第一章       

「今ね、最悪の時期なんですよ」…私はメンタルクリニックで先生にそう言われていた。
事実、心は痛むのに涙が出ない状況に迄なっていた。自分の心の痛みに鈍感になってしまい、毎日の生活の中で、心が動く事もなく全てがどうでも良かった。理由なんて物は分からない。日頃のストレスだろうか…。そんな事でさえ「まぁいいや」という言葉だけが頭を廻る。その後は考える事を止めてしまう。帰宅の車中で煙草に火を点けぼんやりと思いに耽る。生きている意味を探しながら、藻掻き足掻き苦しみを突き詰めての結果が「どうでも良い」という結論に至ってしまった私だ。只、朝が来て夜になる迄に起こる事全てがどうでも良い日常を過ごしていた。
私は「人を信じる事が出来ない」…だからか、「頼って下さい」なんて言葉が胡散臭くて好きになれなかった。適当に適度な距離感で人と接する位が今の私には丁度良くて…。そんな「どうでも良い毎日」を過ごしている私だが、結婚していた時期もあった。長い結婚生活を経て私は心を失くしてしまったのかも知れない。人に対する「愛」なんてものが私には分からなくなっていた。帰宅した頃にぽつぽつと雨が降り出していた。私は雨を好む人間だった、雨に濡れる事でさえ居心地が良いと思ってしまう程。…少し車で雨の音でも聞いてみるか…そう思った私は段々と強くなっていく雨の音に酔いしれていた。雨の音が心地良くて、煙草へと手が伸びる。煙草へと火を点け呼吸する様に只、煙草をふかし続けた。雨は段々と酷くなっていく頃、私は帰ろうと思い車を後にした。
駐車場から私の住むマンションへと、土砂降りへと変わっていた雨の中を歩く足の水の溜まりが何処までも黒く、深い闇の様に感じた。部屋へと戻り、雨に濡れたまま私はベランダへと向かった。…最期の一本にでもするか…そんな事を考えながら土砂降りの外を見つめ、煙草を吸う事にした。煙草の煙がふんわりと漂い、最後になるであろう火が消えかけた時私はベランダの淵へと立っていた。
土砂降りの雨を見上げ、これで終わりか…なんて事を考えていた時隣に住んでいるであろう男性から声を掛けられた。「あの…もしかして死のうとしてます?」…「あー…」…「良かったら飯でも一緒に食いません?」死のうとしている人間に対してどうしてそう言ったのかは分からないが、最期の晩餐を見ず知らずの人とするのも良いかもな、と思い「…それも良いかも知れないですね…」と心は空っぽなまま答えた。「鍵、開けとくんでいつでも来てください」私はベランダの淵から降り、「…はい」と答え、煙草へと火を点け最期の煙草になるであろう煙を思う存分吸い込み、吐き出した。その後、隣の部屋へと向かう私を簡単に想像出来た、暗くなってきた時間の「最期の晩餐」に。

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深淵の中の蝶

メンタル的に死を望んでいた頃、隣人から声を掛けられ最期の晩餐に知らない人と過ごす事も悪くないと思い、死を引き留められるような形で出逢いが始まる。

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投稿日:2024/10/03 03:24:42

文字数:1,152文字

カテゴリ:小説

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