THE PRESENT PART2 R-Mix SIDE:γ
病室にやって来たものの、レンはどこかへ散歩にでも行ってしまったのか、彼の姿は見当たらなかった。
嫌な予感を振り払い、リンは先に用事を済ませてしまおうと意を決して向かいの病室にも入ってみたのだが、そこも空だった。
本来は内向的なリンが――今までの演技のように、明るく、仲良くする為ならともかく――脅すなどというを事する為に必要とした覚悟からすれば、あの女がいないという事はどこか肩透かしを食らったような、拍子抜けをしたような感覚ではあった。だが、その事実には嫌な予感しかしなかった。
(まさか、一緒に居るなんて事無いよね……)
あの女の病室から廊下へと出てくると、恐ろしくなって身体がカタカタと震える。
その震えが、あの女とレンが一緒に居るかもしれないという想像からなのか、それとも今から彼女に対して自分がしようとしている事からなのか、いまいち判然としなかった。恐らくその両方なのだろう、とリンは決め付けると、震える身体を抑えつけるように自らの身体を抱き締める。
(あたしは、守らなきゃいけない。そう、守らなきゃいけないの。レンを。あたしのレンを。自分の……拠り所を)
コートの内側に忍ばせた“それ”の柄を握り、リンは覚悟を新たにする。
廊下を歩き、ナースステーションを通り過ぎる。待合室には二人とも居なかった。
二人を探して、リンの歩みは早まる。
階段から階下へ。
四階、三階、二階、一階と降りるが、やはりどこにもいなかった。中庭に出てみるが、そこには車椅子に座った男の人と、付き添いの綺麗な女の人しか居なかった。
(いったい、どこに――)
レンの行動パターンは知り尽くしているつもりだった。それなのに見つからないという事に、焦りと、かすかないら立ちが芽生える。
(あとは、屋上くらいしか……)
今まで、レンが屋上に行った事など数える程しか無い。
レンが普段行かないところだからこそ、意図して避けていたのだ。普段行かないところに行っているという事はすなわち、普段一緒にいない誰かが居るからこそそんなところに行っているのではないかと思ってしまうから。そしてその誰かは、リンには限りなく一人に絞られてしまう。
(どうしよう。どうしようどうしようどうしよう。もし二人が一緒に居たら? そうしたらもう、レンはあたしの事なんて見てくれなくなっちゃうんじゃないの? そんなの、嫌。嫌だよ。レン、どうして……)
思考がまとまらなかった。
自分の思考が極端なものである事など理解出来る訳が無かった。実際にはそうではない可能性の方が高かったとしても、「レンとミクが一緒に居るイコールレンに見捨てられる」という方程式が、リンの中では成り立ってしまっていた。
頭の中がぐちゃぐちゃになり、絶望に打ちひしがれたような気分だったリンは、ほとんど上の空で階段を上っていた。
目の前に急に現れた扉に面食らってしまう程、リンは上の空になってしまっていた。それが、いつの間にか階段を上りきった先にある屋上の扉だと理解するのには、更に時間がかかった。
(大丈夫。大丈夫だからしっかりしなさい、リン!)
言い聞かせてみたところで効果が無い事をリン自身よく理解していたが、そう考えずにはいられなかった。両手でペチペチと弱々しく自らの頬を叩くと、意を決して、しかし恐る恐る扉を開ける。
そしてリンは、一番見たくなかった光景を目にしてしまった。
「――ッ!」
声を出さずに済んだのは、単に息を呑んだまま動く事が出来なくなっただけだった。その様子が、余りにも信じる事の出来ない光景だったから。
国際病院の屋上。リンからは遠いところで向かい合う二人。レンの背中が見える。その向こうにあの女が見える。それはリンにとってこの上なく最悪に近い光景だった。
思わず手がコートの内側に伸び、“それ”の柄を強く握り締める。
あの女が、リンの目の前でレンに抱きつく。
しかも、あの女は事もあろうにリンの方を見ていた。明らかにレンの方ではなく、リンの方を。
あの女は、リンに見せつけるように、レンをリンから奪い取った事を見せびらかすように、彼に抱きついたのだ。
その光景に、リンの心は、文字通り崩壊した。
(あたしは、あたしは……一体何なの? 今まで、一体何をしていたの? 一体なぜ、こうなるまで何もしようとしなかったの? レンにとってあたしは、やっぱりただの姉弟でしかなかったの? レンの事を想い続けていたあたしは一体何? ただの間抜けな……義理の姉に過ぎなかったの?)
それ以上、リンはその光景を見る事を止めた。
それ以上、リンは希望にすがる事を止めた。
それ以上、リンは何かを考える事など出来なかった。
注意深く見ていれば、もしかしたらリンは気付く事が出来たのかもしれない。レンとミクの二人が、リンの考えてしまっているような甘い時間を過ごしていた訳ではないと。だが、リンはそれに気付く事が出来なかった。気付こうとする余裕など無かった。
ナイフを握るリンの手に自然と力がこもり、冷静さを欠いた彼女の身体が震える。
ナイフを取り出し、コートを脱ぎ捨てる。夕陽がほとんど沈んてしまった今、黒のワンピースだけでは相当に冷えたが、そんな事は気にもならなかった。
「――やっぱり、そうなんだ」
自分でも気付かない内に二人に近付いていたリンは、ポツリとそうつぶやく。
「え?」
ミクはこちらを見ていた。その女を抱き締めているレンは、こちらを振り返る事など出来ない。二人が何かをする前に、リンは動き出した。
暗くなりだした冷たい屋上で、リンの握るそれがかすかに銀色にきらめく。
そして“その”瞬間、まるで時が止まってしまったかのように三人の動きが止まった。
リンは左手でレンを押しのけ、無造作に右手を突き出す。
レンという支えを失ったミクは避ける事も出来ず、むしろリンの手元へと吸い寄せられるように倒れ込んできた。
握り締めたナイフ越しに、リンの手にミクの胸元を貫く柔らかい感触が伝わってくる。
次第に両手を濡らす、ぬるりとした生暖かい液体に、リンは恍惚とした気分になる。これで、レンは自分の物に、リンだけの物になったのだという実感が湧く。こうなってしまえば、こうやってしまえば、もうこれ以上、レンをこの女に奪われる事など無いのだから。
そうして、リンはまるで勝ち誇るかのようにミクに向けて微笑んだ。今まで無邪気で可愛らしい笑みしか浮かべた事のなかったリンが、妖艶な、それでいて恐ろしい怜悧な笑みを。
ミクの胸元からナイフを引き抜くと、リンは後ろへ下がる。
力を失ったミクが、スローモーションのようにがくりと膝を付き、その場に倒れる。それにはっとしたのか、押しのけられて呆然としていたレンが慌ててミクに駆け寄った。
(……?)
そのレンの行動が、リンには理解出来なかった。なぜ彼は尚もミクの方を見ているのか、全く理解出来なかった。
(……どうして?)
ミクの身体を抱き支えているレンは、彼女の方を向いていて、リンにはその表情が伺いしれない。
(こうすれば、レンはこっちを見てくれる筈なのに。その筈なのに……)
この女さえ居なくなれば良かった筈だった。そうすれば、レンはリンを見てくれる筈だったし、これ以上思い悩む事も無くなる筈だった。
(それなのに――)
それなのに、レンはミクの方を向いたまま、一向にリンを見てくれる様子はなかった。まるで、リンという少女など初めから存在しなかったかのように。
そんな事は、あってはならなかった。
そんな事があっていい筈がなかった。
「行かないで――」
その光景に、リンは呆然とつぶやく。
同時に発せられたレンとミクの言葉は、彼女には届かなかった。
呆然と二人を眺めていると、不意にミクと視線が重なる。
「ひ……」
悲鳴を上げそうになる。が、それ以上の言葉が出てこなかった。身体すら動く事を拒否しているかのようで、微動だにする事が出来ない。
そんなリンを見据えたまま、ミクは手を伸ばしてくる。力が入らないのか、ふらふらと、頼りなく。だが、そこには先程までは存在しなかった意志の強さが、確かに感じられる。その事に、リンはこれ以上無い程の恐怖を感じた。
(どうして……。なんで……?)
右手に握った硬い柄にまとわりつくぬるりとした気持ち悪い感触に、リンは急に自分のした事の重大さを思い知らされる。
(あたしは、どうしたら……)
まともな思考回路など、保てる訳がなかった。
彼女に理解出来たのは、こうなっても尚レンがミクを見ているという事実だけだった。
絶望。
それだけだった。
それしかなかった。
レンがミクの側に居る。
リンを見てくれない。
それはつまり、彼女にとっては見捨てられたも同然だった。
レンがいない。
レンがいなくなってしまう。
そんな事、耐えられない。
それなら。
それなら、いっそ――。
(――死んでしまった方がいい)
震える手の平が、滑り落ちていってしまいそうなナイフを握り直す。強く、強く。
リンは視界を閉ざし、何かを見る、という行為を否定した。そもそも、最早見るべきものなど何も無いのだ。リンは自分の求めていたものが全て失われてしまった事を自覚した。それがミクのせいだとかリン自身のせいだとか、そういった責任の所在などどうでも良かった。重要なのはただ、そこに絶望があるという動かしようの無い事実だけだった。その事実を前に、涙すら出てこない。
手を掲げる。
赤く濡れた銀色のきらめきが、唯一の希望なのだとリンは思った。
それが、リンに残された最後の選択肢だった。
本当は、他にも様々な選択肢があった筈なのだが、そんなものがある事などリンに分かる訳がなかった。
深く息を吸い込んで、彼女は意を決する。
掲げたナイフを、自らの胸元へと振り下ろして――。
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