「峠は……たが……せん」
「いえ、先生は充分……ました」
リンは暗い視界の中、近くから聞こえる断続的な会話を聞いていた。
意識は朦朧としていたが、声の正体は医師と父である事は分かる。どうやら自分は眠りから目覚める寸前の状態らしい。現実と夢が混じり合ったような感覚がするから間違いない。
とにかく起きなきゃ、起きて皆を安心させないと。
もう少し寝ていたいと言う欲求が心をよぎったが、それを振り切って目を開く。視界に入って来る光が眩しく感じたものの、すぐに目が慣れて周りが見えるようになった。
「……え?」
見慣れた自分の部屋の天井が映り、リンは気の抜けた声を出してしまった。頭と背中に当たる柔らかい感触で自分がベッドに寝ているのにも気が付く。
おかしい。記憶が相当曖昧だが、確か外で体調を崩して倒れてしまったはず。なのに、どうしてここにいるだろう。
誰かがここまで連れて来てくれた? だとすると……。
「リン! 良かったわ、目が覚めたのね」
「お母様」
リンは体を起こし、ベッド傍の椅子に座る母に寝ぼけ眼を向ける。覚醒しきっていない頭のまま部屋を見渡すと、父と医師がベッドから数歩離れた位置に立っているのも見えた。窓に掛けられたカーテンの隙間から見える景色と、部屋にある時計のお陰で真夜中なのが分かって驚いたが、それ以外は当たり前の日常の光景だった。
もしかしたら今までの事は夢だったのだろうか。リンはふと思う。
レンと出会った事や市場に行った事は友達が欲しい願望が引き起こした夢で、実はずっと眠っていただけだった? ……そうだよ。本当に死神がいたとしても、あんな風に姿を見せたり、人間と仲良く話をしてくれたりする訳が無いじゃない。
あり得る可能性が高い想像が湧き起こり、リンはその考えに流されそうになる。しかし、そんなのは嫌だと否定する。
違う、あれは夢なんかじゃない。レンと他愛の無い事を話して笑った事も、繋いだ手の感触だって覚えている。
リンは無意識に自分の胸元に手を伸ばし、掴んだのは服の布であった事に気付いて狼狽する。
「あ……あれっ!?」
付けていたはずの首飾りが無い。視線を下に落として見えたのは出掛けた時の服では無く、普段着ている白い部屋着だった。
嘘だ。あれが全部夢だと思いたくない。レンの存在を無かった事にしたくない!
「具合はどうだ? リン」
「私が付けていた首飾りは!?」
体を気遣ってくれた父の言葉と重なるようにリンは叫ぶと、父と母は呆気にとられた顔をした。
「ト音記号の銀の首飾り。……無かった?」
驚いた顔をしている父と母にもう一度訪ねる。もしも首飾りが無かったら、全てが幻であった事を認めざるを得なくなる。
お願いだから否定しないで。緊張のせいか重く感じる静寂の中、リンはそう願って答えを待つ。
「それならここにあるわ」
母は椅子に座ったまま棚に手を伸ばした後、リンの前に首飾りを差し出す。これの事でしょうと聞く母に礼を言い、リンは首飾りを受け取って両手で包み込む。
「良かった。あった……」
レンと分けあった二つ一組の片割れ。これが自分の手の中にあると言う事は、今までの事は夢なんかじゃ無かったと言う事だ。安堵してもう一度部屋を見渡すと父と目が合った。
「気分が悪かったり、だるかったりしないか?」
ベッドの傍まで移動した父はやや不安げに聞いて来る。リンは痛みも息苦しさも無い事を確認して返した。
「大丈夫」
少なくとも今はと内心で付け足す。起きる寸前に聞こえた会話や両親と医師の顔を見れば何となく察しはついていた。
もう自分の命の期限は目の前に迫っている。ならば尚の事心配をかけたく無かった。
「何で私はここにいるの?」
意識を失った後レンが家まで送ってくれたのだろうとは思うが、確かな事が知りたい。リンが質問すると母がまず答えてくれた。
「リンは高台の下で倒れていたのよ。偶然通りがかった男の子がリンを家まで運んでくれたの」
そうでしょう? と母は父に確認すると、父はしぶしぶと言った顔で頷く。帰って来てからしばらくは熱が下がらず、正直このままリンが目覚めないのではないかと覚悟していたと話した。
「夕方から今までずっと眠っていたのよ」
「そう、なんだ」
やっぱりと思いながらリンは曖昧に返事する。確信を得て、レンはどうしているのだろうと考える。部屋にはいない。と言う事は他の部屋にいるのだろうか。それともまた明日来ようと考えて家から去っているのか
黙ってしまったリンに父は不機嫌半分、心配半分の口調で尋ねた。
「リン。あの黒ずくめの少年は一体誰だったんだ?」
レンは名乗らなかったのか。それともそんな余裕は無かったのか。どちらにしろ、レンについては全部話さない方が良い。死神だなんて言っても信じはしないだろうし、不吉な存在だと思い込んで悪く言う可能性だってある。
「あの人はレンって名前で、市場に行った時に親切に案内をしてくれたの」
当たり障りの無いようにリンは言葉を選ぶ。嘘は言っていない。幸い両親は信じてくれ、以上詳しく聞く事はしなかった。だが父の表情は暗く、思い詰めているようだった。
悪い知らせで受けたのだろうか。リンは何気なく父に話しかけると、父は両脇に下ろした手を握りしめ、落ち込んだ声で返した。
「彼はリンの恩人だったのだな……。私は何と言う事をしてしまったのだ」
「お父様、レンに会ったの?」
雰囲気からして良い知らせで無い事は明白だが、リンは詳しい事を教えてと詰め寄った。
娘の真摯な態度に応えようと伯爵は重く打ち明けた。
混乱していたとは言え、リンを送り届けてくれた親切な少年に礼を言う事も無く、罵声を浴びせてしまった。
「そんな……」
父から顔を逸らさないまま、リンは悲痛に表情を歪める。嫌な予感が当たってしまった。父を責める気は無い。こうなってしまったのは我が儘を言った自分のせいだ。もっと体の具合を分かっていれば、もっと早い時間に帰ってくればこんな事にはならなかったのに。
リンは項垂れ、両手で掛け布を強く握りしめる。涙を堪えようと唇を震わせ、両親を見ないまま言った。
「一人にして欲しい」と。
医師を含めた三人の大人はかける言葉が見つからず無言だった。沈黙が数秒続いた後、リンは再び頼む。
「お願い……。今は一人にして」
通常なら、危篤状態に陥った人間から目を離すなんて許されない。全員が思っていたが、リンの態度を見れば口が出せる状況では無かった。危険な状態である事は忘れないようにと医師は念を押し、母はリンを抱きしめてから席を立つ。
「すまなかった」
父はリンに詫びて最後に部屋を出てく。最小限に落とされた照明の中、リンは首飾りを握ったままベッドに横になり、ただただ涙を流していた。
黒い空を照らす満点の星と丸い月。闇に包まれた世界の中に金の光が映る。
レンはリンの家の屋根に座り込み、遮るものが何も無い夜空をぼんやりと見上げていた。
生き物は死ぬと星になり、残された者を空から見守る。人間はそう考えるらしい。そんなのは人間が自ら生み出した空想だ。生き物は死ぬと魂だけの存在になり、生命の輪の中に入って再び生まれるのを待つだけで、星になる事などあり得ない。
馬鹿らしいと思うのに、ただの空想だと分かっているのに。
「リン。私は貴女と共に星になれませんか……?」
どうしてそうなりたいと願うのだろう。何故自分は死神として存在しているのだろう。朽ちる事の無いこの身が憎くて堪らない。リンと共に果てる事が出来ればどれ程幸せだろうか。胸に空いた穴は空っぽのままだ。最初から死神としてリンと接していれば、こんな気持ちになる事は無かったのだろうか。いっそリンと出会わなかった方がお互いに良かったのだろうか。
不意に背後から気配を感じ、レンは立ち上がって正面を向く。背後に何かがいるのは間違いない。ならば、死神として話しかけなければ。
「その時が来たのか」
上手く言えたか分からないが、努めて仕事をする時の声になるようにする。鎌が現れたのだと確信していた為、後ろは確認しなかった。
それ故、返答があった事は予想外としか言いようが無かった。
「いーや? まだちょっと早いかな」
「なんっ!?」
レンは一瞬息を詰まらせ、困惑しながら勢いよく振り向く。レンが驚いた様子がおかしかったらしく、背後に立つ存在は笑いを堪え切れないようだった。
夜の闇に溶け込む黒いローブと月の光を反射して輝く青い髪。髪と同じ色の長いマフラーを夜風になびかせている青年。
「カイト、ですか」
一体何の用だと暗に含めつつ、レンはカイトに話しかける。
「つれない返事だねぇ」
若干であれ攻撃性が感じられるレンとは対照的に、カイトはおどけて肩をすくめる。ふざけた態度が少々気にかかったが、レンはそれを顔に出さないようにして再び話しかける。
「リン……。この家の娘の命を担当するのは私です。貴方は早く自分の仕事を探しに行くべきだ」
こうやって話している間にも、世界には消え逝く命が存在している。どの国、地域に行って仕事をするかは各死神に任されているとはいえ、全く同じ場所に死神が二人以上いるのは好ましくない。
自分と話している暇などあったら早く他を当たれ。レンはカイトにそう言っていた。
「全くお堅い事だ。それが恩人に対して言う事か?」
わざとらしい言い廻しをしたカイトに切り返され、レンはぐっと押し黙る。
実はカイトとはリンと共に市場に出掛ける前日にも会っており、その時何の気なしに一部始終を説明していた。
解決策を求めていた訳ではない。それを分かっていたはずなのに、彼は真摯にレンの話を聞いてくれたのだ。
「使うかどうかは分からないが、無いより良いから持って行け」
どうやって入手したのか見当もつかないが、カイトは人間の世界で使える金を持っていて、それをレンに渡してくれた。財布を手にした直後は疑問が頭を支配して困惑するしかなく、しばらく経って我に返った時にはカイトの姿は既に消えていた。
レンは胸元で揺れるヘ音記号の首飾りを握りしめる。確かにカイトのお陰でこれが買えた事、リンと楽しい時間を過ごせた事は間違いない。
「その事についてはありがとうございます」
律義に礼を言われ、カイトは気にするなと軽く片手を振る。
「金は返さなくて良い。……嫌な言い方をして悪かった」
先程の恩人発言の詫びかとレンは判断する。それこそ気に掛ける必要は無いと伝えてから固い声で告げた。
「ですが、それとこれとは話が別です」
そもそも、カイトが何故ここまで自分と関わろうとするのかが分からない。先程も言った通り、リンの命を刈り取るのは自分の役目だ。
「早く帰って下さい」
カイトには感謝しているが、今は一人になりたかった。正確には誰とも顔を合わせたくなかった。そんな気持ちも込めて追い返そうとしているのに、カイトはこの場を立ち去る気配すら見せない。
「目の前にいる死神はお悩みの様子なんでね。声をかけるくらいはしたいのさ」
「私が解決すべき問題です。貴方が関わる義務は無い」
レンは手助けなど不要だと即座に断る。取りつく島も無い返答に、カイトはつれないなと再び肩をすくめた。同時に道化めいた態度を一変させる。
「自分の気持ちに嘘をつき誤魔化して目を逸らしたまま、彼女の命を狩るつもりか?」
遠慮なく言われた台詞は、レンが悩んでいた原因事そのものだった。ただ気が付かないふりをしていただけだと指摘され、レンは体全体が熱くなる感覚を覚えた。
「貴方に何が分かる!」
神と人間と言う違いを理解した上で、自分を人間として扱ってくれた少女を死なせなければならないこの気持ちを。
死なせたくない。もっと生きていて欲しい。その思いとは真逆の事をしなくてはならないやり切れなさを。
「分かるさ」
聞き逃しそうなほど平坦で小さな声。カイトは沈痛な面持ちでレンを見つめていた。
ただならぬ雰囲気に呑まれたレンはそれ以上口を開く事が出来ず、思考と疑問が頭を支配する。
何故分かると言える? 彼も前に自分と同じ思いをしたのか?
マフラーを付ける前までは、カイトは文字通り『死神』だった。だが今は違う。死神と言う事は変わり無いが、彼は人間の心を知っている。それをどうやって知る事が出来た?
「レン。これだけははっきり言える事がある」
思考を中断され、レンは眉を寄せる。カイトは先程の真面目な顔は何処に消えたのか、にっと歯を見せて笑顔になった。
「今レンが受け持っている女の子は、レンに命を狩られるなら良いと思ってるよ」
「はあ?」
理解不能な事を言われたせいでおかしな声が出てしまった。どうして自分なら良いのか、他の死神では駄目なのか。それを聞くと、カイトは深い溜息で返した。
「まーだ気付いてないのか」
呆れた様子の口調で言われても、レンにとっては思い当たる所が全くない。ますます困惑して首を捻る。
「まあ仕方ないか、うん」
一人納得した様子のカイトが呟く。彼と話しているとどうも調子が狂ってしまうとレンは判断し、この場から立ち去る事を決めた。
「とにかく、カイトには関係の無い事です」
失礼する! と語気を強くして言い、レンはローブを翻して姿を消した。
冬の風を一身に受けながら、カイトは見通しの良くなった屋根の上で独白する。
「死神だから何かを愛してはいけない。なんて事は無いんだよ」
第三者から見れば感情をむき出しにしているとしか見えないのに、レンは死神の自分が人の心を持てる訳が無いと考えている節がある。
そう考える事自体が感情に目覚めている証拠だと言うのに。
「確かに俺達は死神だ。人間にはなれない」
片手で首元のマフラーを握りしめる。これを付けるようになってどれ程の年月が流れたか。悠久の時を過ごす死神にとっては、時間の感覚はどうしても曖昧になってしまう。
「だけど、人の心を持つ事は出来るんだ」
自分の中で強く残る一つの出来事。死神でも心を持てる事を教えてくれた『彼女』と過ごした数日間。最後の日に、死神として彼女の命を終わらせた。
殺したくないと渋っていたら、しっかりしろと叱咤されてしまった。
既にこの世を去り、カイトは心の中で生き続けるその人物に語りかける。
「そうだろ? メイコ」
いつも付けているマフラーは形見であり、メイコとの思い出の品だった。
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零奈@受験生につき更新低下・・・
ご意見・ご感想
読ませていただきました。
お、お父さんがいい人化した!
そして本当にカイトが「お兄さん」だ!
うちの「鎌を持てない死神の話」のカイトもお兄さんキャラになったものの、書きながら「こんなのカイトじゃない!」って叫んじゃいましたw
結局レンは自分が感情を持っている事に気付けるのか、楽しみにしていますw
あと、私の方のやつが完結したので感想くれるとうれしいです。
ではでは。
2011/06/08 15:35:39
matatab1
メッセージありがとうございます。
お父様は今まで心に余裕がなかったのと、リンが倒れた事に動揺しちゃってただけなんです。大切な一人娘なので心配も一入。なのでリンを悲しませた事を余計に悔やんでます。
カイトは書いてる最中、「あ?、今回普通に格好良いわ。美味しい役どころだ」と言う感じでした。
どうもカイトは二枚目半のイメージがあるんですよ。
2011/06/08 18:44:48