PCの駆動音が止んだ。
俺は重たい身体をベッドへ放り投げる。
目を閉じて思い出すのは、ついさきほどまでのミクとのやりとりだ。
《バーサス・ボーカロイド》。
何者かの思惑蠢く怪しげなネットゲームだ。
しかも深夜〇時に勝手に起動するという厄介なシステム付きだ。
負ければ契約相手、ボーカロイドを失い、ゲームをプレイできなくなる。
何が何でもやらなければならないという理由がある訳ではない。
ミクがこのゲームで求めている勝利も、そこに明確な理由があるという訳ではないらしい。
深刻に打ち込まねばならないという理由もない。
逃げるという選択肢も選べない訳じゃない。
だが、俺は知っている。
あの眼を、知っている。
真剣に何かに打ち込むときの、あの眼を。
ミクは真剣なのだ。
だからこそ、プレイヤーを大事にし、献身的にフォローする。
それは彼女が真剣にこのゲームをプレイしているからだ。
野球選手にとっての野球と同じように。プロゲーマーにとってのゲームと同じように。俺にとっての自慰がそうであるように、ミクにとってもこのゲームは大切なものなのだ。
そうと分かればその想いは無碍には出来ない。
その想いの価値を、重さを、俺は知っているのだから。
何より、ゲームは楽しむものだ。
まだ俺は何もしていない。
俺は《バーサス・ボーカロイド》を何も知らない。
あの、電脳空間で、俺は何が出来るんだろう。
ミクは何をするんだろう。
そこにはどんな光景が待ち受けているのだろう。
そんなことを考えていると、次第に俺の意識は夢の中へと引きずり込まれていった。
その日、俺は夢を見た。
俺はゲームをプレイしていた。
さきほど見たシーンと同じような領域。地下水道だ。
俺は水面に立っていた。
目の前には少女が倒れている。青色のツインテール。見るからにミクの姿だ。
ミクはぐったりとしている。息も絶え絶えといった様子だ。
手足は震えている。呼吸は細く、荒い。
なんでゲーム世界で死にかけているのか、なんて思いすら浮かばない。
思考がショートした。
俺の中で視界が惑乱する。
光景が、ダブる。
倒れたミクと、ベッドに横たわる少女の姿が重なって見える。
息が、止まった。
呼吸の仕方すら忘れた。
――いやだ。
俺は思わず後ずさる。嘔吐感が沸き上がる。
気持ちが悪い。眩暈がする。
――いやだ、いやだ、いやだ。
俺は腰から力が抜けた。
その場で跪き、視界からその姿を消すように俯いた。
それでも脳裏に灼きつく。頭にこびりついている。
助からない。
そんな言葉が胸を満たす。
何をしても無駄だ、と声が聞こえる。
声は続けて言う。
『足掻いても無駄だ。助かりはしない。目の前の少女も。あの時の少女も。覚えているだろう? そうだったよな? お前が何をしたところで、結局あいつは――』
「うわぁああああああああああああッ!!!」
悪夢だった。
ベッドの上で、俺は荒い息をしていた。
くっそ、ベッドで荒い息とか、響きだけならエロいってのに、ちっともそんなテンションにはならねえ。
見た夢が最悪だった。
結局俺は、何も変わってない。引きこもりのオタクでしかない。
あれから、変わったって気がちっともしない。
分かってる。分かってはいるんだ。
考えたってどうしようもないってことも。こうしていることが何のプラスにもならないんだってことも。
だけど、それでも――。
手を伸ばしても掴めないものがあるんだなって、そう思うだけで、どうにも打ちのめされるものがあるのだった。
俺はちょっとうんざりした気持ちで、カーテンを開けた。
眩しい日差しが、俺に起きろと言っているみたいだった。
翌日。
バカみたいに延々と繰り返されるつまらない日常は終わり、日は暮れ、夜がやってきた。
「準備はいいですか? マスター」
もはや聞き慣れつつある少女の声に、俺は少し辟易しながらも答えた。
「ああ。約束通り、十一時〇〇分、ちゃんと一時間前だぞ」
言うと、ミクはディスプレイの中央で頷いていた。
「ええ。ちゃんとパンツも穿いてますね」
見るとこはそこか。まあいい。
「けど、どうして一時間前なんだ? 準備するにしてもそんなに時間かけるものなのか? 設定なんざ十分あれば充分だろ」
「違うんですよ、マスター。深夜〇時に始まるのは《ランダムマッチ》。対して、これから行うのは《フリーマッチ》なんです」
「……説明よろ」
俺が匙を投げると、説明できることが嬉しいみたいにミクが顔を綻ばせる。ちくしょう、不意打ちだ。可愛い……。
「ハイ! 深夜〇時に行われるのは《ランダムマッチ》と言って、シチュエーション、相手などをほとんど選ぶことが出来ない対戦となっています。そのため、状況によって有利不利が激しく分かれ、事前の準備も困難なんです」
「……なるほど。それは面倒なシステムだな」
俺は顎に手を当てて溜息をつく。
「はい。ですので、通常はオーソドックスな兵装を用意して挑みます」
「極端な装備にして相性最悪だったら目も当てられないからな」
「そうですね。ですが、《フリーマッチ》の場合は話が変わります」
「それが今回始めるプレイの名称だったな。詳細頼む」
ミクはまた元気よく挙手して答える。律儀な奴だなしかし。
「ハイ! 《フリーマッチ》では、相手やシチュエーションを選択・指定することが可能なんです、マスター。例えば遠距離用の兵装を使って、同じような長距離用の兵装と戦うことも出来ますし、逆に近距離用の兵装の相手を選んで戦うことも可能なんです」
「相手は自由に選べる……。しかもいつでもプレイできる……。どちらかというとこっちのほうが普通のゲームっぽいな」
「そうなりますね。ただし、《ランダムマッチ》ほどポイントが獲得できる訳ではありませんし、あくまで補佐的な役割なんですけどね」
などと、ミクは言うが、利点はそれだけでもなさそうだ。
何より相手が分かるのはデカイ。練習にはもってこいという訳だ。
……なんとなくミクの思惑が分かってきたぞ。
「つまり今回は対戦の練習をしよう、という訳だな」
「さすがですね、マスター! 話が早くて助かります。……という訳で今回はリベンジしちゃいましょうッ!」
ミクが何らかの操作を行ったのか、画面内を文字が錯綜する。
そして、表示された文字は……、
【《鏡音リン/レン》にフリーマッチを申し込みますか?】
【YES/NO】
その名前の横に、フェイスアイコンが表示されている。
昨日見た、金髪の少女の顔だ。
燃え上がる炎とマイクスタンドを抱えた姿が思い出される。
そして、ミクを背後から襲った少年の姿も。
俺はゴクリと生唾を飲み下す。
「準備はいいですか? ……マスター」
ミクは遠慮がちに訊いてくる。そんな気遣いは無用だってのによ。
前回、俺たちは負けた。
初陣だったから。それもあるだろう。だが、挟み撃ちという予想外の手を打たれたのだ。それこそが一番の敗因だった。
同じ轍は踏まない。
不意打ちなんてものは、出会い頭にしか成立しない。
ならば状況は今度こそ互角。
ミクは強い。それは前回の戦いで良く分かっているつもりだ。
あとは、このゲームのルールを把握すること。そして、ミクを信じること。
たったそれだけで、俺たちは勝てるのだ。
俺は信じることにした。信じて、そのボタンを押した。
【フリーマッチが承認されました。】
【バトルフィールドへダイブ接続します。】
メッセージが表示され、俺の意識が身体から離れてゆく。
幽体離脱するみたいな得体の知れない気持ち悪さを感じつつ、俺の視界にはノイズが広がってゆく。
点が走り、線が交わり、面が広がる。
俺の意識は再び、電脳世界へ旅立っていったのだった。
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