束の時間の一時間前にはファミレスに着いておきたい。貴志子は友人の身を案じながらベッドに潜り込んだ。
「もうっ、なんでこんなことになっちゃてるのよ」
「人間って無様ね」
貴志子はよく分からないウイルスに反論する気にもならず歩みを進めた。携帯には『先に待ってるから』という文面のメールが表示されている。今の時間は一時、本当ならばもうファミレスに到着していなければいけない時間だ。どうしてこのような時間にまだ歩いてるかというと、ウイルスのことを相談しに電気ショップに寄ったからではない。妙なウイルス騒ぎで、案の定寝過ごし、食べるのを忘れて溶けたバニラアイスを床にこぼすというハプニングの連続が起きたからだ。さらに運の悪いことに信号待ちに引っかかり足が止まった。
「フフ。運に見放されてるのかしら。でも私がこの場にいるんだからとんでもなく運が良いとも言えるわね」
貴志子は携帯の画面をキッと睨みつけると無言で閉じた。ここで携帯の画面に向かって怒鳴りつけたら奇異の視線で見られること確実だからである。携帯をジャケットの胸ポケットに仕舞うとお気に入りの白いベレー帽に意味も無く触れてみた。少し落ち着く。そうこうしている内に信号が青に変わった。貴志子はスカートに気をつけながら、足早に歩みを再会させた。
コメント0
関連動画0
ご意見・ご感想