まどろんだのか、それともずっと起きていたのかが曖昧だ。少なくとも睡眠を取った感覚はまるでないままに、僕は頭を振って少しでも理性を呼び戻そうと起き上がる。
「……まだ、おかしいままなのかな」
自分ではどうにも判然としない。己がおかしくなっているかどうかなんて、どうやって自己評価できるというのか。途方に暮れていると、密着した隣から静かな声が聞こえてきた。
「大丈夫。レンは正常に戻ったわ。少なくとも、夜中よりはね」
声の調子からして、姉も眠れなかったのだろうか。視線を送ると、まだ闇に慣れきらないながらも、こちらを見つめる姉の寝姿がぼんやりと見えた。
「よく覚えてないんだけど……やっぱりどこかおかしかったよね」
思い出そうと努めても、切れ切れにしか情景が浮かんでこない。クラッシュした感情が思考をも灼き尽くし、冷静になった今では切れ端すら掴めなかった。それでも、普段と異なる精神状態だったことは明らかで、そんな僕がまともだったとはとても考えられない。
僕の心配を余所に、姉は柔らかく微笑んだ。それはいつもの姉の表情で、どうやら元に戻ったのは僕だけじゃないらしい。
「そうかも。でも、普段見れないレンが見れて、私は幸せだったかな」
どう受け取るべきか迷う発言だったが、普段の姉が帰ってきたことに僕は心から安堵した。そうして同じく笑みを浮かべかけた刹那。不意に思い出したことがあり、僕のなけなしの平静さは一気に混乱へと逆戻りを果たした。
「あっ……!!」
「何よ、レン。いきなり大きな声出して」
「あ、あのさ……。何と言うか、その……」
本当に、どう切り出したらいいのだろう。そもそも、こういう会話を姉弟同士でするのはどうなのだろうか。いや、こんなことになってしまったのだから、姉弟とかはもう関係ないのだけど――。
「何が言いたいのかさっぱりわからない。はっきり言ってよ」
「えっと、ね。つまり、僕らは昨日、何と言うのか……その……」
ここから、どのように繋げれば伝えられるのか。できれば直接的な表現は避け、角が立たぬように済ませたい。そんないつまでも煮え切らない僕を胡乱げに見ていた姉だったが、少しして合点がいったらしく、そのものずばりと口にした。
「何が言いたいかは大体わかった。避妊してないってことでしょ?」
「う、うん。まあ、そう、なんだけど……」
何故こうもさらっと姉は口に出来るのだろうか。僕は本当に彼女と双子なのかと、昔からの疑問を今になっても感じてしまう。気弱な僕と、強気な姉。僕たちの類似点は顔の造形だけだと、よく人からは言われたものだ。
ただ、僕たちには一つだけ共通点がある。姉は勿論、実は僕もその気質を持っていて、それを意識するたびに決して切れない絆を確認したような気持ちになり嬉しかったことが、ふと脳裏に蘇った。しかしそんな束の間の懐古に浸る間もなく、およそ信じがたい発言が最後に付随したせいで、一瞬にして追想は掻き消される。
「それに関しては心配しないで。私、薬飲んでるから。妊娠しづらいように、普段から予防線張ってるの。――まあ、もし出来ちゃっても、レンとの子供なら産んでもいいかな」
「ちょ、ちょっと、リン……!!」
本気で焦って姉に言い寄ると、その反応を楽しむかのように余裕の笑みが返された。
「まあ、問題ないから安心して。それにしても、レンもやっぱり男なんだ。朝起きて一番に気にするのがそこなんだもんね。私の身体のこととか、一言も訊いてくれないし」
「あ……ごめん。そうだよね。傷とか、大丈夫?痛くない?」
本当に昨日はどうかしていたようだ。姉の痛めつけられた身体を見ていながら、それを意識の外に追いやって乱暴に愛撫してしまった。靄がかった記憶でも、姉が苦しげにしていたことは容易に引っ張り出せる。改めて謝ると、姉は苦笑しつつも許してくれた。
「もう……遅いってば。でも、ありがとう。レンはやっぱりレンだね」
一人前の男として多少難はありつつも認めてもらえたのかと思ったら、すぐに弟へと格下げされてしまう。でもそちらの方が何だか嬉しそうで、僕も姉の綻ぶ顔を見るのは心が弾んだ。どうあっても双子の弟であることは揺るがないのだし、今はこれでいいかと素直に受け止める。そしてそれがまるで苦にならない程、姉はすっきりとした顔をしていた。憑き物が落ちたようという形容がぴったりの、何か覚悟を決めたような笑顔。
「そういえば、今何時?携帯、ズボンのポケットに入れっぱなしだ」
姉の決意が良い方向に向かってくれることを祈りつつ、とにかく服を着ようと制服に手を伸ばす。そんな僕の腰に小さな手がそっと触れた。
「もう少し、こうしていようよ」
「え、でも……」
「お願い。もう少しだけ」
躊躇っていると、ひんやりとした腕がゆるく巻きついてくる。姉の身体はいつも冷たい。昔からそうで、一時期は、姉はもう死んでいるのではないかと本気で疑っていたほどだ。温めてあげないと、何かがどうにかなってしまう気がして怖くなる。そんなわけで、昔はしょっちゅう手を繋いでいたから、体温を奪われ続けることでどうにか現状を維持できていた。少なくとも、僕の主観としてはそうだった。それなら、今回も僕がどうにかしないといけないのかもしれない。
「……じゃあ、もう少しだけ」
これも“陥落”と表現するのだろうか。少なくとも僕は負けたような気分だ。
そうしてようやく横になると、姉は待ちかねていたのか嬉しそうに抱きついてきて目を閉じる。そんな彼女を眺めながら、僕もやがて目蓋を下ろした。何か特別なことをするわけじゃない。ただこうして身体を触れ合わせているだけなのに、不思議と緊張が解け安心できた。姉と手を取り合い走っていた頃が映像として浮かび、今の状況もそれと変わらないのではないかと錯覚してしまう。勿論目覚めた理性は即座に否定するのだが、感覚としては全く同一だ。
それから、どれだけ時間が経ったのだろう。不意にがちゃりと玄関の開く音が聞こえ、間髪入れずに人の気配が壁を透過して波紋を寄越した。
「……リン」
「……うん」
自分が何を伝えたいのか、おそらくお互いわかってなどいなかった。ただ、相手の言いたいことはきちんと掴んでいる。そんな感触を得て、僕はただ姉を抱きしめた。寄り添い、すがりついてくる小柄な体躯を、決して離すまいときつく掻き抱く。
やがて遠慮のない足音が床板を軋ませながら廊下を進んできた。リビングを通り過ぎたそれの目的地は、どうやらこの部屋のようだ。
「おい、リン。いるんだろ?」
そして粗野な響きで姉の名が呼ばれる。今、このドア一つ挟んだ向こう側に、姉を穢した男がいるのだ。一瞬で我を忘れ思わず跳ね起きそうになった僕を、しかし全身で抑えながら、姉は唐突に僕へと覆い被さった。
「リン……っ!!」
その言葉は途中で塞がれ、新たな刺激に呼吸すら忘れる。そうこうしている内に業を煮やしたのか、ドアが向こうから開く音がした。次いで絶句している間が空いた後、ようやく身を起こした姉に対して非難の言葉が投げつけられる。
「何やってんだよ。人がいない時に、勝手に男連れ込んで」
姉が胸の上にいるため起き上がることもできず、僕は横になりながら侵入してきた男を観察した。赤っぽい金色に染めた髪。革のジャンパーに、ビンテージのジーンズ。母さんより一回りは若そうな男がそこにいた。僕たちとの方が年の差はなさそうだ。そんな男だから、姉に独占欲を抱いたのかもしれない。納得など出来るわけもないが、面倒を起こさぬよう煮えくり返る心を抱えつつも大人しくやり取りを見守った。
「許可なんていらないでしょう?」
「いつからそんな口を利くようになったんだ?」
「私、貴方のペットでも所有物でもないから」
「……猿轡でもかませて、一生閉じ込めてやろうか」
この男は、本当に姉を愛してなどいるのだろうか。ただ欲求をぶつける道具にしているとしか思えない。姉も本当はわかっているのだろう。感情の欠落した面差しと起伏のない声調がそれをよく代弁している。この男は、姉を愛しているわけじゃない。ただわからない振りをして、今みたいに自我を消してやり過ごしているのだ。母さんが愛する人だから――……たったそれだけの理由のために。母さんのことが好きだから、黙って痛めつけられているのと同じように。
「何、騒いでるの?リンだってもう子供じゃないんだもの。少しくらい大目に見てあげなくちゃ」
そこにもう一つの足音が近付いてくる。こんなに関わりのない時を積み重ねても、一度耳に入れば懐かしいと感じてしまう声を伴って。
「それにしても、やっぱり私の子ね。一晩家を空けただけで、すぐに男を連れ込むなんて――」
僕は見た。男の後ろにやってきた影。それと目が合ったと思った瞬間、向こうも僕に気が付き立ち止まった。
「な――まさか……どうして……」
若化粧している。それでも無理やりという印象はなく、こうして並べば男とそこまで年齢差があるようには見えなかった。僕や父さんと一緒に暮らしていた頃に比べて、大分痩せたような気もする。それとも、これは僕の勝手な妄想が作り出した代物で、本当の母さんは昔からこうだったのだろうか。もう思い出せない。思い出せなくなってしまった。
「そんな……貴方だったなんて……」
二の句を継げず動けなくなってしまった母さんに、男は舌打ちを漏らすと、僕へ鋭い視線を向けた。
「……さっさと出て行け」
それでも一抹の良心はあるのか、乱暴にドアを閉めていってくれたことはありがたかった。彼らの視線がなくなり、不機嫌そうな足音が遠ざかった所で、姉は僕の上からどき言葉を紡いだ。
「大丈夫?」
本来は僕が言うべき台詞じゃないだろうか。それとも、訊かれずとも答えが明らかな自分には無意味な質問だという牽制なのか。どんな言葉を述べるべきか思い浮かばず、結局僕の返答は当たり障りのない所に落着した。
「……うん。大丈夫だよ。――僕、帰るね」
これ以上居座り続けるわけにはいかなかった。姉も黙って頷き、僕が服を身に着けるのをじっと見つめている。
「……じゃあ、またね」
未だベッドの上に座っている姉を見返ると、どこか空虚な表情とぶつかった。もう冷えてしまっているだろう体温、どこまでも平坦な感情。ふと不安が募り重ねようとした思いは、しかし制するような姉の言葉に遮られ僕の中に沈殿していく。
「うん。またね」
それに半ば押されるようにして、僕は後ろ髪を引かれる気分ながらもドアを開けた。すると間仕切りが横に移動しており、来た時にはわからなかったリビング全体が見渡せた。少々手狭な感を与える室内、その正面右寄りに設置されたブラウン管のテレビは、午前六時近い時刻と天気予報を映し出している。そんな予報士の音声だけが響く部屋の真ん中には炬燵が置かれ、そこにあの男が座ってこちらを刺すような目で睨み上げていた。目が合い、剣呑な視線が更に威圧感を増す。
「……お邪魔しました」
一応気持ちの籠もらない挨拶だけは残し、しっかりとドアを閉めた後で玄関へと足を運ぶ。廊下は真っ直ぐ玄関まで通じているから、母さんがそこに立っていることはとうにわかっていた。どうやら台所で何か作っていたようだったが、今は僕の声を聞いてかこちらへと戦くような眼差しを向けている。僕自身を恐れているのか、それとも姉に刻まれた秘密が僕から父さんにバレることを危惧しているのか。
「……お邪魔しました」
どちらだろうと大差はなかった。私情を交えぬよう己を諌めつつ、母さんの前を通り過ぎて靴を履く。男に対してよりは多少複雑な気持ちがあったものの、姉に対する仕打ちを考えれば、心を動かすこと自体罪悪のような気がして仕方がない。
「……ええ」
正直なところ、僕はここで母さんを思い切り詰りたかった。そして父さんに全てを伝え、姉を引き取る方向へと持っていきたかった。でもそれを、姉はきっと望まない。姉はああまでされても母さんが好きなのだ。好きな人間を責められて喜ぶ人はいない。そして自分がいなくなれば、母さんが感情の捌け口も見つからないまま精神的に孤独になることを理解している。だから、姉は決して母さんと離れようとはしない。
「……レン……」
久々に母さんの声で僕の名が呼ばれた。こんなにも弱々しい響きだっただろうか。どうしても昔を思い起こそうとしてしまい、そのことに嫌気がさしてくる。もう思い出せる風景などありはしない。今の母さんは、昔の母さんを思い出ごと塗り潰してしまったのだから。
僕は結局、姉と完全に一つにはなれなかったのだと、今更ながらに思い知る。身体は一体になれても、心までは同一になりきれなかった。僕は絶対に母さんを許さない。姉が拾わなかったのだとしても、僕だけはこの残酷でどろっとした感情を捨てずに持ち続ける。
呼びかけには答えず、振り向きもせずに外へ出た。後ろで閉まるドアの音さえ凍りつくような冬の朝日は、目に映る何もかもを寒々しい色合いに染め上げる。いつもなら綺麗だと思える光景も今朝は殺風景な印象しかもたらさず、僕はポケットに両手を突っ込んで家路を急いだのだった。
(続く)
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