一歩足を踏み入れただけでも、この部屋が私にとって以下に未知の空間であり、どこか落ち着きがなくそわそわとしてしまうものだった。
暖かい日差し、涼しい潮風、薄い肌色の壁、毛布のようなカーペット、本棚とそこに置かれた絵本と、色鉛筆とスケッチブック。
今まで触れたこともないようなものに実際に触れても、すぐにその感触になれるはずもなく、私はただ呆然とその場に立ち尽くして、それらに向けて適当に視線を動かしていた。
ここは二人の暮らす場所。クリプトン・フューチャー・ホームズのとある開発所の一室。しかしいつもは賑やかだったその場所も、今日に限っては朝から無人だった。
一定の教育期間を終えた二人に外出許可を出したのだ。開発者である科学者、網走博貴博士の要望で、私は二人、キクと帯人に外の世界を見せることにした。
二人は喜んだ。開発者であり教育係である二人の科学者も喜んだ。そうして、外の世界へと旅立っていった。
それはそれで良いとして、代わりに私は今日一日をこの無人で、今まで触れたこともない場所で過ごすことにした。いつもは監視カメラ越しに眺め続けているこの場所で、誰かを監視することもなく、それ以外の仕事もなく、かと言ってここから他に出ることはできなかった。
さてどうしたものかと、私は珍しく迷った。今まで向こう側からやってくる仕事をこなす生活を送り続けていた私には、こんな暇な日は、やはり落ち着かないものだ。
あれこれ考えてみても仕方なく、とりあえず私は、本棚のスケッチブックに手を伸ばした。画用紙を一枚めくると早速何かが描かれていた。頭と足だけの奇妙な生き物だっが、不思議なことに愛嬌を感じた。
それが原因かは分からないが、私は妙な衝動に駆られ、スケッチブックの白紙を捲り、色鉛筆を取り出して、カーペットの上にあぐらをかいた。
そして適当なことを思い浮かべてはかき消していきながら、白紙の上に黒を走らせた。
ある程度そのページが白紙で無くなったその時、上着の中でPDAが震えだした。
◆◇◆◇◆◇
ポケットラジオから流れる音楽を微かに触れるように聞きながら、僕を含めた四人は足元に触れる波を蹴りながらキクと帯人を真ん中に、僕と鈴木君がその両側に。僕達は手を繋ぎながら、青空の下、誰もいない砂浜を歩き続けていた。
「なんか、こんな都合よく晴れるとは思いませんでしたね。先輩。」
鈴木君が満面の笑みで言った。今日の彼は、僕よりも増して上機嫌だ。
「そうだね。まるで今日外出許可が出ること、空が知ってたみたいだ。」
「ふふっ・・・・・・そうですね。」
僕の子供のような返事に、鈴木君は笑って答えた。
今日僕らに外に出ることの許可が降りたのは意外だった。もちろん、前々からそれを考えていたが、まさか向こう側から許可が降りるとは思いもよらなかったのだ。
ともかく、これはいい機会だった。天涯孤独の身だった僕がそうして育ったように、人は外の世界を知ることで大きく成長する。こうして外を歩くだけで、今までのように、部屋の中で本を読んできたことなど、まるで無意味のように。
雲ひとつない晴天に、水平線の彼方へと広がるコバルトブルー。初夏の穏やかな日差しで、四人の歩む砂浜が眩しいほど輝いている。何年ぶりだろうか。こんな場所で、親しい人と肩を並べて歩いたのは。いや、今までこんなことはなかったのかもしれない。
キク、帯人、鈴木君の三人と手を繋いで、こうして砂浜を歩くなんて、まるで家族のようだ。
「家族、か・・・・・・。」
何気なく呟いたその言葉が、なぜか、重く胸に響いた。
「あ、ひろき見て!」
突然キクが声を上げ、頭上を指さした。その先では、いつの間にか多くの海鳥達が柔らかい潮風に身をまかせるようにして飛び交っていた。
「すごい・・・・・・あれ、なに?」
「あれは、鳥だよ。」
僕が答えるより早く、タイトが答えていた。
「とり?」
「翼で空を飛ぶ動物・・・・・・。」
タイトが思いのほか分かりやすい説明ができることに、僕はちょっと驚いて、鈴木君と顔を見合わせた。
「つばさ?」
「羽のこと。あれで羽ばたいて、空をとぶの。」
「へぇー。」
歩きながら、キクとタイトは海鳥達が舞う空を見上げた。初めて目にするその生き物達に、とても興味を持ったようだ。どこまでも深く、どこまでも澄んでいるその赤と紫の瞳が真摯に見つめる様は、そこに映るものから、二人が何をどこまで学んで行くのだろうと、僕の胸を弾ませる。
「じゃあ、きくも、つばさがほしい!」
「えっ?」
「ねぇひろき。きくもつばさ、あるかなぁ?」
「俺にもありませんか?」
突然、そんな突拍子も無いことを尋ねられて、僕は一瞬戸惑った。だがすぐに、僕はその答えを見つけ出した。
「・・・・・・あるよ二人とも。立派な翼が。」
「ほんと?」
キクが瞳を輝かせる。
「うん。今すぐにはちょっと難しいけど、きっといつか、キクもタイトも、高く羽ばたけるんじゃないかな、と思うんだ。高く飛翔する、そんな風に。」
「ほんと?!」
「ああ。だよね鈴木君。」
「ええ・・・・・・そうですね。」
僕の言葉の意味を理解した鈴木君が、清々しく微笑んだ。
しばらくして歩き疲れた僕達は、堤防に腰を降ろして潮風に吹かれていた。キクとタイトはお互いに肩を寄せて、気持よさそうに微睡んでいる。
その時、胸ポケットの中で着信音が鳴り出した。おそらくメールだろう。
画面を開くと、案の定、世刻からのメールが届いていた。
「最終調整? あ、そうか今夜なんだ・・・・・・。」
文章を読み進めながら、その内容をつぶやく。
「先輩、どうしたんですか?」
「いや、何でも二人の最終調整が今夜行われるようになったみたいだ。」
「急な話ですね。」
「まあいっか。機材はもう届いているようだし、準備もしてくれる。」
メールの内容とは、二人の中に残された不安定要素を完全に取り除くべく、今夜研究所で最終調整が行われるとのことだった。
まだ先の事のはずだったのが、随分急な話だ。でも二人のためでもあるし、僕はあまり怪しまなかった。
「あ、先輩。そろそろ戻らないと。」
そう言い、鈴木君が立ち上がった。外出許可とはいえ、当然時間は限られている。
「ああ・・・・・・キク。タイト。」
僕が二人の肩に触れたとき、頭上を笛のような高い音が鳴り響いた。
陽光を鋭く反射させる二機の航空機が、悠然と頭上を通り過ぎ、ほんの数秒で澄んだ空の彼方に消えていった。
「・・・・・・とり・・・・・・?」
その音に目を覚ましたのか、キクが小さく呟いた。
◆◇◆◇◆◇
時計の針がその時を指した。
もはや線画で埋め尽くされてしまったスケッチブックの一ページを切り取り、私は苦く笑った。柄にもないことをしたと。
その一ページを小さく折りたたみくずかごの中に放り投げると、私は足早に部屋を後にし、モニタールームに入り、コンピューターを起動させた。
専用のソフトを起動させると、そこにはやはり、友人からの贈り物が届けられていた。
私はPDAを取り出し短く確認のメッセージを送信すると、贈り物の中身を確認せずに解凍を始めた。
「・・・・・・まったく、気まぐれなお人ですね・・・・・・。」
溜息のように言葉を吐くと同時に、PDAに彼からの返信が届いた。それを確認して、私は閉口した。返信の欄には、こう表示されていた。
『うまくやれよ。』
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