[5:これもまた、常になる-ancora-]


「ねぇ、キノウ?どうしたの・・・?」
アスカの声で目覚めた僕は、目元をぬぐう。
優しい朝日が濡れた袖を映し出す。
「キノウ、悲しいの?」
心配するアスカに、微笑んで首を横に振る。
涙は、悲しい時だけ流れるものじゃない。
涙には、きっと「さようなら」の意味がある。
僕にも、少しの間、さようなら。
「おはよう、アスカ。」
「うん、おはよ!」
アスカは、昨日とは全然違くて、何日か前の彼女に戻っていた。
ヘコんでいたらどうしようかと思ったけれど、彼女は涙なしに別れを告げたらしい。
何事もなかったかのように、日常に戻ろうとしていた。
朝ご飯を食べて、学校に行く。
少し休んだだけで様子が変わるわけもなく、
源が無駄に元気よく話しかけてくれるのも気にならなかった。
「ただいまー。」
「おかえり、キノウ!今日ね、頑張って夕飯作ったよ!」
エプロン姿のアスカは、周りに音符でも飛んでそうなくらい明るくて、
僕もつられて笑ってしまう。
「何作ったの?」
ふふふ、とちょっとためてから自慢げに腰に手を当てる。
「ビーフシチュー!」
前に僕が喜んだのを覚えているのか、彼女の自慢料理になっていた。
テーブルにはしっかりと料理が並んでいて、見た目もきれいに盛り付けされている。
僕一人分にしては少し多いけれど、そんなことは気にしない。
「いただきます。」
「めしあがれ♪」
そういえば、結局彼女にいただきますの意味を教えられなかった。
あの電話から、何も言えずにいるのだ。
ただ、僕にとっては意味があって、彼女にとっては意味のないこの言葉を繰り返している。
「このテレビ、面白いね!」
アスカは僕の向かいの席に座って、僕が食べているのを見たり、テレビを見る。
とてもうれしそうで、楽しそうな表情。
最初の頃とは、やはり違かった。
ご飯を食べ終わると、僕も一緒にしばらくテレビを見て、何気ないことを話したりして、
アスカは洗いものをしながら歌を歌っていた。
布団に入ると、深い眠りに落ちていく。
今日はきっと夢を見ない。


*


「キノウ!」
アスカに呼ばれ、まぶしさに目をこする。
昨日のようにそれが濡れることはなかった。
「おはよう、アスカ。」
「うん、おはよ!」
朝ご飯を食べて、学校へ向かう。
同じ事だけれど、授業の内容は進んでいて。
源との会話も、昨日とは違うことだった。
夕日も、昨日より少し赤かった。
「ただいま。」
「おかえり、キノウ!今日ね、頑張って夕飯作ったよ!」
このセリフは、昨日も聞いたけれど。
ありふれた日常の言葉は変わらないものだ。
「今日は夕飯は何?」
「あのね、ビーフシチュー!」
…デジャビュ?いや、これは確実にあったことだ。
「昨日もそうだったよね」
アスカを傷付けないように、やわらかい言い方をする。
「え?違うよ、昨日は・・・あれ?だって、昨日は、きのうは・・・」
最初は、僕がおかしなことを言ったように思ったみたいだったが、
だんだんとおかしいことに気づく。
「あぁ、良いんだよ!僕、ビーフシチュー好きだし!」
別に気にすることじゃない。
「そっか、じゃあこっち!」
気を取り直したように明るくなって、僕の手を引く。
テーブルには、昨日と同じ並びで料理が並んでいた。
「いただきます。」
「めしあがれ!」
料理を食べながら、色々と考える。
おいしくできている昨日と同じ味のビーフシチューは、味があまりしない気がした。
彼女はどうしたのだろうか?ショックが大きくて少しおかしくなっているのかもしれない。
大丈夫、すぐ治るはずだ。
「このテレビ、面白いね!」
楽しそうな彼女の言葉が、僕の不安をあおる。
それでも、僕は僕に言い聞かせる。
何でもないのだと。
この日常が、終わることはないのだと。


*



あれから一週間。
僕の夕飯はビーフシチューだった。
言い聞かせたはずの言葉に、矛盾が生じ始める。
よくなじんだ電話番号に、電話をかける。
出たのは、聞きなれた声ではなく、女性の声だった。
「あの、こんばんは、今井です。」
「響夜くん・・・」
「あの、アスカのことなんですが。」
「…言いたいことは、なんとなくわかるわ。様子がおかしいんでしょう?」
彼女は知っていたんだ、いずれアスカがこうなることを。
だから、僕にはアスカがいると言った時、妙な間を置いた。
「まるで、昨日のことを覚えていないようで。」
「常盤さんも、倒れるまでずっとそれを気にしていたのよ。
 メモリーが、足りないんですって。」
「メモリー?足すことは出来なんですか?」
「私も色々な資料を見てはみたんだけど、メモリーを付け替えることは出来ても、
 足すことは出来ないみたい。付け替えてしまうと、今の記憶は失われてしまうわ。」
「じゃあ、アスカはどうなるんですか…」
「言葉や感情や表情が優先的に保存されるようになっているの。
 記憶などは、新たに追加されても次の日にはリセットさせてしまう。」
「つまり、今のまま変わらないってことですか…」
「そういうこと・・・ごめんなさい。私にはどうしようもないの。」


*


僕は変わって、君は変わらない。
この差はなんだろう。
僕は生きて、君は・・・。
しっかりと繋いだはずの手。
温度が馴染んでいって
だんだんと感覚がなくなっていく。
僕が出来ることはなんですか?
また、強く手を握って。
絶対に離さないから。
君は、確かに生きている。
手から伝わるのは歯車の音。
精一杯の生命の叫びだ。
何も変わりはしないのだから、
なら笑っていれば良いじゃないか。
終わることのない幸せが、
苦痛に変わるまで続くというのなら、
それこそ幸せだ。


*

あの宝箱はボクが知らないうちに溢れてしまっていた。
「今日」はとても大事だけれど、
「今日」をとっておくためには
「昨日」を捨てなくちゃいけなかった。
そうしないと「明日」がなくなっちゃうから。
ねぇ、ボクは選ばなきゃいけないの。
どうしよう。
ボクは「明日」を望んだ。
だから、「昨日」にさようなら。
なんだか、目元が熱かった。


*

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

【メモリー忘却ループ。】5:これもまた、常になる-ancora-【オリジナル小説】

閲覧数:67

投稿日:2012/02/16 20:32:17

文字数:2,546文字

カテゴリ:小説

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