鐘よ、どうか鳴らないで。
時よ、どうか止まって。
刻限が告げられるのは、未だ先のこと―。
せめてその時までは、夢を見させて。永遠に続く夢を、どうか、―。
握った短刀の柄に汗が滑る。初めて見る華やかな舞踏会に、そしてマザーから授かった使命を思って、心臓が大きく波打つのが分かりそれで漸く自分が緊張しているのだということに思い当たる。
それほどこの華やかで美しい社会とは程遠い場所に自分は居たのだ。日々生きることに必死で、そんな華やかな世界を思うことも無かった。
そんな自分が今此処に居るのは全て拾ってくれたマザーのおかげだ。彼女が自分を貧しい生活から救い出して、本当の娘のように優しく接してくれた。
マザーには人として生かしてくれた恩が在る。だから、その恩返しとしてマザーから授かった使命を果たすだけだ。
探すのはこの舞踏会の主役である―王子。大丈夫、マザーが彼の元へ導いてくれる。何も心配することはない。
緑の髪の娘は、懐に忍ばせた短刀の柄をきつく握り締めた。
型通りの退屈な挨拶を聞くのにも飽き、ふと視線をずらすとステンドグラス越しの月光に照らされた緑の髪の娘が目に入る。
緊張したような真摯な面持ちで、そのひたむきな真剣さに何故か哀しみが見え隠れた気がした。
今夜の舞踏の相手はまだ決めていない。一目で彼女の纏う雰囲気に囚われてしまった。
楽しげにさざめく声が聞こえる中で、独り哀しみを抱いた彼女に惹かれる。彼女も同じ孤独なのだと、そう理解った気がした。
彼女とこの夜を過ごそう。独りの彼女なら、この孤独な魂の痛みを理解ってくれる。
媚びる様に近付いてくる女性たちを仮面の笑みでやんわりと断りながら青の王子は舞踏の相手に誘おうと、緑の髪の娘へと足を踏み出した。
***
マザーが囁く声が聞こえる。あの青い髪の男が王子だ、と。あの男に刃を突き立てて全てを奪え、と。
近付いてくる彼の青い瞳はマザーに拾われる前の自分と同じ孤独の色を湛えていて、彼も孤独な魂の持ち主なのだと、仲間なのだと理解った。
それでも、マザーの云う事に従わねばならない。彼女に生かされた恩が在るのだから、彼がわたしを理解ってくれる存在でも。
偽りの微笑を浮かべて緑の娘は微笑んだ。それでも、その緑の瞳が孤独だということを訴えていた。
瞳と瞳が合い、見惚れるほど美しい微笑で緑の髪の娘は微笑んだ。それでも、彼女の孤独は、哀しみは覆い隠せていない。
青の王子もまた、作られた仮面の笑顔をもどかしく思いながらもその微笑を浮かべて彼女を誘うしかなかった。
そうする以外の微笑む術を彼は知らない。瞳が微笑みながらも哀しげに細められた。
偽りしか、仮面の笑顔をしか学べなかった虚しさを思って。
***
足音が大広間に響いては消えてゆく。ワルツの三拍子に合わせて踏むステップが、また一歩、と言う風に彼への想いを深めてしまう。
終わりの分かっている幸せほど切ないものは無い。彼に惹かれているのに、いつまでもこのときが続いたらと思うのに、―。
触れ合った手も、青い髪も自分と同じ孤独な青い瞳も、全てが愛おしく思える。
いつまでも彼とこうして手を取り合って踊っていたい、触れ合っていたい、傍に居たい。
そう想いが深まるたびに、心にマザーの言葉が重く圧し掛かる。その刃を彼に突き立てるのよ、時計の鐘が真夜中を告げる頃までに。
彼がふと時計を見やる。まだ、刻限ではない。まだ、時計の鐘は鳴っていない。まだ、この幸せは終わらない。
どうか、願わくは鐘が鳴りませんように。この一瞬が永遠に続かないのなら、一瞬でも多く、彼と過ごせるように―。
孤独な緑の髪の娘の心に、一筋の涙が伝った。それでも、頬は濡らさなかった。
彼に哀しみを悟られないように、微笑む。嘗て無いほど幸せそうで、それ以上に哀しい笑みだった。
この腕の中に居る彼女の緑の長い髪が肌に触れる。そのひどく柔らかで心地好い感触に現実のことだと思い知る。夢ではないのだ。
彼女への想いが次第に熱く、強く、高まっていく。抱きしめる力を強めて彼女が壊れないのか心配になった。ひどく脆くて儚くて、でも強いその愛おしい存在が。
初めて出逢った、同じ孤独の痛みを知る美しい彼女。
先ほど逢ったばかりでも、話さなくても、彼女にはこの想いが伝わっている。そう、彼女なら、―。
もう離れたくないと思った。彼女はこの魂の片割れだ。唯一、自分を完全に理解ってくれる存在。
彼女が望むのならば永遠に傍に居ようと思った。彼女の哀しげな笑みではなくて明るい笑顔が見たかった。
心の中で秘かに誓う。君を永遠に愛す、と。青の王子は心の底からの慈しむような穏やかな笑みを浮かべた。
***
柔らかな物腰の彼に誘われ、大広間から離れた一室で二人だけの心地好い静寂に浸る。そこに居るのは自分と彼だけ。二人だけの世界だ。
月光が明るい窓辺から外を眺めると、華やかな光と共に微かにだが大広間の喧騒が聞こえてきた。
差し伸べられた大きな手がそっと顔に触れる。自分のものとも違う骨張っていても逞しい手が。
振り返ると彼の青い瞳と視線が合う。力強い腕に引き寄せられ、抱き締められた。
それに答えるように自分の腕を彼の首に絡める。互いの鼓動が響いてくる。体温が上がっていくのが感じられる。
誰からともなく触れ合った唇を引き金に、二人は寝台へと倒れこんだ。
そして緑の髪の娘が小さく、大好き、と言うとそれに答えるように彼の唇が首筋に触れた。
***
彼がふと時計に目をやり、それに釣られて時計を見ると、針は真夜中前を指していた。心地好い疲労感と幸福感の中にその事実が冷たく鋭い刃のように突き刺さり、ひびを走らせる。
彼と二人きり、と言う幸せな世界の中忘れ去っていたマザーからの使命。その期限が迫ってきている。
脱ぎ捨てられたドレスの中を弄ると冷たく鋭い短刀の刃に触れた。
今はまだ、その刻限の時ではない。未だ、鐘は鳴っていない。そう自分を慰める。
せめてその刻限までの僅かな時間だけ、彼と過ごそうと緑の髪の娘は隣に居る彼に抱きついた。
大きな手が優しく髪を撫でる。胸に押し当てた耳に鼓動が波打つのが聞こえ、響いた。
このぬくもりを失いたくなかった。暖かな手も、青い瞳も。でも、マザーがそう言う。奪い去れ、と。
心が張り裂けそうに痛み、涙が一筋頬を伝うのが解った。彼が優しく微笑み、そっと拭ってくれたけれど、その彼の命を奪うことを思い、益々涙が流れる。
辛くて、辛くて、今日、此処へ来たことを後悔しそうだった。その痛みを打ち消したのは、ただ愛しい彼の存在だった。
***
遠くで鐘が鳴る音が聞こえた。最後に彼と踊ろうと、再び踊り始めた時だった。
せめて心に焼き付けておこうと、一心に彼を見つめる。青い瞳と視線が合い、穏やかに微笑みかけられる。
今しかない、今を逃したらもう、彼への想いに完全に囚われてしまう。
心の隅で自分が叫ぶのが聞こえる、駄目よ、刺してはいけない、と。
辛そうに顔を歪めて、迷いを振り切るように冷たい刃を彼へと突き出す。
彼の白い服に紅が広がるのが見えた。耐え切れずに短刀を握ったまま、駆け出す。
引き止めようとする手と声を振り切り、溢れ出した涙が頬を伝うことを感じながら、駆けた。
ごめんなさい。許して、なんて言えないけれど、思わないけれど、あなたにこんなことはしたくなかった。
もう、何もかもがどうでも良くなった。彼はわたしが殺した。マザーの命令で。身が張り裂けそうなほど辛い犠牲を強いて、マザーへ恩は返した。もう、わたしがやるべきことはない。存在価値は無くなった。マザーだって許してくれるだろう、既に指令は果たしたのだ。
紅に染まった刃を喉元目掛けて振り翳す。あの世でまたあなたに逢えるかな、罪に穢れたわたしでも。
再び頬を涙が伝っていく。わたしが死んでも哀しむ人は居ない。彼はもう逝ってしまった。そう信じたくは無かったけど、知っていた。マザーだって本当はわたしのことを好きなんかじゃない。ただ、従順な手駒として手元に置いていただけだ。
さようなら、マザー。昏い夜空に輝く月を見ながら思う。
あなたはわたしの母親だった。あなたが娘と思っていなくても、わたしにとっては、母親だった。
いま、あなたのところへ行くね。待ってて。心に刻まれた青い髪の彼に微笑みかける。
思い切り腕を振り下ろす。紅が漆黒の夜空に散った。
***
突然腕の中で踊っていた彼女が、思い詰めた顔つきで何かを突き刺してきた。
胸に鋭い痛みを感じると同時に彼女が腕の中からすり抜けていく。
待って、と縋る手も届かない。力強い心臓の鼓動が弱まり、紅の血が、生命の源が流れ出していくのを感じる。
頬に透明な雫が当たった。彼女は泣いているのだろうか。薄れていく意識の中、彼が思ったことだった。
『ごめんなさい。許して、なんて言えないけれど、思わないけれど、あなたにこんなことはしたくなかった。いま、あなたのところへ行くね。待ってて』
彼女の声が聞こえる。何故だろう、去ったはずなのに手を差し伸べて微笑みかける彼女の姿が霞んだ目で見える。
晴れ晴れとした爽やかな笑顔の彼女を見て、ふと悟る。もう、彼女もこの世の人ではない。自分もまた、あの世へ逝ったのだと。
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たっかんP
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