見知らぬ少年に名前を呼ばれ。
 別の少年に絡まれ。
 自分の記憶に欠落があると気付く。
 そんな事をある日突然後輩から相談されても、普通の人間なら、『それ何ていうラノベ?』としか言いようがない。

 ―――やけど、それが現実なんよねぇ…

 教室のカーテンが、窓から吹き込む風に押されて揺れる。
微かに温もりを孕み始めたその風は、教室内のものも揺らして通り過ぎていく。
 例えば楽譜とか、ノートとか、右隣の後輩の金髪とか。
 さてどう返したものか、とグミは楽譜に強弱記号を書き込んでいた手を止めて、隣に座るリンを見た。

 ―――最初はリンちゃんの冗談かて思たけど、ここまで真剣なら嘘とちゃうやろうし…
 かつかつかつ、とリンの指がごく軽く机を叩く。
 典型的な苛立ちの行動だ。
 割と無表情や真面目な顔をすることが多いリンがここまで不機嫌さをあらわにすることなどまずない。
 この数日、何故か分からないが苛立っていたのは確かだ。しかしそれを抜きにしても、今のリンはかなり限界に来ているように見て取れた。
 グミの認識としては、リンは怒っていてもそれを表に出さない後輩、だったのだが、ここ数日でその認識を改める事となった。

 ―――限界なリンちゃんてめちゃ怖いんやな。

「…私だって現実離れしてると思ってますよ」
 ぶすっとした顔で応じるリン。
「でも結局事情説明も何もないままで、私の心にはもやっとした感覚だけが残っています。…あああの二人のうちのどっちかを捕まえて、洗いざらい吐かせてしまいたい」
 ちょっと洒落にならないような気迫を滲ませながら拳を握る。その姿を見ながら、グミは話題の少年達がこの場にいないことを心の中で祝った。

 彼等は確実に命拾いをした。

「まあ、冷静に考えるなら明らかに不審者やしな。そいつらが纏わり付いてくるようやったら警察に電話しいや」
「はい、そうします」
 現実的なアドバイスに、リンは神妙な顔で頷く。
 その晴れない顔を見て、グミは唇を尖らせた。
「うーん…一週間後には冬大と合同の発表会だし、出来れば気掛かりは無い方が良いけどなあ。そや、明後日の土曜には大学の方の人達と交流会するの忘れんといて」
「あ」
「忘れとったんやね?」
「…すみません」
「こーら、ダメやろ」
 素直に謝るリンの頬を軽く抓り、グミは少しだけ目をすがめた。
 勿論格好だけだ。本気ではない。
「確かに、今は割と忘れとっても仕方ない状況やけど…ん、失礼やない程度に愛想良くせなな」
 言いながら彼女は、笑顔笑顔!と明るく笑ってみせる。
 それが遠回しな励ましだと理解して、リンは微かに顔の強張りを解いた。
「はい」
「なら問題なしや!」
 もう一度にかっと笑ってみせてから、グミは腕組みをして続けた。
 自慢げな格好のつもりなのだろうが、さばさばした性格に異様に似合うその姿は、どこか憎めない雰囲気を醸し出す。

 ―――先輩のこういうところ、羨ましいな…

 リンは何となくそんな事を考えながら、自分も自習をしようと楽譜をめくる。

 が、直後のグミの発言に彼女は驚いて顔を上げることになった。

「まあうちの兄ちゃんもいるからなぁ、ちょっとは心強く思っとってぇな」
「えっ?」

 ぱちくり、思わずリンは目をしばたたかせながらグミを見た。

 グミに兄がいるという情報も驚きなら、その人が冬橋大学に在籍しているということも驚きだった。完全に不意打ちの情報だ。
「お兄さん冬大なんですか?凄く頭が良いんですね」
 手放しで感心され、グミは照れた顔で緑の髪を掻き上げた。
 ちょうど吹いてきた風のせいで、掻き上げられた髪がぱらりと不規則に跳ねる。
「ん、妹が言うのもなんやけど、頭はかなりええよ~?でもちょっと変」
「変?」
「…いろいろあるんよ…なんちゅーか、ナントカと天才は紙一重、みたいな感じでな」
「ああ…成る程」

 そのような話は良くある。実際にそういった人も何人か見たこともある。
 なんでだろうね、と彼に聞いた時は確か、歳に似合わずしっかりした口調で「バランスの問題なのかもな」という答えが返って来たように覚えている。

 完璧な人間なんていない。だから長所と短所のバランスを取るためにそのようなことになるんじゃないか。そう言われた。―――彼に。


 ―――……彼?


 ごく当たり前に使った代名詞が、不意に意識の中で揺れる。


 ―――彼、って…誰?


 ちりん、と揺れたネックレスの音。
 しかし、何と言うこともない、ごく小さなその音にリンの思考はそこで途切れた。

 考えが飛んだのは数秒だったらしく、未だにグミは頭を抱えて唸っている。どうもその「兄」について思い出したくない奇行を思い出してしまったらしい。
 「茄子」だとか「ふんどし」だとか「銃刀法が」だとか、余り脈絡がないように聞こえる言葉が連発される。
 正直なところ、部外者のリンにはグミの思考回路がどう回転しているのかが皆目わからない。
「…あっ、そやった、その兄ちゃんにメール送らなあかんかったんや」
 何故か打ちひしがれた顔で携帯電話を取り出すグミ。手慣れた仕種で文字を打ち込み、送信してから一つ大きな溜息をついた。
「便利やけど不便やねー、携帯いうのも」
「そうですか?」
「そうやよ。連絡がすぐに取れるのはいいけど、逃げることがなかなか出来ないし」
 逃げることが出来ない。
 なんとなくリンはその言葉を口の中で転がした。何が気になったわけでもないが、何故かそうしていたのだ。
「でも、なんか不思議やねえ」
 ―――不思議?
 笑いながら言われた、グミのいかにも面白がっているような言葉にリンは首を傾げる。
 そんなリンを見て、グミは笑いながら人差し指をくるくると回してみせた。
「電波とかいう良く分からんもんに頼ってるんやよ?見えもせんものを良く信じてるよなあ、って思て」
「まあ匿名性や機密性は高いし、手軽ですから、便利なんじゃないでしょうか」
「そうや、確かにな。一長一短って事なんかねえ」
「…さっきの話みたいに、ですか?」
「あああああっ、やめてー、兄ちゃんの話は蒸し返さんといてぇ―――!あの後、うちとリリちゃんが噂消すのにどれだけ苦労したかもう考えたくない!」
「噂?」
「だから言わんといてって!」
「…」
「そんな無邪気な目でこっちを見んといて!そんな目されても暴露とかせんからね!?」







 ビーッ、ビーッ、と携帯電話が鞄の中で振動したのに気付き、青年は鞄の中を手で軽く探った。
 彼の名はがくぽ、大学三年生。本来ならそろそろ就職活動を始める時期だが、六年制学部、具体的に言うなら医学部に在籍しているためにまだその必要はない。
 彼は優雅な仕草で画面を開き、少しだけ顔を綻ばせる。
 かなりの美形であるため、その笑顔は学内でそれこそ芸能人並の人気を誇ったりするのだが…幸か不幸か本人に自覚はない。ある意味、一番タチの悪いタイプだ。
「ん?がっくんメール?」
 隣を歩いていた友人、メイコが彼の携帯を覗き込もうと身を乗り出す。
 だがメイコが画面を見ることが出来ない高さまで携帯が避難させられる方が早かった。
「あらなーに、もしかして彼女かな?」
 にやーり、と一目で姐御肌だと分かる、面白がるような笑みを浮かべるメイコ。彼女自身に浮いた話は殆どないが、そのせいか色恋沙汰には非常に興味を示す。
 そんなメイコの伸ばした手の先で、がくぽはくるり、と携帯画面を反転させる。
 太陽光の下で多少画面が黒く見えるとはいえ、メイコの優秀な視力はその内容をしっかりと捉えた。
「あ、妹ちゃんかぁ」
「恋人がいれば良いが、残念な事に、俺の着信履歴の殆どは妹からなので」
 微かに笑みを浮かべながらキーに指を滑らせるがくぽ。それを見ながら、三歩後ろをついて歩いていたカイトが困ったような笑顔を浮かべた。

 カイト、メイコ、がくぽの三人は高校時代から仲が良く、学部が分かれた今でもそれは変わっていない。それぞれ大学で新しい仲間は作ったものの、結局今でも三人で行動することが多いままとなっている。
「めーちゃん、いきなり人の携帯覗くのは、プライバシーの問題とかが…」
「私もやってから『ちょっとまずった』って思ったわ。悪かったわね、がくぽ」
「いや、大丈夫だメイコ。気にしていない」
「…なんか僕だけのけ者感があるんだけど…なんで二人で恋人みたいな会話してぶふぉへんざッ!」
 語尾が変化形になったわけではなく、ただ単にカイトがメイコにボディーブローを、がくぽにでこぴんを喰らっただけだ。
 血だか唾液だか魂だか良く分からないものを吹き出して地面に倒れ伏すカイトを見事なまでにスルーし、メイコは途切れた会話を軌道修正した。
「がくぽの妹か。そういや今度合同演奏会するとこにいるんだったわね」
「げほっ、がっくん…その節はゴフゥ渉外ありがとー」
「いや、感謝されるような事はしていない」
「もーっ、またそんな事言って」
 あはは、と明るく笑うメイコはぼろ雑巾のようになったカイトに対する気遣いなど微塵も見せない。残念な事に、中学時代からの腐れ縁である二人の間では、力加減も体調による反応の度合いもすっかり把握されているのだ。
 がくぽは僅かに笑顔に苦笑いを混ぜる。

 仲良くなった当初は必死でメイコを止めに入っていた彼。
 しかし、この惨状―――過激なスキンシップと言うべきか―――は、仲が良いからこそ出来ることなのだとこの数年で理解してきた。
 …まあ、一歩間違えればあっという間にいじめに分類されてしまう訳なのだが。

 簡単に言うならば、慣れは怖いという事である。

「謙虚は美徳だけど、たまにはめーちゃんを見習ってみても良いんだよ?」


 ―――あっ。

 その時メイコが浮かべた笑みが心底恐ろしかったのはけしてがくぽだけではなかったらしい。関係ないはずの周囲の生徒達までが凍り付いていたからだ。


「…カーイートーくーん?」
「ひ、ひいいいっ、修羅が見える!」
「だーれが修羅だって!?」
「…カイトはもう少し口に気をつけないと早死にするぞ」
「ゴファっ!?…あれ、お花畑が見えるよ」
「…カイト…あんたのアイスは食べといてあげるわ。心置きなく成仏しなさい」
「あはは、綺麗なお花ー…って、えええ、僕のアイス―!?あああ死ねない死ねない絶対死ねない!」
 ぎゃあぎゃあと騒ぎながら関節技をキメたりキメられたりしているメイコ達を、他の生徒たちがちらちらと盗み見ながら追い越していく。中には携帯で写真を撮っているらしい人まで出て来たが、がくぽとしては止めるのも面倒だったので放っておくことに決める。内心、カイトに軽く謝りながら。

 長閑な陽気に良く似合う、実に平和な光景だった。

 ちちち、とどこかで鳥が鳴いている。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
  • 作者の氏名を表示して下さい

The shadows and an orange.3

大学名は音読みでも訓読みでもお好きなように読んで下さい。
やっとメインキャラが増えてきました。後はクリプトンで出てないのはルカちゃんだけだ。

ちなみにそろそろギャグ欠乏症が出ているので、次はまた残念なお話を投稿すると思います。とりあえずひとしずくさんのトークロイドのレンがあまりに凄かったので、(多分)シンクロニシティの話です。(多分)が付いているのは、シンクロニシティだと言い切るとあのイケレンの全てが幻になりそうで怖いからです。

閲覧数:452

投稿日:2010/08/28 18:35:20

文字数:4,482文字

カテゴリ:小説

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  • 梨亜

    梨亜

    ご意見・ご感想

    梨亜です。私もトークロイドは聞きました…!!腹筋横隔膜が大変なことになりますよね!!
    ひとしずくpもすごいですが、あのイラストを描いてしまった鈴ノ助さんもすごいですww
    あのキモレンは一時の幻ということでぜひ書いて欲しいですww

    2010/08/31 22:27:55

    • 翔破

      翔破

      聞きましたか!
      シンクロニシティ、というかひとしずくさんのレンは基本イケレンだったと思っていたのですが、あれはちょっと凄すぎましたね!思わずシンクロ二章のPVに全部ギャグの吹き替え台詞を付けてしまうくらいに衝撃でした。そして惚れました。レン、男前すぎる。

      ということでシンクロニシティ(仮)の残念な文章をUPしました?。
      お暇な時にでも読んで下さい!

      2010/09/01 00:02:29

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