『かごめ かごめ
籠の中の鳥は
いついつ出遣る
夜明けの晩に――』
さて、あの唄の続きは何だっただろう?
リンは紅い梁天井を見上げながら、ふと考えた。
夢か現――と言っても、最近では夢などパタリと見なくなってしまったのだが――の境界で淡い意識の中、自問する。
どうして今更こんなに懐かしい唄を思い出したのか分からない、彼女が此処に連れ来られてから、かれこれもう二年になるというのに。
年月は恐ろしいと思う。
気付けばもうこんなに経ってしまっていたのだなと、改めて思ってしまった。
特に、此処にいると日付の感覚なんて麻痺してしまうからいけない。
「じゃあ、また来るよ、リン」
気だるい感覚に浸りながら白んできた空を寝転んだまま見上げていると、客の声が聞こえた。
リンの馴染みの客で、四十後半のしがない町役人である。
それでもまだ官吏であるだけマシだろう、リンのような位の低いただの部屋持ちには、その日限りとも知れぬ一見の客も充てられる。
この間の客など、陸軍の一等兵などと名乗っていたが実はそこらの百姓だったという話だ。それに比べれば、素性がはっきりとしているだけまだ良い方であろう。
いや、リンを毎度指名してくれるというだけで、彼女にとっては十分に上客には違いないのだが。
「お見送りします、川合さん」
そこでリンはやっと意識を起こし、客を見送るべく少しの身支度をする。
馴染みの客だからと一人で帰しなどすれば、後で楼主に何を言われるか分かったものではないし、またこの客の機嫌を損ねるかも知れないのだ。
まだリンは水揚げをして三ヶ月余りしか経っていなかったが、徐々に名を上げていっている。
こんな所で自らの評を下げるなどと、決して許されることではない――それがどんなに陳腐な客であろうとも。
「リン、調子はどうだ?」
客を帰して部屋に戻ろうとしていると、楼主に声をかけられた。
楼主とは勿論この廓の主であり、リンたちを此処で働かせている男のことだ。
この廓では、どんな客であっても客が帰る際には楼主も共に見送りをすることになっているので、会うのは必然。
飄々とした空気を持ち年齢不詳のきらいがあるのだが、リンはまだ若くも感じるこの男を、三十路を過ぎてはいないだろうと踏んでいる。
借金の肩代わりなどで売られてきた女たちにとって楼主は絶対であり、ほとんどの遊女と同じように、リンも主でもあるこの男を苦手としていた。
――当然ながら、廓にいる女郎の中には自分を此処で働かせる“楼主”を憎むものもいるのだが、彼女はこの男を苦手だとは思いつつも、心底憎んだり客のように軽蔑したりは出来ないのだった。
「あ、申し訳ありません。今のところは、川合さんだけで…」
けれど、仕事の話になるとまだまだ新米であるリンには肩身が狭い。
謝るようにそう言って頭を下げれば、楼主は咎めるように笑った――形容し難いが、他に言いようがない。
「そうか、お前も早く覚えることだな」
男は身を竦めるリンにそれだけを言うと、ついとその場を去って行った。
まだ次の客の見送りが残っているからなのだろうが、それにしても他に何か言うことはないものか。
やはり、リンには未だに掴めない人間である。
「分かってますよ…」
しかし、否定されたままでは腹が立つ。
こちらは自分の出自にまつわる体裁も自尊心も全て捨て、客の相手をしているというのに、リンは今まで一度たりとも楼主に労いの言葉をかけてもらったことなどなかった――それもまた“売り物”である彼女に対しては至極当然のことなのだろうが。
などと考えていると、また昔のことを思い出すからいけない。
先程もだったが、今日は何かあるのだろうか。昔のことばかりだ。
もしかしたらレンに何かあったのかも知れない――勿論、リンにはそれを確かめる術などないが。
「姐さんのところにでも行こう」
不可解な気持ちを払拭する為、リンは禿の時代から付いていた姐の元へ向かうことにした。
姐である彼女は親に捨てられていたところを楼主に見込まれて拾われたらしく、まだリンと年も変わらぬ程若いのに、その才から既に附回しである。
売られた衝撃と悲しみにより長い間仕事も手に付かず、廓の中でも孤立していたリンに、彼女だけは目を掛けてくれた。
彼女によってリンは、なんとか現在の居場所を手に入れたのだ。
だからこそ、姐にだけは全幅の信頼をおいている。
「姐さん、リンです。入っても良い?」
本来、客を見送った後は、彼女たち女郎にとって貴重な睡眠時間となる。
リンにもそれは十分に分かってはいたが、どうしても姐と話がしたかったのだ。
しかし、姐の寝室として使われている部屋を訪ねて戸の外から何度か呼びかけてみても、何の音沙汰もない。
もしかして、もう寝てしまっているのだろうか。
そうは思っても諦め切れず部屋の前をウロウロとしていると、他の部屋持ちが来て
「リン、あの子なら今日は子爵様のお相手をしてるそうだから、もう少しかかるんじゃない?」
同情するように、苦笑しながらそう言った。
彼女に随分傾倒している子爵令息――まだ継いではいないらしい――のことは、リン自身もよく知っている。
「そうですか、ありがとう」
彼がなかなか姐を手放そうとしないであろうことも知っていたので、リンは仕方なく引き下がることにしたのだった。
まだ眠る時間はあるし、一度寝てしまえばきっとこの気持ちも消えてしまうだろう。
「仕方ないか…」
当然ながら、今晩も仕事はあるのだ――勿論、今晩の客が取れるかどうかは格子の前での自分の出来次第なのだが。
きちんと寝て疲れを取り、それに備えなければならない。
リンは姐に会えないことを残念に思いながらも、自分の部屋へと戻ることにした。
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