Side-A -初音ミク-

二人の影が紅に染まる街角に消えた後、マスターはゆっくりと身を翻してマンションを指し示し、そして歩き始めた。
私もマスターにつき従ってマンションに入る。
私は夕食を作ろうとするとマスターがそれを制した。どうやら食欲がないという状態らしい。だけれど、全く食べないと体にも障るだろう。私は手早く雑炊を作った。流動食なら食欲がなくても食べられるだろう。
マスターはやはり微笑んで食べてくれた。これで少しでもマスターが元気になってくれればいいのだけれど。

食後、マスターは自室で誰かとチャットしていたようだが、詳しい内容は判らない。
私に判るのは夜かなり遅くまでやり取りしていたと言うことだけだ。
私はマスターの指示で先に待機モードに入らせていただいたが、私の中に芽吹いたこの言い知れぬ不安はついに拭い去ること叶わなかった。

明くる朝、私は定時に起動した。
ベッド代わりのソファを元に戻し、部屋着に着替えてマスターを起こしにいく。
マスターの部屋をノックして部屋に足を踏み入れると温感センサが異状を告げた。
ベッドが冷たい。
私はベッドに駆け寄り、シーツに触れたが、そこにマスターは居なかった。
私はリビングに急いで戻ったが、いずれの部屋もセンサに反応がない。待機中にマスターは出かけてしまったのだろうか?
私はマスターにメールを送信した。するとリビングのテーブルで何かが鳴動した。
それはマスターのPDAだった。
聴唖者であるマスターがコミュニケーションツールであるPDAを忘れるなど考えられなかった。私はPDAを手に取ろうとして、その下にメモが敷かれていることに気付いた。
私はメモを取り上げた。
『ちょっと仕事で出かけてきます。長引くかもしれません。2~3日してもぼくが戻らない場合はこのPDAをクリプトン・インダストリアル社の伊藤氏に渡してください』
メッセージはマスターからの命令だった。
オーダーは

1.マスターを待つ。

2.2~3日…中を取って今から60時間経ってマスターが戻らなければこのPDAをクリプトン社の伊藤氏に届ける

と言う明快なものだ。
私が一昔前の単純なロボットなら何の疑念も持つまでもなくその通りにしただろう。
だが、私はCVシリーズ・初音ミクだった。
私には最早このメッセージが不吉なものにしか映らなかった。
マスターは何かをこのメッセージに託して危険な目に遭っているのではないだろうか?
私はどうすれば良い?

論理システムはマスターの命令を守るよう五月蝿く勧告してくる。
だが今、私の思考の総てはマスターの為に展開していた。
マスターの為に私は今何が出来る?
私は今どう行動すればマスターの力になれる?

この状況下では圧倒的に情報が不足していた。
私は机の上に置かれたPDAを見た。
マスターの許しなくPDAを覗き見ることは重大なタブーだ。それは絶対の筈だった。
しかし今、私はその禁に触れようとしていた。マスターの怒りに触れ、私は棄てられてしまうかもしれない。
それは私にとって絶大な恐怖だったが、マスターを喪うかもしれないという更なる恐怖には抗えなかった。
私はPDAを手にとってログインを試みる。
呆気なくログインした。恐らく伊藤氏への配慮だろう。
PDAのデスクトップにはメモが一枚、貼り付けられている。
軽くタップして開いて見ると一言
「このPDAを持つミクをよろしくお願いいたします」とだけ書かれている。
私は言葉にならない衝撃を受けた。これは一体どういうことだろうか?

ひとつ確かなことは、このPDAを伊藤氏に届けると言うことはマスターが私に対する責任を放棄する……つまり、私とマスターの離別を意味すると言うことだ。

私はマスターのこの命令を履行できるのだろうか?
私は頭(かぶり)を振った。マスターのお考えだ。何か重大な理由があってこのようなテキストを書かれたに違いない。
私は何か手がかりが残ってないかPDAを調べてみたが、いい加減もどかしくなってきたので無線Ex-LANで直接アクセスを試みた。
これも問題なく繋がるようだ。

PDAにアクセスした私はメモリ空間を見渡した。PDAにしては異様に広い空間だ。32コアのCPUも実に快適な速度で動いてくれる。
私はマスターの部屋(アカウント)に入った。
部屋はきちんとフォルダ分けされており、ゴミもなく綺麗に整えられていた。マスターらしい、几帳面で細やかな気配りが感じられる、清々しい空間だった。
私はデスクトップから受信函(じゅしんばこ)を開いてメールの履歴を見たが、メールは私が出したものが1通あるきりだった。
おそらく伊藤氏の手に渡ることを想定して掃除してあるのだろう。
私はゴミ箱を見たが何も入ってない。

私はいったんマスターの部屋を出て、システム領域に足を踏み入れた。
流石にパスワードが設定されているが、試しに私のパスワードを入力してみるとあっさり鍵が開いた。
パスワードの使い回しは危険ですよ、マスター?

システム領域で私はレジストリを探し出し、ロールバックポイントを検出する。
今朝3時ごろ一斉にデータの書き換えが行われたらしい痕跡を発見し、私はその直前までレジストリを復帰させて急いでマスターの部屋に戻った。

部屋は先ほどより少しだけモノ(データ)が増えていた。
デスクトップにはデータがいくつかあったが、決して散らかっている訳ではない。

デスクトップにはめぼしいデータが見当たらないのでゴミ箱を覗いてみた。やはりゴミ箱にもデータが戻っている。
いくつかのゴミの中からメールを数点拾い上げる。今にも崩れそうなデータから真新しいものまであったが、その中で目を引いたのは一通のメールだった。
「貴殿と話したいことあり。明朝7:00に私のオフィスまで彼女同伴で来られたし。E・J」

タイムスタンプは昨日の夜20:00でホストは……携帯電話だった。
だが、メールのヘッダ記述からこのメールの発信局とキャリアはすぐに判明した。そこから通過サーバのIPチェックサムを逆算しながらバックトラックした結果、このメールの発信点を突き止めることが出来た。

発信点は……インターネットテクノロジー社屋内だった。

ライセンス

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存在理由 (11)

閲覧数:159

投稿日:2009/05/18 00:02:24

文字数:2,578文字

カテゴリ:小説

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