予想以上に火の勢いが強い。
煙が充満してきて、酸素がどんどん奪われていく。

息苦しい―。

ちらりと帯人を見た。
彼は苦しそうな顔をいていたけれど、息苦しいという感じではなさそうだ。
ボーカロイドには、どうやら酸素は必要ないらしい。

気づかれないようにしよう。
気を遣ってくれたら、なんか、情けないから。

雪子と帯人は走った。
息が切れる雪子の足取りは、もうふらふらで今にも倒れそうだった。
けれど、立ち止まるわけにはいかない。
今、立ち止まってしまったら、もう走れない気がする。

(非常口は…どこ…?)

必死に非常口を探すが、視界が悪いせいでなかなか見つからなかった。
慌てるけれど、酸素の薄いこの場所じゃあ脳がしっかり動いてくれない。
意識を保つことさえ、ままならないのに―。

そのとき、
炎のなかから、手がスッ―と伸びてきた。

「きゃッ!!」

首を掴まれ、そのまま軽々と持ち上げられる。
その炎のなかに見えた姿は、紛れもない赤い長髪の少女。

呪音キクだった。

「みぃつけぇたぁあああ!!」

「マスターを離せえぇえ」

帯人のアイスピックが、彼女の腕を貫いた。
不凍液が飛び散って、キクが一瞬動揺する。
その瞬間、帯人が雪子の体を奪い返した。
雪子は絞め上げられたせいで、意識を失っていた。

キクは舌打ちをしながら、笑っていた。

「返してよ。殺人鬼―」

「嫌だ。彼女は僕の、大切な人なんだ。
 おまえなんかに奪われてたまるかッ!」

その言葉に、キクは嬉しそうに微笑む。

これが、私の求めていたもの。
プログラムされた思考回路に宿るはずのない《恋愛感情》。
形を持つ《愛》がそこにある。
《心》がそこにある。
私の欲しかった。
ずっと求めていた―《心》が。

死ぬほど手に入れたかった、《人間らしい愛情》がそこに―!!

「諦めきれない…。諦めることができない…。
 諦めたら、私がマスターを殺した意味が無くなってしまう。
 理由が。動機が。せっかくの意味を持たなくなってしまう」

《心》を手に入れることを諦めたら、
私の行いがすべて、その過程がすべて、無意味な行為に変わってしまう。

帯人は、キクの異様な執念を疑問視していた。
そこまでこだわる理由。
エラーだけが原因とは考えられなかった。

―――君は

「君は、正当化したいのか?」

「……ッ」

「僕には…そう見えるよ。でも、それじゃあ正当化できてない。
 動機っていうのはあんまり意味を持つものじゃないよ。
 人間は動機を重視するけれど、僕らボーカロイドは人間じゃない。
 動機のような感情表現よりも、僕らは事実を重視しなくちゃならない。
 優先順位が違うんだ。
 ―君は、本当は、人間になりたいの…?」

だから《心》を欲しがるの…?

キクは黙ったまま、じっと帯人を凝視する。
静かにキクは口を開いた。

「あなたは違うの…?」

帯人はぎゅっと雪子を抱きしめて、首を横に振った。

「僕は、増田雪子のボーカロイドだ。
 ―その事実を受け入れる。
 なにより、彼女が僕のことを慕ってくれる現実がある。
 だから、僕にはボーカロイドとか人間じゃないとか、そういう
 ことを気にしない。
 満足してるから。僕に。僕という事実に」

「そう…」

「君は、優先順位の考え方とか、殺人への試行錯誤とか、
 そんな部分では僕より人間に近い嗜好や思考を持っているのかもしれない」

でも―。

帯人は雪子をそっと下ろした。
床に横たわる雪子に自分のコートをかける。

そして、僕はキクをにらみつけた。

「僕から見れば、君は。
 君の行為は、限りなく人間からかけ離れているよ」

その言葉にキクは、目の色を変えた。
明らかな殺意の色だ。

キクは歯を食いしばりながら、斧を構えた。
帯人もアイスピックを構える。

「どっちが人間らしいか、殺りあいましょう。
 私の殺人行為(あい)か。
 貴方の防衛行為(あい)か―」

キクは笑う。
帯人も、ちょっとだけ口を歪めた。


お互いに飛びかかる。
弾きあう金属音。
頭のなかでエラー音が鳴りやまない。
振りかざす刃物の切っ先が、お互いの皮膚を傷つけ合う。
不凍液が飛び散る。
その赤が、炎上する教室の朱と混じり合う。

肌から滴るその赤は、
まるで人間の血のようだった。

キクは笑った。
嬉しかった。
幻想でも、妄想でも、いい。

――ただ一瞬、人間になれたような気がした。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

優しい傷跡 第18話「僕らの意志と交差する願い」

【登場人物】
増田雪子
 帯人のマスター
帯人
 傷だらけの男性型ボーカロイド
呪音キク
 マスターばかりを狙う連続殺人鬼

【コメ】
最終話ももう近くなってまいりました。
一気に書き抜きます!

閲覧数:988

投稿日:2008/12/20 14:43:49

文字数:1,858文字

カテゴリ:小説

クリップボードにコピーしました