【三】
ある夕時、腹を膨らませたあととりとめもない世間話をしているうちに、命子が俯いて船をこいでいるのに開人は気付いた。
これまでそんなことはなかった。疲れも溜まっていたのだろう。しかしそれだけ彼女が気を緩ませることが出来るのは、開人にとっては喜ばしいことだった。
焚き木に頭を突っ込んでは大変だと、彼女の隣に自分の紫衣を敷き、両肩に手を掛けてその上にそっと倒れるように促すと、彼女は大人しく横向けになって寝入ってしまった。
白く生気のない顔色に、痛ましい気持ちになる。
これほどの目に遭ってまで、彼女が『それ』を手に入れる必要はあるのだろうか。
たった一人で荒野を流離い、疲労に塗れて土くれの上に身を横たえてまで、それでも尚目指さねばならないのか。
山の頂きの何処かに咲くという一輪の花。
開人は唐突に、思う。いや、識る。
“無償ではない”のだ。
人の望みを叶える大輪の花。
―――では、花の望みは?
願いを叶える引き換えに、彼女は何を差し出したのだろう…?
命子はぼんやりと目を開いた。
あぁ、夜だわと思う。いつの間に寝たのかしらと。
パチパチという音に目を向けると、組み上げた焚き木がしっかりと燃えていた。
あぁ、じゃあ開人はまだ起きているのね。彼を置いて先に眠ってしまったのだろうか。覚えがないけれど、申し訳ないことをした。
するりと何かがすべり落ちた気がして、肩に手をやる。彼がいつも首に巻いている黒い布がそこに掛けられていた。
…優しい人。彼に出会えたことに感謝すべきなのは自分の方だと、命子は心から思った。
その開人の姿を探して、視線を巡らせる。
頭を少し逸らして顔を上げると、横たわる命子の丁度正面に彼は座っていた。
あ、と目を見張る。
開人は上半身が裸だった。濡らした布で身体を拭いている最中らしい。薄暗闇の僅かな炎の中でも、浮かび上がる男の身体はいやにはっきり目に飛び込んでくる。命子は気恥かしくなって思わず目を逸らした。
この前、彼に裸身を見られたことを否応なしに思い出して顔が熱くなる。大声を出して身悶えたくなり、命子は必死に目を瞑って、浮かんでくるあの時の出来事を忘れようと努めた。
実際、開人にもそう約束したのだ。平身低頭謝る彼に、どうか忘れてと。私も忘れるから、どうかなかったことにと。彼が承知したので、それでその件をお互い口にすることはなくなった。
…そのくせ自分は、何を夜陰に紛れてこそこそと覗き見るような真似をしているのだろう。はしたない。命子は俯き、彼の掛けてくれた布に顔を埋めた。ふわりと彼の匂いが香った気がして、また動揺する。
しゅる、と布が擦れる音がした。まさか下帯びまで、と焦ったがどうにも違うらしく、布の擦れる音はなかなか止まない。少し迷ったが好奇心が勝り、命子は決心して、もう一度視線を上げた。
見ると開人の腹に包帯が幾重にも巻かれており、彼はそれを解いているのだった。
地面に折り重ねられていく長い布。命子は怪訝な面持ちでそれを見守る。
…彼は怪我などしていただろうか?そんな素振りはなかったが。
解き終えた開人は左の脇腹にそっと手の平を当てたのち、解いた場所を清め始めた。
命子の見つめた先。左の脇腹。そこにあったのは、深く抉れた傷痕だった。鋭い刃で一突きにされたような、身動ぎするのにも痛みを伴いそうな、決して浅くない傷。
さらに言えば、古傷ではない。つい最近のものだろう。これほど共に行動していて全く気付かせないなんて、彼の忍耐に驚嘆すると同時に、その余所余所しさに少しだけつむじを曲げる。
どうして言わないのだろう。いつから。
…いつから?
命子は眉根を寄せた。
自分と彼が出会ってから、敵と刃を交えたのは最初の一度だけだ。あの時彼は敵を斬ったものの、掠り傷一つ負わなかったはず。ならば、いつ?
何かを忘れているような気がして、胸騒ぎがした。入り混じる記憶の中…ふいに何かが一致して、命子は目を開いた。
―――そうだ。…あれは、あの傷は
「……命子?」
低く、戸惑いがちに。
かけられた声に命子ははっと我に帰った。
きまりの悪そうな表情の開人と目が合う。覗き見ていたことを咎めているのだと思った命子は、ばっと起き上がり身を引いて、たちまち顔を真っ赤に染めた。
「―――っあ、あっ」
「…」
「あっ、ちが、ちがうの、そんなんじゃ」
「いや、俺も」
「違うの、ごめんなさい、い、意趣返しなんかじゃ」
「……え?」
慌てて言い募る命子に、開人がきょとんと目を丸くする。…意趣返し?
「ただ、その、たまたまなの、身体を見たのは…本当よ、ごめんなさい…っ」
身体を見た、という言葉で、開人も彼女の言い分を理解して思わず息を詰まらせた。
…あぁ、この間の、川での。あの時の仕返しなんかではないと彼女は言いたいのか。
そんなこと、こっちは微塵も思わなかったというのに。敢えて言われると少しはその気もあったのかと疑ってしまうではないか。
その墓穴の掘り方があまりに可愛らしくて、こみあげる笑いを隠そうと開人は口に手を当て俯いた。しかし震える肩は隠せない。命子はますます身を縮こませ、口唇を噛んだ。
「………………わ、笑わなくても」
「…すまない、いや、こちらも配慮が足らなかった。許してくれ」
彼女の声が拗ねているようだったので、なんとか顔を取り繕って開人は顔を上げた。
ちら、とこちらを窺い見る表情が、まだ恥じ入っている。開人は出来得る限りの穏やかな笑みで、自分の隣の地面を叩いた。
「嫌でなければ」
「…何か着ないの?」
「直垂は水に晒してしまった。上掛けは君の下にある」
見下ろした先に見慣れた紫の衣を見つけて、命子は驚いた。
立ち上がり、それをはたいて土埃を落とし、おずおずと開人の傍まで来て、差し出す。
「…ありがとう」
「もう一度敷いて、座ってくれ」
「でも」
「それを着る前にこれを巻かねばならないから」
示された長い包帯を見ると、命子は何も言えず、言われた通りに従った。
「……ごめんなさい」
「……何故」
「その傷は、…私が貴方に付けたもの」
うなだれる彼女の懺悔の声に、開人はわずかに困ったような笑みを浮かべた。
気付かれてしまったか、という悔やみと、ほんの少しの安堵。
出会ったあの日。捕えた瞬間に、腹に突き立てられた刃。もう遥か昔のことのようだ。
「…完治に向かっている。大したものではない。死にかけたわけでもない。」
「…ごめんなさい」
「気にしないでいい、…と言っても、するだろうが」
だからこそおくびにも出さなかった。知れば彼女はこんな風に自分への悔恨の念で満たされてしまうとわかっていたから。そして、それを心の何処かで望んでいた自分がいる。
「…私は今の今までこのことを忘れて、考えもしなかったの。…それが何よりも酷いわ。ごめんなさい」
「ならば、俺の演技は上出来だったというわけだ」
あくまで陽気に笑う開人に、命子は居たたまれずさらに気を落とす。
「……貴方は、私の傷をこんなにも丁寧に看てくれたというのに」
命子は自らの左手をそっと撫でる。包帯の巻かれたその下には、未だ甲の表面を抉るような傷痕がある。
痺毒が仕込まれた刃。出会ったあの日、開人が彼女を捕えたはじまりの傷。
開人は彼女の手の甲に痕が残ることを厭い、毎日薬を変え布を取り換えては、懸命に処置を施した。それこそ、腹に刺さったわけでもない。腱が切れるほどの深手でもない。それでも開人は、やむをえなかったとはいえ自分が彼女の身体に傷を付けたことを、嫌悪する勢いで悔んでいた。
手当てすることに感謝などされる謂れはない。せねば気が済まないだけ。
そして今、腹に深手を負っている自分よりも、よほど傷付いている彼女に胸が痛んだ。
「……命子。そんな顔をしないでくれ。俺は」
開人が彼女に向かって指を伸ばした。その矢先。
振り返った命子の手の平がそっと自分の胸元に触れ、開人は滑稽なほど身を強張らせた。
命子はそのまま彼の素肌を辿り、脇腹の傷痕をそっと撫でた。その白い指先が、開人の目には妙に艶めかしく映る。
しかしひどく悲しげに伏せられた彼女の目は、自身への罪悪に囚われたままだ。
開人はその手を跳ね退けることなどできず、されるがままに硬直した。
「…痛かったでしょう」
その呟きは開人への労わりなのか、心の内の独り言なのか。
痛かった。それは偽り得ない。彼女の刺し込んだ刃は鋭く、薄い帷子を身に付けてはいたものの、的確に彼の肉を抉った。痛みなど感じないふりをして過ごすのも、存外に困難だった。
しかし、そうと悟られてしまった今。
彼女にこれほどつらい思いをさせることの方が、開人には余程、余程痛みを伴った。
ふいに命子が屈みこむ。
なにを、と問う間もなく、その赤い口唇が、開人の傷痕にひたりと当てられた。
【カイメイ】 この鈴音、摘まれて開く命なら 【中篇】
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仕事してP様の『大輪の花』http://www.nicovideo.jp/watch/sm15901451を元にしたカイメイ妄想話です。本家様にはカイメイどころか青い人の影すらありませんこと、どうぞご留意下さいませ
http://piapro.jp/t/vBYpの続きです。非常に長くなってしまうので、3分割になりました。後編はそのうち出来上がる所存です
注意事項:流血してます
命子さんが女神すぎて困る。
大輪の花に私に黄金週間を下さいって言いたい。
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