第二章 ルーシア遠征 パート10
その後、ルーシア王国竜騎士団による夜襲は止むことがなく、それに対してミルドガルド帝国軍はただ防戦一方に回るという状況が長く続いた。しかし、そのような状況の中でもカイト皇帝の進軍意欲が失われることはなかった。まるで他に変えがたい執念に取り付かれたかのようにカイト皇帝はひたすらな進軍を兵士たちに求めたのである。だが、カイト皇帝のような強靭な神経を全ての兵士が持ち合わせていたはずがない。故郷を遥か離れた遠方で、終わりの見えない行軍に兵士たちは物質的意味ではなく、精神的な意味において、近オリエントの無限にも思える大陸に文字通り飲み込まれた。表面的には倦怠感から始まったその感情はいつの間にか兵士たちの心に暗雲を呼び起こし、そしてその感情は気付けば戦意の喪失へと結びついていった。その結果は明白であった。これまでのミルドガルド帝国軍には到底考えられぬ事態が発生していたのである。即ち、軍務の放棄・・兵の逃亡である。当初千名程度であった逃亡者は日を追うごとに増加し、記録に残されている軍事目録を参考にすれば、その数は七月五日の段階で一万名前後にまで増加していたのである。特に逃亡者が多かった軍団はホルス大将率いる第六軍であった。最も多く竜騎士団の襲撃を受け、しかも荒野の大地を切り開くという使命を持った第六軍は二万名の兵士の内、五千名程度が逃亡するという異常事態となっていたのである。
しかしながら、その七月五日、ミルドガルド帝国軍は念願とも言うべき目的地点であったネール河へととうとう到達した。目的である王都ルーシアまでの距離は十キロ程度が残されているばかりである。まさしく王都ルーシアの最終防衛ラインとも言うべきそのネール河はしかし、これまで奇襲作戦に徹していたルーシア王国であっても見逃すことの出来ぬ地点であった。ネール河を挟んで対岸には、ルーシア王国竜騎士団三万が帝国軍を迎え撃つべく、既に布陣を終えていたのである。
「敵軍の数は三万か。案外、少なかったな。」
軍の配置を終え、渡河作戦を開始する前に開催した軍議で、カイトは不敵という様子で笑みをこぼしながら、そう告げた。兵士の逃亡により軍容が欠損しているとはいえ、こちらはまだ九万の兵を有している。対して、対岸に布陣する三万がルーシア王国におけるほぼ全部隊だろう。事実、昨晩から竜騎士団による夜襲がぴたりと止んでしまった。王都防衛の為、夜襲に参加していた部隊も全て戦線に加わっていると推測して間違いが無いだろう。この三万さえ打ち破れば、王都ルーシアへの道が開ける。カイト皇帝はそう考えたのである。
「敵はネール河を挟んでの布陣となっております。」
作戦本部に指定された宿舎の中、布の切れ目から差し込む日の光を頼りにしながら、オズインがそう言った。オズインが指差しているものは机上に置かれた王都ルーシア周辺図である。既に敵軍の位置がその地図には示されている。将棋の駒のような形をした石造りの小片で敵の位置を表しているのだ。その駒には敵軍の大よその兵数も記載してある。いずれにせよ、王都へと到達するにはどうしてもこのネール河を突破しなければならない。だが当然、敵軍の猛烈な抵抗が予想されていた。
「随分と蛇行が激しい河だな。」
その地図を俯瞰したカイト皇帝は、オズインの発言に答えるようにそう言った。ネール河は南北流れる大河である。ルーシア王国内に多数存在している別の河川と同様に、南から北へと水が流れ、その水はやがて北海へと流れつく。その中でもネール河は王都ルーシア付近、現在帝国軍が布陣している地帯で三度、M字型に大きく蛇行している。そのうち中央は帝国軍に迫るような形で西側へと蛇行しており、左右は帝国軍から離れるように東側へと蛇行している。つまり、M字型に流れる河の上部にルーシア王国軍が布陣しており、逆にM字の下部に帝国軍が布陣しているという状況である。そこまで地図を読み込んだカイトは、セオリー通りに攻めるなら中央突破だな、と考えた。支援火力が集中させやすくするために、渡河作戦では味方に向かって屈折している地点から攻め入ることが戦の定石であった。
「火砲隊を前線に集めろ。中央から突破をかける。」
カイトのその言葉に、第六軍大将ファーレンが冷静に頷く。今回の戦いでは全ての火砲対を中軍であるファーレン将軍に預けていたためである。続けて、カイト皇帝はオズインとホルスに向かってこう言った。
「火砲隊の支援を受けながら、第六軍が侵攻、橋頭堡を作れ。それが完成次第、青騎士団が突撃をかけ対岸を制圧。俺も青騎士団に続けて攻める。」
そこでカイト皇帝は諸侯の理解を促すように作戦本部を見渡した。それぞれが生気に満ちた瞳でカイト皇帝に応える。ようやく本格的な戦闘を行うことができる。これまで一方的に攻撃を受けていた雪辱をやっと晴らすことが出来る。全員がそう考えていたのである。否が応でも士気が漲るというものであった。その熱気はカイト皇帝であっても同じく有するものであった。オズインら配下将校の熱意を感じ取り、カイト皇帝もまた満足げに頷くと、その場にいた全員に向かって叫んだ。獅子の咆哮のごとく。
「作戦開始は明朝五時。これまでの屈辱を晴らす時が来た。ミルドガルド帝国軍の名を世界に知らしめるのだ!」
この戦いで、ルーシア遠征も終結を迎える。
軍議が散会となり、暫くの自由な時間を手に入れたアクは、そう考えると本陣の中を何処ともなしに歩き始めた。久しぶりに手に入れた、夕暮れまでの僅かな自由時間を少し楽しもうと考えたのである。王都ルーシア近辺は、ミルドガルド帝都に比べて更に北部に位置しているせいか真夏にも関わらず気温は落ち着いており、戦闘行為には適した気候とも言えた。少なくとも、以前訪れた旧緑の国に位置するパール湖の湿ったような暑さに比べれば随分と過ごし易い。アクは不意にそのように考え、そしてある人物のことを思い出した。
ガクポである。カルロビッツの戦いでカイトの目前にまで迫ったガクポの前に立ちはだかって以来、ガクポとはまともに会話した記憶がない。今はどこで何をしているのか、時折ガクポの姿を目撃したという噂話は耳に入っても、それ以上の情報をアクは手にすることが出来なかったのである。
そう言えばあの時、とアクは唐突に思い起こすように記憶をめぐらせた。続けて、私はガクポにカイトの秘密を伝えた、とアクは考えながら少し呆けたような表情で、相変わらず雲ひとつない天空を仰ぎ見た。
カイトが自身の父親を暗殺したこと。それも、私の手によって。
ふと、アクは何かを不安がるように自身の両手を軽く持ち上げると、掌の何かを確かめるように交互に見つめた。あの時は、どうしてカイトがそのようなことを命令したのか、まるで疑問に感じなかった。でも今は。どうして、カイトが実の父親を暗殺しなければならなかったのか、不思議に感じる。急がなくともカイトは青の国の王座を手に入れていたはずだった。ミルドガルド統一戦争はその後でも構わなかったはず。では、なぜカイトは王位にあれほどにこだわったのか。
いずれ、その理由を訊ねなければならないかも知れない。アクはそのようなことを考えながらも、嫌がるように、小さな溜息をついた。このまま、何も知らずに過ごしたところで、悪いことなど起こりうるはずがはない。とにかく今は最早目前に迫った王都ルーシアを早急に占領し、そしてルーシア王国をミルドガルド帝国に編入する。そうすればカイトも暫くは帝都に戻ろうと考えるだろう。王都に戻ったらこれまでのように、平和で静かな生活を続けるのだ。アクはそう考えながら、裸眼でも確認できる程度の距離に布陣しているルーシア王国軍の様子を眺めた。敵の兵装は予想通り全軍が騎兵。竜騎士団であった。マスケット銃を標準装備し、かつミルドガルド産駒よりも何倍も上質な騎馬を用いる、おそらくこの世界で最強の騎兵部隊。その部隊を相手に、三倍の兵力を用いたとして、予定通りに軽々と打ち破ることができるのだろうか。いや、そうではない。圧倒的な戦力差を見せ付けて勝たなければならない。何しろ、このルーシア王国は今後ミルドガルド帝国の属国になるのだから。少なくとも、今現在のカイトの予定では。
楽な戦いなど、存在しない。そもそも、そのような簡単な戦いしか起こりえないのならば、私はこの場には必要ない。明日は、セキトと共に戦場を駆ける。
新たな決意を確かめるように、アクは小さく、そう呟いた。一陣の風が、アクの身体を鋭く包み込んだ。
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