それから、僕の生活は大きく変化した。仕事に出かける父さんを見送った後、姉を家に上げて一緒に過ごすようになったのだ。未だ家に帰りたくない理由を話してはくれないが、それでもこうして姉といられる時間が増えるのは単純に嬉しかった。
「レン、料理上手ね。私なんかよりよっぽど上手」
初めて僕の手料理を口にした姉は、信じられないとでも言うように目を丸くしていた。僕にとっては特に得意がることでもない。どちらかといえば、料理は苦手な部類なのだ。
「父さんと二人だから、どうしても家事は僕がやることが多くて」
「じゃあ、裁縫とかもやれるの?」
「うん、一通りは」
そう言いつつも、実は料理より自信があった。穴を繕ったりボタンを付けたりするのは、性に合うのか全く苦にならない。今ではミシンで縫ったような出来栄えを誇れる程に上達している。
「……そう、なんだ。すごいのね、レンって」
しかし僕の昂揚と反比例して、姉の意気は下降線だ。軽く唇を噛む姉に、僕ははたと思い当たり問いかけた。
「あれ、もしかして――?」
それ以上は言わなかったが、姉にしてみれば言及されたも同じだろう。俯き加減で悔しそうな声を押し出した。
「……裁縫はどうしても苦手なの。あんな細かいこと、何で出来るの?」
「リンは昔から大ざっぱだったもんね。そういうところ、変わってないんだ」
変わった変わったと思っていたが、案外そうでもないようだ。思わぬ発見に知らず口元を綻ばせると、目ざとく気がついた姉は上目遣いながらも睨みを利かせて弁明した。
「言っておくけど、出来ないわけじゃないから。ただ、少し苦手っていうだけ。大体、レンったら裁縫が得意なんて、ますます女の子みたい!」
僕にとっては禁句とも言える言葉を吐いた姉だったが、ふくれっ面でぷいと顔をそむける様は可愛らしく、怒る気になどとてもなれなかった。ただ、今年の文化祭については黙して語るまいと、決意を新たにしたのは言うまでもない。
そうして時は過ぎ、終業式のこの日も、姉と僕はいつものように僕の家で晩ごはんを食べていた。ただし、普段通りでないことが一つだけある。姉が、僕の買ったあの白いリボンを着けてきてくれたのだ。確かに特別な日ではあるが、たかが学期末にそこまでの思い入れが湧くものだろうか。不思議に思いはしたものの、姉に説明する気はなさそうで、結局聞けず仕舞いに終わってしまいそうだ。それとも、こちらから訊いた方が姉も話しやすかったりするのだろうか。全く触れられないというのは、やっぱり寂しいものなのかもしれないし――。
「ねぇ、レン」
そんなことを悶々と考えていた最中。ぼんやりとテレビを見ていた姉は、僕へ視線を向けることなく不意に切り出した。
「今から、私の家に来ない?」
「え……今から?」
時計を確認すると、もう九時を回っている。姉はどうあっても家の場所を知られたくないようなので、僕は玄関までしか見送れない。その代わり九時過ぎには帰るように説得し、姉もしぶしぶ了承していた。それでも何だかんだとだらだらして、大体十時近くになってしまうのだが、そろそろ帰る支度を促そうかと考えていた矢先のことだったので途惑う。
「そう。今から」
「僕は……父さん夜勤だし、少しくらい出歩いても大丈夫だけど――」
バレないという意味での“大丈夫”だ。高校生がうろついて問題ない時間だとは思っていない。第一、僕はこんな夜中に外へ出たことなど一度もない。自分でも随分な箱入りだと思うが、強制されたわけでもなく僕の意志だから、これはこれでいいのだろう。姉の申し出なら、少しくらい譲歩しても構わないと思ってはいるものの、流石に良識的ではない。一応、止める努力はするべきだろうかと言葉を探す。
「でも、リンの方はいいの?これまでだって、家には呼びたくない感じだったのに」
「今夜はいいの」
「……そうなんだ」
さあ、どうしよう。悩んでいると、姉はどこか切羽詰った調子で僕を見つめた。
「お願い。一緒に、来て」
こう言われて、断れるほど僕は強くない。仕方なくよりも多少前向きに、制服のまま姉と共に外へ出た。師走も末だから当然だが、手がかじかむ程の寒さに肩が自然と竦んでしまう。
「……私の家、アパートなの。古いアパート。でも、一応自分の部屋はあるんだけど……」
話していないと間が持たないのか、姉はいつになく饒舌に語ってくれる。僕よりも寒さに耐性があるのか、風が吹いた時に軽く身を縮めるくらいですたすたと歩いていた。
「……ここ」
駅に行くのかと思ったがそんなこともなく、三叉路の手前で右に折れ、細い道を進んだ先に目的地はあった。古いと言っても、今にも倒壊しそうというのではなく、一昔前のデザインというだけだった。僕の家は一応マンションに属するものだが、それも一昔前ではないというだけの話で、見る人から見ればすでに時代遅れなのだろう。
「二階の、一番奥。プレートは出てないけど、そこが私の家」
階段をかんかんと上り、一番奥のドア前で姉は立ち止まった。外から見た限りでは明かりは点っておらず、誰もいないようだ。
「お母さん、今夜は出かけてるから」
鍵を開けつつそう言って、姉はするりと室内に入り込んだ。僕もそれに続き靴を脱ぐ。そうしてフローリングの冷たさを足の裏に感じた所で、きゅっと姉に手を握られた。
「電気点けないけど、このまま私の部屋に行こ」
僕としては、素直に従う他ない。外からの明かりで微かに見える範囲では、玄関先にキッチンが隣接し、奥に向けて細い廊下が伸びているようだ。廊下の向かって左側に間仕切りがあるから、おそらくその向こうがリビングなのだろう。また右側には私室として使われている印象を受ける木製の扉もあった。しかし姉はそこには目もくれず、真っ直ぐ突き当たりの古ぼけたドアまで進むと、ノブをひねって僕を中に入れた。
「ここが、私の部屋。狭いし散らかってるから、ベッドにでも座って」
姉はさらりと告げたが、この部屋は狭いという域を超えているように思われた。というより、ここは人が寝起きする部屋ではなく、物置なのではないだろうか。左端に無理やり収められた感のある小さなベッドが、部屋の半分を占拠している状態だ。机を置くスペースなどもってのほかで、教科書類は床に平積みされ、敷かれたチラシの上には衣類が小奇麗に畳まれて置かれている。散らかっているのではなく、こうでもしなければ物が収まらないのだ。
「ここが……リンの部屋なの?」
「うん、そうよ。いらないものとか処分してるんだけど、どうしても片付かなくて」
いらないものどころか、いるものすら切り詰めているのではないだろうか。ブレザーを脱ぎ、皺がつかないよう丁寧に畳む姉を見ていると、その思いがいや増して悲しくなってくる。当然暖房器具など置く隙もなく、真冬の小部屋は天然の冷蔵庫みたいに冷え切っていた。
「立っていられると落ち着かないから、座ってて」
しかし姉は全く頓着していないようだ。僕が押し切られるままにベッドへ腰掛けると、程なくして姉も隣に座った。薄いマットは、全く効かないスプリングを補助してはくれない。むしろあるだけマシと言う負の極致を見事に体現している。
そんなことを考えてまたもやショックを受けている所へ、姉が変化球を放ってきた。
「レン。今日、何の日か知ってる?」
「え……?」
唐突すぎる話題にどう応じたものやら混乱していると、責めるような目で姉が睨んでくる。
「リボン。どうして白いのにしたと思ってるの?」
「えーと、それは……」
終業式だったから、なんて理由ではないのだろう。姉の真剣で、少し寂しげな眼差しは、冗談で紛らすには重すぎて軽々しく口を開けない。
「やっぱり、何も気にしてなかったのね。そんなことだろうとは思ってた。だって、一言も訊いてくれなかったし。もしかして、気付きもしなかった?」
「違う、気にしてたよ!!何で今日は着けてきてくれたんだろうって!!でも、わからなくて――」
つい声を荒げてしまった僕を宥める如く、姉は静かに言葉を継いだ。
「今日、何日?」
「今日?えっと……あっ、そっか」
完全に失念していたが、今日は――。
「今日って、クリスマスイヴなんだ」
こういう行事ごとには興味が薄い。一緒に祝うような友達や恋人もいないし、父さんは大抵仕事でいないから、一人でというのも却って侘しくなりそうですっかり頭から消し去っていた。誕生日だって、父さんと二人暮らしを始めてからは祝ったことがない。そういえば、明々後日は僕と姉の――……。
「そう。今日はクリスマスイヴなの」
姉の声に現実へと呼び戻される。誕生日を祝わなかったのは、姉がいないまま祝うことへの違和感が付き纏ったという理由が個人的にはあったのだが、今年はちゃんと二人で祝おう。そこで自分の気持ちにキリをつけ、改めて姉との対話を再開する。
「イヴだから、白いリボンを着けてきたんだね」
「うん。今日は、特別な日だから」
「そうだね。確かに、特別な日かも」
その感覚はよくわからないが、特定の日を皆が特別扱いするのは、世間の浮かれ具合を見てもごく当たり前に許容されており、いわば一種の文化のようだ。自分にはまるで関係のない誰かの誕生日前夜だが、楽しめればそれでいいのかもしれない。
僕の納得を、しかし姉は振り払うようにして撥ね付けた。一言一言を刻み付ける強さで、ゆっくりと口にする。
「レンは、何もわかってない。私が今、どんな思いで、ここに貴方を呼んだのか」
そうして、やにわに身体の力を抜くと、どこか艶めいた微笑を浮かべてこちらを向いた。それをまともに捉えて、背筋がぞわっと粟立つ。目の前にいるのが本当に姉なのか、それとも姉の形をした何かなのか、咄嗟に判断がつかなくなる。
姉は僕の方へ身を乗り出して、顔と顔が触れ合うくらいまで近付いた。そうして金縛りにでもあったみたいに動けない僕を上目遣いに見上げ、そっと囁いた。
「ねぇ、私を抱いてくれる?」
「……え?」
言葉の意味がわからなかった。そんな呆けている僕に構わず、姉は自分のブラウスのカフスボタンを外す。そして前のボタンに手をかけたところで、事の異常性に気がついた。姉の手首を握り、何とか阻止する。
「ちょ、ちょっと待って!!一体、どうしたの!?こんなの、リンらしくない……!!」
「何が“私らしい”の?“私らしさ”って何?ねぇ、教えてよ。私はどうしたら“私”になれるの?」
「リン……」
姉の声は、ロボットが肉声を持ったかのようで抑揚がない。絶句する僕に自虐的な笑みを浮かべ、姉は急に体勢を変えて僕を突き倒した。
「っ……!!」
一瞬息が詰まり狼狽していると、そんな僕の両腕を抑えた状態で、姉が言葉を吐き出した。
「それと比べて、レン。貴方はいつまで経っても変わらないのね。全く、貴方らしい。ほら、覚えてる?昔もよくこうして遊んだわ。レンはいつもいつも、私に負けて組み伏せられていた。ちょうど、今みたいに」
確かにそうだった。僕はおやつの争奪戦でも、部屋の陣取り合戦でも、必ず姉にこてんぱんにされていた。指摘されなくてもわかっている。でも心臓が強く脈打ち、目は見開かれて痛いくらいだ。何度も何度も言い聞かせ、宥めすかしてきたことなのに。僕は昔と何も変わっていない。姉に一人前とは認めてもらえない、双子の弟のままで……。
そんな僕を見て、姉は酷薄に口元を歪めた。
「貴方はいつまで経っても、可愛い可愛い弟のまま。手のかかる、私がいないと何にも出来ない――……」
「……僕は昔とは違う!!」
リンの手首を掴み、ベッドに押し付けるようにして背中を反転させる。姉は何の抵抗もできずに、容易く体位は入れ代わった。いとも簡単に成し遂げられたことに自分で驚いてしまったが、考えてみれば当然のことだ。僕が掴んでいる細い手首、そして華奢な身体。僕は平均にも及ばない体付きだが、それでも女性と比べたら力の差は歴然としているはずだ。こんなに儚げな姉であれば尚更に。
そうだ、昔とは違う。僕は男、姉は女。逆転するのは当たり前で、でもそれは僕が変わったというよりは自然の摂理のようなもので……。僕と姉が再会できたのと同じくらい当然の成り行きで――。
「そうよね。もう私はレンに適わない。レンは男で、私は女になってしまっているから」
「……リン――」
はだけた胸元から、傷跡がわずかに覗いている。傷んだ果実のような、赤黒い跡。どうやら見えている範囲だけじゃなく、全身に打撲傷があるような――。……これは……何で……どうして――。
「ねえ、レン。今だけでいいの。双子の弟としてじゃなくて、男として私を見て」
姉が何故このような申し出をするのかわからない。思考が焼け付き、頭が真っ白で、何も考えられなかった。ただ感じるのは、磁石のように引かれてしまう己の意識。彼女に、女の表情をした別人のような姉に、全て持っていかれる。
抗えない。……抗いたくない。悪夢の中に落ちていく気分なのに、どこか甘美なのは、そこに姉がいるからだろうか。
姉がいるなら、僕はどんな罪も背負う。
「……わかった」
僕の瞳に何を見たのか、姉はどこか幸せそうに微笑んだ。
(続く)
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