7.石像の心

「冷たく白い石像、面影にそっと手が触れるとき」
 白い女神像が、真っ青な海に向かって手を広げる隣で、白い頬をしたルカの唇が小さく動く。
「朱に染まり色づく頬、あなたに逢いたい……」
 真昼の、海から吹く風が、ルカの唇にそっとくちづけては陸へと飛び去っていく。
 ルカは、昼食を取らずに博物館の事務所を出て、市庁舎を見上げ、そして岬まで歩いてきたのだ。正直、ルカ自身、なぜ岬へ来たのか分からない。ただ、足の向くままに歩き、気がついたら傍らに女神像が、腕を広げて立っていたのだ。
 そして、何かに誘われるように、潮騒に乗せるように、ルカの唇が歌を紡ぐ。唇かが響き出た歌は、ルカが幼いころに聞いた歌だ。
 遠い島々へ出かけて長く帰らぬ父を待ちながら、母が歌っていた歌だ。
 ひとり、家の作業をこなしながら、つぶやいていた歌だ。

 対の歌になるはずの歌を、ひとりで歌う心持は、どのようなものであったのだろう。幼いルカにさえ、伝説の女神に託した母の心を想像することは簡単だった。
 さびしい。さびしい。さびしい。
 そばにいて。ふりむいて。一緒に歌って……!
 ある湿った冬の年に、母は父の留守中に突然の病で亡くなった。冷たい空から静かに降る雨に空気が重く沈む中、ルカの心には、使用人たちの嘆きよりも、親族たちの悲しみよりも、母の歌う女神の歌が、強く深く遺された。

 その歌が、今、ルカの唇を動かしていた。声がだんだんと色を帯びていく。
「動かぬ体、石の檻から、救い出してほしい、」
 まるで、となりの女神像がともに歌ってくれるような心強さを感じていた。初めは消え入るようだったルカの声が、海に向かってだんだんと飛んでいく。届かぬ人を切望する心が、声量を引き切るように上げていく。
「命……与えて、ください……!」

「歌だ……」
「ルカちゃんが、歌ってる……」
 だんだん近づくにつれて、はっきり聞こえるようになった歌に、リントもレンカも驚いていた。
「まさか、ね」
 レンカが信じられないといった表情でリントを見る。
「すげえな。あの歌、このあたりでは有名だけど、大陸の人は知らないと思っていた」
 リントの表情が、ずんずん上気していく。どんどん興奮に満たされていく彼の表情を見て、レンカの方は複雑だった。
「あれは、王と女神像の伝説の歌」
 それは、王の心と女神の心、対をなす二つの歌詞と旋律を、織り合わせるように歌う歌だ。
 普通は、一人で歌うなら、王の心の方が圧倒的に歌いやすい。しかし、ルカはあえて不安定な女神の心のパートを歌っている。
「……ルカちゃん、誰かを待っているの……?」
「……レンカ。オレ、ちょっと先にいくぞ」
 その時、並んで歩いていたリントがすっとレンカを追い越した。
「リント?」
 リントが風を吸い込む音が聞こえた。そして、リントの声がルカの声に丁寧に寄り添った。優しく寄り添いながらも、意志を持って女神の心を汲み上げるような、しっかりとした伸びやかな王の歌が響いた。
 レンカは、思わずその場に立ち止まる。海から吹く、昼さがりの柔らかな風の中で、リントとルカの歌が混じりあう。

「愛しい人よ、あなたを呼ぶ」
 突然重なった声に、ルカは思わず勢いよく振りむいた。
 はっと振り向いた先に、にこやかに笑うリントがいた。
 思わず声を止めかけたルカだが、リントはそのまま次の音を発声した。
「……!」
 これは、歌えということか。
 リントは頷きもせず、ただ掬いあげるようにフレーズを続ける。ここでルカがパートを落としたら、歌が途切れてしまう……
 ルカの思考の中で、限りなく長い一瞬が過ぎて行った。

「微笑み……交わせるのなら、」

 反射的にルカは『女神の歌』を続けていた。
 リントの顔がぱっと輝く。リントの『王の歌』と、見事に響き合ったのだ。
 ファッと海から風が吹いて、ルカの髪を掬いあげた。
 ぞくり、と背筋を何かが駆けあがった。ここでやっと、リントがルカに向かって瞳だけで微笑んだ。

 な?『来た』、だろ……?

 ルカの視界に、一瞬海が映った。向かい合う彼の瞳の色と同じ、澄んだ真っ青な海の色……

……リント、

 頷いた瞬間、ルカは腹の底が熱く燃え上がるのを感じた。その勢いのままに吸い込んだ風は、強く明るい潮の味がした。
 ルカは大きくうなずく。そのルカに、またリントも大きく頷き返し、彼はわずかに声量を上げた。
『王の心』が、より強くはっきりと、ルカの胸に飛び込んだ。
 ルカも大きくうなずき返す。彼の声に応えるように、喉を広げた。先ほどより広く深い声が、『女神の心』と同調して響き出す。

 リントがゆっくりとルカの正面に歩み寄り、彼はルカに向かってゆっくりと手を伸ばす。
「『幾千の愛を語るより、あなたの指にくちづけを』」
 ルカが束の間逡巡した。しかし、歌詞と旋律に誘われるように、ルカの手がゆっくりとリントの前に上がっていく。

 リントがにこっと笑った。そして、おずおずと差し出されたルカの手を、リントは右手できゅっと握った。

「願うのは……」

 刹那の出会いだけ……!

 ルカの頬が、桜色に紅潮していく。それを、リントの瞳がまっすぐに見つめている。
 岬の女神の足元で、ふたりの歌が風に乗り響いて海を渡る。
 きらきらとした波と潮騒の音が、ふたりの音に千年の愛の伴奏を重ねた。

 その様子を、レンカはゆっくりと追いつきながら聞いていた。
 明るく、嬉しそうに笑いながら歌うリント。
 頬を赤らめながらも、けして声量を落とすことはしないルカ。
 二人の響きが、大理石の女神像に見守られながら、この島で最高の、エメラルドブルーの透明な海を渡っていく。

「リント……。ルカちゃん……。」

 最後まで歌いきった二人の余韻が、風と海に溶けきったとき、レンカは履いていたサンダルを脱ぎ棄て、そのまま一直線に岬の先へと走った。

「レンカ……?!」

 リントの驚きの声がレンカの耳に届く前に、金色の風が二人の前を疾り抜けた。風は女神像も、手をつないでいた二人も追い越した。引きとめる間もなく、そのまま崖の突端をレンカの素足が鮮やかに踏み切った。

「あ、おい! ちょっと?!」

 リントの静止の声と同時に、レンカの視界いっぱいに真っ青な海が広がった。速度を上げて海が眼前に迫る。
 そして、慌てて崖下を覗き込んだリントとルカが目を凝らした瞬間、水面でぱしゃん、と水しぶきが上がった。

「……リントー! ルカちゃーん! 良かったー! 歌、良かったよー!」

 金色の頭がいつものようにぷかりと水面に上がり、レンカが思い切り手を振るのを、リントもルカも思わず口を開けたまま見つめてしまった。

「ってレンカ! し、心臓止まるかと思ったぞ!」

 その言葉に、立ち泳ぎをしながら、レンカは、頭に寄せ上げていた水中眼鏡を、くりっと顔に降ろして叫んだ。キラリとレンズが光った。

「だーいじょーぶ! このあたりはいつでも深いし、今は潮が止まっているから!」

 リントとルカは、思わず顔を見合わせる。たしかに、いつも崖に打ち付けている波の音が、それほど大きくない。そして、こころなしか水面が近い。丁度、満潮時なのだ。

「……レンカは、ここの海を良く知っている。だから、大丈夫」

 ルカが、崖下を覗きながらそっと呟いた。ルカの視線の先、ちょうど高い建物から地面を望んだくらいの高さはあるだろう、その水面を、レンカがくるくると泳ぎ回っている。
 やがてくるりと方向を変えて、泳ぎ出した。いつもの石拾いの場所に向かうのだ。

「……そうか。いろんな島を見て、海を渡ってきたルカにそう見えるなら、大丈夫かもな」

 レンカの泳ぐ先には、潮の流れが石を寄せる場所がある。流れの複雑なその場所を泳ぎ抜ける勘を持つなら、岬から飛び込む時の判断を間違えることは無いだろう。

「ちぇ。なんで、いきなり、あいつ……」
 と、リントは、手をルカとつないだままだったことに気がついた。
「あ、わ、わり……あの、つい、勢いで……歌にあてられたっていうか!」
 焦って離そうとしたリントだが、ルカは、そのまま放さなかった。

「ルカ……?」

 リントが声をかけた瞬間、海を見ていたルカがリントの方を振り返った。
「リント!」
「うわ?!」

 そのまま、ルカがリントの手を引き寄せた。リントの胸に、まっすぐにルカがぶつかった。

「いてっ……って、おまえ、大丈夫か……」

 ルカは、リントの胸に顔をうずめたまま動かない。
「おい、ルカ……」
「わかった」
 ぱっとルカがリントの手を掴んだまま、胸から顔を上げた。
「私、リントのこと、好きだ!」
 その瞬間、ルカの頬が薔薇色に輝いた。どきりとリントの心臓が跳ね上がる。
 時は明るい昼下がりである。
「え、え? え……えーっと……?」
 今までの言動からして、このルカの「好き」を、女子が男子に向けるような一般的な「好き」と同じに受け取ってよいものか、リントは悩む。しかし、すぐさまリントはその考えを吹き払った。
 『好き』は、『好き』だ。
 それも、人に対して感情を抱いたことのないルカに、好きといわせたのだ。本意はともかく、その事実だけで、十分だ。
 ……十分、嬉しい、とリントは思った。

「ルカ!」

 ルカの目の前で、目を合わせて、リントはとびきりの笑顔を見せた。

「オレもルカが好きだぞ!」

         *         *

 それから、リントとルカは、毎日連れだって岬へと通った。もちろん、レンカはいつもどおり、毎日海へと潜っている。
 変わったのは、リントが粘土を削るときに、女神像を見上げながらでは無く、ルカと歌いながら作業を進めるようになったこと、そして、レンカが潮の良い日には横着して岬から直接海へ飛び込むようになったことだ。

 そして、ルカは、以前のように石像のような白い表情を見せることは滅多に無くなった。
 そっけない口調は相変わらずだが、リントとよく掛け合い、レンカとよく語る姿が見られるようになった。
「……すごいな、君たちは」
 ヒゲさんは、毎日海から帰って来る三人を見て、思わず観察日記をつけたくなったと嘯いた。

 そして、二週間後。ルカが父親と連れだって大陸へ帰る前日の夕方。
 この島一番といわれる、岬の夕焼けの景色の中で、リントはルカと歌い、そしてある物を手渡した。

「これ。記念にやるよ。……オレが掘り出した、……ルカだ」

 ルカは、目を丸くした。
「女神像を彫っていたんじゃなかったの……?」
 たしかに、形は女神像である。手を温かく広げて、やわらかいまなざしを向けている。
「何言ってんの!」
 リントが二カッと笑った。
「『女神』だろ? 実際、『女神の心』を歌ったんだし!」
 さらに目を丸くしてリントを見つめたルカに、リントはさらに笑った。ルカの手の中で、ちいさなルカの像が、女神の衣装をまとって柔らかく微笑んでいる。
「……これが、私」
 リントが頷いて、手を差し伸べた。
「そうだ。……また来いよ!」
 ルカも、少し視線をそらし、やがて、リントをまっすぐ見つめた。
「……うん!」
 ルカの手が、リントの差し出した手に触れる。周囲の空気が浮き上がるように上気した。

 レンカは、いつものように、拾ってきた石を並べながら、ふたりの様子をじっと聞いていた。

「伝説の王様と女神も、あんな感じだったのかな。きっと」
 レンカの集めた石片は、古い言葉の断片を示すのみである。未だ何も語らぬ石の欠片たちに、レンカはそっと溜息をつくのであった。

 そして、次の朝、ルカは島の港から旅立って行った。
「ぜったい、また来るだろうな、あいつ」
「……うん」
 汽笛の音が遠く水平線を越えて消えるまで、リントとレンカは去りゆく船影を見守っていた。
 青空に、飛行機が、まっすぐな線を描いて大陸へと飛び去って行った。

         *         *

 大陸に去ったルカと、リントが、島で思いがけない再会を果たすことになるのはこの4年後である。


 ……つづく!

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

滄海のPygmalion 7.石像の心

リント×ルカでいってみました。レンカふぁいと!


発想元・歌詞引用 U-ta/ウタP様『Pygmalion』
http://piapro.jp/t/n-Fp

空想物語のはじまりはこちら↓
1. 滄海のPygmalion  http://piapro.jp/t/beVT
この物語はファンタジーです。実際の出来事、歴史、人物および科学現象にはほとんど一切関係ありません^^

閲覧数:166

投稿日:2011/05/16 00:02:16

文字数:5,023文字

カテゴリ:小説

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