いよいよ水不足が深刻な状況となってきたため、城内でも水量制限がかかり始めた。女王の周辺ではあまり変わりはなかったが、それ以外の部分で制限を設けられた。リンは相変わらず暢気に過ごしていた。そんな時、不穏な噂を耳にした。パルド川の上流に位置する隣国ヴェルデッツァが水を余分に確保していると。そのため、クローチェオの水が足りないのではないか、というものだった。
そんなことはない、と思えた。ミクの住む国がそんなことをしていると思いたくなかった。僕は胸騒ぎを抑えられなかった。なにか大きなうねりの縁に立っているみたいだった。
ミクに手紙を書いた。やりとりをする時間が惜しかったので時間と場所を勝手に指定して出しておいた。リンのドレスの件でヴェルデッツァに行かなければならないと用件を作り、リンの不思議そうな顔を笑顔でかわして国を出た。市街は明らかに活気を失い、人の心も乾燥しているかのようだった。ヴェルデッツァに着いてからはクローチェオの人よりも余裕があった。例年よりも水は足りないけれど、生活はなんとかなる、という感じだった。本当に、ヴェルデッツァの方が水が足りているならば、その理由は…?ヴェルデッツァの人間が下流のことを考えずに水を使っている、とクローチェオの人が疑うのもわかる気がした。
待ち合わせの場所にミクは30分遅れて来てくれた。
「レン君!ごめんなさい。遅くなって。」
「突然お呼び立てして申し訳ありません。こちらが勝手に時間と場所を指定したのだから、来てくれただけでありがたいです。」
「ううん。いいよ。どうしたの?」
「水不足の件で、良くない噂を聞きました。よくわからないけれど、胸騒ぎがするんです。だから真偽を確かめたくて。」
「クローチェオは大変みたいね。噂って?」
「失礼になるかもしれません。ヴェルデッツァがパルド川上流にあたるので、下流のクローチェオの分まで水を使っている、と。」
「そう。位置としてはあり得る話ね。でも多分それはないわ。クローチェオのために水量を考えて使うようにもともと法があったはずだもの。」
「良かった。ミクさんの国がそんなことをするはずがない、と思いたかったんです。」
「それでもクローチェオは水が足りないのね。こちらも噂で申し訳ないけれど…クローチェオはもっと早い段階での水量制限をしていなかった、と聞いたわ。」
「多分、今の状態はその影響なんでしょうね。」
政治を担う王室の判断が甘かったのだ。もっと深刻な事態を予想していたから、ヴェルデッツァはなんとか繋いでいる。クローチェオでは上流階級への通達が出たのはつい最近のことだ。自分たちの失敗なのに、それを他国のせいだと思っている。
「どうしたら良いでしょう…?ヴェルデッツァもギリギリなはずです。協力は難しいですよね?」
「そうね。神様なんて信じてないけど、今は天に祈るしか…でも、このままでは諍いが起こるかもしれない。」
僕は背筋が凍る思いをした。水を求めて、国が争う…?そこまで考えていなかった。
「まさか、そんなことに…」
「クローチェオの人が、本当にヴェルデッツァのせいだと思っているなら、あり得る話だわ。」
「ミクさん、ありがとうございます。諍いが起きないように、なんとかしたいと思います。」
リンに、言わなければ。リンが、国民に伝えなければ。自分たちのせいだと。隣国は関係ないと。そして、危機的状況を乗り切るための策をみんなで探すのだ。それを先導するための女王のはずだ。
「チェレステには頼れないかしら?海を越えて水を運ぶなんて大変な話だけれど。」
「そうですね。できるかどうかわかりませんが、それも一つ考えてみます。」
「そうね。それにしても、レン君はとても国のことを考えているのね。」
ぎくりとする。僕はただの召し使いだ。そこまで入れ込むのは確かに不思議な話だったかもしれない。なにも思いつかなくて曖昧に応える。
「え…?そうでしょうか?」
「ええ。それともリンちゃんのことを、かしら?」
ああ、それならば。
「女王には小さな頃からお世話になってきました。先代にも。だから、彼女たちに笑っていて欲しいんです。」
ミクはそう言った僕の瞳をまっすぐ見ていた。少し、揺らいだ気がした。
「ミクさん。僕は無知で、そして子どもです。貴女に会ってから、何度となくそれに気づかされた。」
「私は何もしてないよ。」
「いいえ。貴女が思っている以上に、僕は貴女に導いてもらっています。ありがとうございます。」
僕が笑ったら、ミクも笑ってくれた。でも、やっぱりどこかいつもの突き抜けた明るさではなくて、その寂しげな笑顔に触れたくなった。
「…レン君?」
言われて初めて自分がしていることに気がつく。僕はミクの頬を包むように手を伸ばしていた。
「…あ、す、すみません!」
顔が真っ赤になっているのが自分でもわかる。僕は一体なにをしていたのか。
「あの、その、前に会った時より元気がないなと思って、その…」
僕が必死に理由を考えていたら、ミクが軽く笑った。やっぱり、ちょっと切ない顔で。
「レン君には気づかれちゃうのか。」
「え…?…あの、なにかあったんですか?」
「ううん。まだなにもないよ。」
「まだって…?」
「これから、そうなるかもしれないことが、私には受け入れ難いことで、でもまだ予想というか、予感でしかないから。」
「そんな…それはあらかじめ回避できないんですか?」
「そうね…多分無理…かな。」
ミクの笑顔が見たかった。そんな顔で微笑んでほしくなかった。諦めたような、そんな瞳は、ミクじゃない。なのに、それがとても綺麗で、僕は苦しくなった。
「ミクさん、まだお時間大丈夫ですか?」
「え…うん。」
「僕にヴェルデッツァの市場を案内してください。実は行ってみたかったんですが、機会がなくて。」
「いいけど…王室が使うようなものは、売ってないわよ?」
「ああ、特に欲しいものはないんです。それに僕はただのご用聞きですよ。」
それから僕らは市場を一巡りした。布もたくさんやりとりされていたが、装飾品や工芸品が多く並んでいた。ヴェルデッツァの人はものづくりが秀逸だった。どれも工夫が凝らされた、美しい一品だった。王室が注文するような上質さはないかもしれないけれど、その技術はきちんと洗練されたものだった。
「この布はとても風合いが良いですね。それに、手に馴染む。」
王室の使う布など、高いくせに洗濯は大変で、耐久性もない。きらびやかな城内では映えても、一旦市街に出たら浮く色ばかり。本当に生活に即した、美しいものはこんな風にちゃんとあるのに。
「レン君はなにか疑問を抱えているみたい。」
どうしてこの人はいつも、こんなに僕を見透かしているんだろうか。
「そうですね。城付きとして働いてきて、王室の人間の求める上質とはなんなのかを考えます。」
「無駄遣いってこと?」
「まぁ、有り体に言ってしまえばそうです。着ているもの、持っているもの、それらのランクで人の価値を測るような世界に疑問があります。」
本当に上質な人間というのはなにを持っているかではない。なにを考えているかだと思う。または心だ。僕の同僚たちは皆優しかった。その上に立つ人間の中には、上質な物で揃えても、心の伴わない者が多かった。
この市場に並ぶものにはその心が感じられる気がした。暖かさのようなもの。
「そうね。私も、物ばかりに囲まれて生きるのが、窮屈な気がする。こんなもの捨ててしまえたらいいのに。」
ミクは長いスカートの裾を軽く握ってそう言った。僕はこの時、ミクの言った「捨ててしまいたいもの」を勘違いしていた。ただ、僕の考えに同調してくれただけではなかったのだ。本当の意味に気づくのはもう少し、後になる。
この時の僕はただミクに笑って欲しくて、少しでもその気持ちを明るくしたくて、なにかできないか考えていた。
「ミクさん、僕になにかプレゼントさせてもらえませんか?本当の意味で、上質なものを、この中から探します。」
「それは面白そうね!じゃあ交換よ。私にも貴方にプレゼントさせて。」
それから、お互いのプレゼント探しになった。その時間は夢のように楽しくて、国のことやリンのこと、水不足の問題を束の間追い遣ることができた。ミクもだんだんプレゼント探しに夢中になって、変な顔の置物を見て笑っていた。
誰かとこうして笑い合えること。なんて平和で、なんて幸せなことだろう。その穏やかな時間が二度とやって来ないことをこの時の僕はまだ知らない。
国に戻ったのは深夜近かった。僕の心の中には様々な想いが渦巻いていた。心配なことがたくさんあったはずなのに、ミクの存在が僕を支えるようにして変に落ち着いていた。
自分の部屋の前に小さくうずくまる人影が見えた。リンだ。
膝を抱えて、うとうとしている。
「リン。待ってたの?そんなとこで寝たら風邪引くよ。」
はっと目を開けてリンが振り向く。
「あ、レン!おかえりなさい!遅かったね…?」
「ごめん。心配した?」
「したよ!こんなに遅くなるなんて。」
「うん。ごめん。…どうかした?」
「え?…なんにもないよ?」
嘘だった。どんなに繕ったって僕にはわかるのだ。今日、きっとリンにはつらいことがあった。
「話したくないの?」
「…いっぱいあったから、まだ。」
「わかった。じゃあリンが眠れるまで手を握っててあげる。リンの部屋に行こう。」
そう言って僕はリンの手を取った。リンはぎゅっと握り返して、うつむいたまま返事をした。
「…うん。」
今日はきっと話すタイミングじゃない。明日、なにがあったのか訊こう。そして、僕の話も聞いてもらいたい。水不足の問題は王室で話されていないわけがない。リンが先陣を切ってこの壁を乗り越えなければ。僕がそれを後押しするのだ。
リンをベッドに寝かせてその手を握る。僕らは少しずつその形を変えていた。どんなに似ていても僕らは違う生き物なのだ。僕の手は少しだけかっちりと、リンの手は柔らかく細かった。
しばらくの沈黙の後、リンが僕を呼んだ。
「レン。」
「なに?」
「…あたし、悪い子かなぁ…?」リンは静かに泣いていた。瞑られた目から次々と涙が溢れてくる。「…どうして?」
「…気づかなかったの。みんながこんなに大変だって。」
きっと水不足の問題について知ったのだ。国の問題を一番最後に知らされる女王。それがこの国の現状なのだ。13歳の僕らに何ができるわけでもないのかもしれない。けれど、知らずにいていいわけではない。
気づかないことが罪だとしたら、僕らはどうやってそれを回避したらいいのだ。教えてくれない大人たちに囲まれて、鈍感になっていくばかりの自分に僕はもどかしさを感じていた。
「…リンはどうしたい?」
「…わかんない。どうすればいいの?」
「そうだね。まずは僕たちが気をつけて使おう。それから、チェレステに水の補給をお願いしよう。リンの好きなカイト王子にお願いするんだ。そしたら、また会えるかもしれないし。」
「レン…なんで、水が足りないって知ってるの?やっぱりあたしだけ知らなかったの?」
リンは目を見開いて僕を見ていた。月明かりがその瞳におぼろげな光を与えていた。トップに立っているはずの自分が国の苦境を知らなかったこと。僕が同じ立場だったら、悔しいと思う。
「僕も最近知ったんだ。リン、しっかりして。これから考えなくちゃいけないことがたくさんある。」
「…あたしにできるの?まだ子どもなのに。」
「確かに僕らは子どもだ。でもリンは女王なんだから、周りの力を借りながらでも良い国にしなければいけない。父さんと母さんが僕らに残した国をめちゃくちゃにしたくないだろ?」
リンはそこでうつむいてしまった。
「でも、リンは「悪い女王」だって…。水が足りないのにどんどん使って、お金もどんどん使うって。」
「誰が言ったの?」
「廊下で話してるの、聞こえた。」
水が足りないことも使える資金に際限があることも、リンにはちゃんと教えられていないのだろう。すべては無知から始まったことなのに、リンへのバッシングになっている。
「誰かがちゃんとリンに教えてくれたら良かったんだ。誰もリンに知らせなかったんだから、リンは悪い子じゃないよ。これからどうするか考えよう。」
リンは静かに頷いて、しばらく泣いていた。自分の評価を知ったのだ。同時に自分の無知も。一緒に考えなくては。リンを支えなければ。
その隅で僕は無知という罪について考えていた。
月には雲が薄くかぶり、ぼんやりとその光を湛えていた。
ひんやりと冷たい空気に、僕は目を覚ました。なるべくリンの側にいたかったけれど、同じ部屋で眠ることはできなかった。朝、誰かに咎められても困る。リンが深い眠りについてから自分の部屋に戻った。これからのことを考えていたはずなのに、いつの間にか眠っていたようだった。
支度をしなければ。今日のリンの予定はなんだったか。そのスケジュールを見て僕の1日は始まる。いつもの庭への散歩はやめにして、ゆっくりと朝を過ごした。こんな気分に似合うのは淡いブルーのドレスかな、と考えて打ち消した。気持ちを浮上させるには暖色系だ。オレンジがいいかもしれない。そんな風にリンのドレスを選ぶのが朝の仕事。暢気な仕事だと自分でも思うけれど、13歳の僕に任せてもらえる仕事なんてこの程度なのだ。重要でもなんでもない、仕事。
僕は早く大人になりたかった。
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