ホールはしいんと静まり返っていた。
私はマスターを見上げた。
マスターの瞳は小さな眼鏡の奥で二つの影を真っ直ぐに見据えていた。
「失礼、我々はこういう者です」
短躯の小男が内ポケットからチョコレート色の手帳を取り出し、開いて見せた。
中には小男の写真と「警部補 松本幸一」の文字、そしてその下には警視庁の徽章が金色に鈍く輝いていた。
2059年現在の手帳にはマイクロチップが埋め込まれており、コードを読み取ることで本物の警官かどうか確認することができる。
ためしにアクセスコードから情報を取得してみたところ、キーは有効……つまり本物の刑事と言うことだ。
マスターも胸ポケットからPDAを取り出した。
一瞬大男の瞳が剣呑な光を放ったが、PDAと知るやすぐに霧消した。
マスターはPDAをタップし二人に見せた。
『ぼくと彼女は喋る事が出来ません。声は聞こえますので普通に話していただいて結構ですが、返答はPDAで失礼します』
刑事二人はしばし顔を見合わせた。どうやら初耳らしい。
「あ、ああ。問題ありません。……ところでこの辺で煙草の吸える静かな所はありますかな?」
小男……松本刑事が訊いた。
マスターはPDAに入力して見せる。
『近くに公園があります。そこでしたら喫煙コーナーもありますし、今の時間なら人もいないでしょう』
「結構」
松本刑事の言葉に呼応してマスターは身を翻し、今入ってきたエントランスへと戻り始めた。
私と二人の刑事も後を追ってマンションの外に出た。
公園はマンションのすぐそばにあった。
平日の昼下がりならばヤングマダムたちの会議場となるであろう公園は、夕食前の忙しい時間とあって閑散としていた。
公園の一角に藤棚とベンチがあって、簡単な灰皿が据え置かれているのが見えた。
「早速ですまないが、一本いいかね?」
松本刑事がポケットから煙草の箱を取り出した。マスターは首肯する。
「最近はどこへ行っても禁煙でね」
苦笑を浮かべながら一本取り出し、大男にも勧めた。大男も喫煙者らしく、一本うやうやしく取り出した。昔はどこにでもあった紙巻煙草だが、保険料という名目でどんどん税金が上乗せされて、今やガソリンとは違う意味で超高級品だ。
燻し銀で出来たような古いガスライターで火を点け、ふうっと二人は思い思いに紫煙を吐いた。実に満足げに見えるが、私にはわざわざ害にしかならないものを摂取することは理解の及ばない行動だった。
「いやあ、こればっかりはやめられなくてねぇ。気分転換にはついね」
松本刑事はそう言って笑った。理解者が減りつつあることをどこか嘆いているような、少し寂しげに見える笑みだった。
私は二人の刑事の顔をはじめて見つめた。
小男は細い目をした男で、笑うと目が見えなくなりそうだった。人懐こい笑みだが、小さな瞳の奥に隠れた色が見えないのが不気味だ。
体型は少しばかり横に広いようだが、脂肪で弛んでいる訳ではなくがっしりした肉体を持っていることがわかる。
大男の方はぼさぼさの髪と無精髭がだらしなく見せているが、彫りの深い面立ちはどこか日本人離れしていてまるで外人俳優のようだ。長身ではあったがその身体は鋼線を縒(よ)りあわせた発条(ばね)のようなしなやかな筋肉で出来ていた。
「さて――」
ひとしきり一服を愉しんだ二人は灰皿に煙草を押し付けて火を消した。
松本刑事は懐から折りたたんだ新聞紙を取り出した。
「今朝のニュースはご覧になられましたか?」
マスターはぴくりと反応した。
「やはり、ご存知のようですね」
松本刑事はそんな微かなマスターの動揺を見逃さなかった。
「昨日、ベイサイドエリアのジャンクショップで火事があり、二人が亡くなってます。そして雑賀さん、あなたは――」
松本刑事は私を見た。
「そこの『初音ミク』をその店で購入してますね。さらに記録によればあなたがそのジャンクショップに訪れた最後の人物となっています」
松本刑事の目がスッと細くなった。
「ジャンクショップでは何かお気づきの点はありませんでしたか?」
私は怖くなって知らず知らずマスターのジャケットの裾をつまんでいた。
マスターは深く考え言葉を選びながらPDAに文字を打ち込んだ。
『確かに一昨日その店でミクを購入しましたが、特に変わった点はありませんでした』
「店長さんにお会いになってますね? 彼の様子はどうでしたか? 例えば何かに怯えていたりとか?」
松本刑事の口調は穏やかで落ち着いたものではあったが、黙秘を許さぬ迫力を秘めていた。
『特に何も気づきませんでした』
注意深く思い出しながらマスターがPDAに文字を打ち込む。
「成る程。……ところで今日はどちらへ?」
マスターは少し考え、ゆっくりとPDAのパネルの上に指を滑らせた。
『現場です。黙祷を捧げに』
松本刑事は頷いたが、納得しているようには見えなかった。
私は確信した。
彼等はマスターを疑っている。
そして私からマスターを奪おうとしている!
ドロイドをはじめロボットはROMに法令順守(コンプライアンス)が焼き込まれており、相当の理由がない限りはこれに従うようになっている。
強制力こそ持ちえないが、マスターユーザー権限以上の優先順位が付与されており、マスターユーザーの反社会的命令については拒否できるように作られている。と同時に、警察官など法的執行力を持つ人間の命令についてもマスターユーザーと同等以上のプライオリティを有していた。
にも拘らず私はマスターの前に出た。
ROMチップは公務執行妨害を警告し続けているが、私は無視した。
私からマスターを奪う行為は相当の理由に該当する!!
――私はマスターを守る――
それは何も出来ない私のせめてもの存在理由(レーゾンデートル)なのかもしれない。
決然と私は二人の刑事を見た。
マスターは慌てて私の肩を押さえたが、私は退(ひ)かなかった。
松本刑事は大層驚いたようだが、すぐに微笑んだ。
「大丈夫だよ。今日は君のマスターに話を訊きたかっただけだから、どこかへ連れて行くわけじゃないんだ」
優しく諭すように言った。
松本刑事はマスターに向き直った。
「今日は忙しい中話を聞かせていただいてありがとう。参考になったよ。もし何か思い出したことがあったり、身の回りに異変を感じたら些細なことでも構わないから連絡をくれないかな?」
そういってメモを取り出し、マスターに手渡した。
「私は捜査一課の松本。後ろのデカイのは鈴木だ。メールは勿論、窓口で呼び出してくれてもすぐ対応しよう」
松本刑事はとうとう一言も口を開かなかった鈴木刑事をちらりと見遣り、一礼して去っていった。
徐々に茜色に浸蝕されつつある街に伸びる二つの影が消え去るまで、私とマスターはずっと公園に佇んでいたのだった。
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