ホームルームが始まる前の、貴重な時間。友人同士おしゃべりをしたり、授業の予習をしたりと過ごし方は人それぞれだけど、私は教室で本を読むのが習慣となっていた。
でも、今朝はいくら文字を目で追っても、その内容は全く頭に入ってこない。
…すべてはここに来る前に起こった、あの出来事のせいだ。
定期入れを差し出す少年の笑顔が、頭から離れない。
落とし物を届けてもらっただけなのに、この心のモヤモヤは一体何なのだろう。
「な~に難しい顔をしてるのかね、鏡音リン君?」
頭上から降ってきた声に顔を上げると、友人が意地の悪そうな笑顔で私を見下ろしていた。
「なによ…?」
「いやぁ、リンが朝からそんな顔してるもんだから、何かあったのかな~と、私の好奇心がビシビシと刺激されたわけですよ」
そんなことを言いながら、友人――ミクは、ニカッと歯を見せて笑った。
この笑顔を向けられて、良いことがあった試しが無い。こんな時はたいてい何か良くないことを企んでいたり、人をからかって楽しもうとしているのだ。
そして私は、毎回の様にそれに付き合わされている。迷惑なことこの上ない。
だいたい、「好奇心がビシビシ刺激される」ってどういう表現だ。意味がわからない。
「ほらほら、また眉間にシワ寄ってる。リン可愛いんだからそんな顔しちゃダメだぞ~」
そう言いながら、人差し指でぐりぐりと私の眉間を押す。……全く、誰のせいでこんな顔になっていると思っているんだこのネギ女。
「いや、でもほんと、何かあったんじゃないの?心ここにあらずって感じで、リンらしくないよ…?」
「別に、何かって程のことじゃないけど……」
そう。あんなの、取るに足らない事。こんなに気にする必要なんて、これっぽっちもないはずなのに…。
一連の出来事がフラッシュバックする。
人の行き交う駅のホーム。電車の音。少年の姿。そして―――
ミクは口元に指をあてて考えるそぶりを見せていたが、突如こっちをみて微笑んだ。
「…リン。お昼休み、部室ね。じっっっくりと話を聞いてあげるから」
「はぁ!?」
「あ、ホームルーム始まっちゃう。話はまたあとでね」
「え、ちょっと、私話すなんて言ってないし…!ミク!!」
叫ぶ声も虚しく、ミクは笑顔でひらひらと手を振り、自分の席へと向かってしまった。
……あぁ、お昼休みは公開処刑間違い無しだ。
「「あはははははは!」」
昼下がりの音楽室に、決して上品とは言えない笑い声が響く。
ミクに引きずられ、私たちコーラス部が使用している第一音楽室に足を踏み入れると、「待ってました!」とばかりに数人の部員に迎え入れられた。…ちょっと待て、ギャラリーが増えてるとはどういうことだ!
抵抗も虚しく、私は今朝の出来事を打ち明ける羽目になったわけだ。そして、この反応である。……私は馬鹿にされてるのか?
「…で、その少年君置き去りにして、逃げて来ちゃったんだ」
目に浮かぶ涙を指で拭いながら、野次馬その1――グミが言う。
「別に逃げたわけじゃ…」
「いやいや、何て反応すれば良いかわからなくて、その場から立ち去ったんでしょ。それを人は『逃げ』と呼ぶんですよリンさん。…しっかし、『馬鹿じゃないの』とは、傑作……!!」
そう言いながらまた笑いはじめるグミ。失礼窮まりない。
「ほらほら、そんなに笑ってたら鏡音さんに失礼よ」
「めーちゃん先輩、でも流石にこれは笑わざるを得ないというか」
先輩のフォローも虚しく、部屋には再び笑い声がこだまする。
「で、相手はどんなヤツ?かっこよかった?」
聞いてくるのは野次馬その2、ネルだ。
「どちらかと言えば、整ってる顔だったけど…」
「リンがそういうなら、かっこいいってことか」
「いいなぁ~、私もそんな運命的な出会いしてみたい!」
「グミはロマンチストだなぁ。こんな少女マンガみたいな出会い、そうそう無いって」
「ネルちゃんは夢なさすぎ!こういうシチュエーションは乙女の憧れじゃない」
「誰が乙女だ、誰が」
そんな二人のやり取りを見ながら、ミクが口を開く。
「顔よし頭よし。そんな子に気に入られるなんて、リンも隅に置けないなぁ」
…そう。彼が着ていた制服は、県内でもトップクラスの学力を誇る男子高。模試の平均点などで常にうちの高校と比較される、いわばライバル校だ。
「めーちゃん先輩って、この高校に彼氏いるんでしたっけ?」
「あー、うん、そんなヤツいたかな?」
グミの問いに恥ずかしがるわけでもなく爽やかに笑う先輩は、すごくかっこいい。
他にも男の子と交際している友人やクラスメートはいるけど、先輩はそういう子達とは違う。このサバサバとした性格は、女子から絶大な人気があるのだ。
そんな先輩が、じっと私の目を見る。そして、一言。
「鏡音さん。びっくりしたのはわかるけど、いきなり立ち去っちゃうのは相手の子に失礼よ。今度会ったらちゃんと謝っておきなさい」
「……はい」
そう諭され、素直に反省する。確かにあれはちょっと失礼だったかな。
彼は私を「同じ電車でよく見かける」と言っていたから、普段通りの電車に乗れば、会うことはできるだろう。よし、明日にでもちゃんと謝ろう。
未だ騒ぎ立てる友人を尻目に、昼食のパンにかじりつく。明日彼を見かけたら、どうやって話を切り出そうか。そんな事を考えながら、心のもやもやと共にそれを飲み込んだ。
追い掛けられる立場だった私が、まさか追い掛ける側に回るなんて、その時はこれっぽっちも思わなかった。
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