ヴェルデッツァに入る前には気づいていた。僕には監視がついている。リンからは開戦を待つように言われている。戦争が始まる前にことを起こし、それが露見しようものなら、クローチェオは後ろ楯を失うだろう。ミクを襲うのは戦乱に乗じて。そして僕についている監視がそれを確認するというのだろう。
僕はまず、屋敷周辺の探索をした。人気のない場所や逃走のための経路を考える。絶対に僕の姿を見られるわけには行かないのだ。様々なパターンを想定しながら周辺の道を確認した。
ヴェルデッツァに入って1週間。その間に宣戦布告がされ、攻撃が開始された。中心都市に攻め入るまでにこれだけ時間を要した。やっと街が混乱を始める。僕は合図のための赤い紙を宿の窓に貼り、すべての荷物を持って出た。
「レン君?」
ミクは予定の場所に一人で来た。
「本当に一人で来たんですね。無防備な人だ。」
「え…」
「僕は今あなたの国を攻めているクローチェオの人間ですよ。罠かも知れないとは思わなかったんですか?」
「…確かに。でも私は、レン君がそんなことをする人でないことくらい、わかっているわ。」
僕は、この言葉に揺らいだ。もうすぐ、この人の人生をめちゃくちゃにするというのに、こんなことを言ってくれる。
「ミクさん、申し訳ありませんが、今から僕の後ろをひたすら着いてきてもらえますか。」
「…ええ。」
それから僕は調べたルートを走った。ミクは僕のお願いした通り、どんどん人気のない方向へ着いてきてくれた。
完全に人の気配のないちょっとした森の小道まで来た。僕は立ち止まり、周囲の気配を探った。視線は感じなかった。僕は用意していたナイフを取り出す。くるりと振り返り様、ミクを見据える。
「申し訳ありません。貴女の髪をいただけますか。」
「え…」
ミクは驚いた顔をした。でも恐怖は見えなかった。
「女王が、貴女の暗殺を命じました。このままこの国にいたら、いつか貴女は殺されてしまう。」
「…リンちゃんが…?」
「僕が、貴女を逃がします。でも、そのためには貴女の死の証拠がいります。…綺麗な髪を切ってしまうのは気が引けますが。」
これはシナリオだった。これを実行すれば、世の中から貴族の娘ミクは抹殺される。今までの人生に戻ることはできない。もちろんミクが拒否するならば、両親の元に返すつもりだった。その場合、他の方法を探さなければならない。
「そう…ありがとう、レン君。」
その言葉は意外過ぎて、僕はそれを口にしたミクが信じられなかった。
「そんな、僕は貴女の今の人生を台無しにしようとしてるんですよ…?」
「いいの。どうせ生きていても政略結婚でチェレステに行くんだわ。それなら全部捨てて、新しい人生を生きるのも悪くない。」
ミクは僕に笑いかけてくれた。手を出して、ナイフを受け取ろうとする。
「…ミクさん…。すみません。僕にはこんな方法しか、貴女を守る方法が浮かばなくて。」
僕はそう言って、ミクにナイフを渡す。ミクは2つに結った髪の片方を一房掴み、ナイフでざっくりと切り落とした。
「この髪、逃げるのに邪魔だから、丁度いいわ。特徴も変わって分かりにくくなるし。だから気にしないでね。」
そう言って僕に切り落とした髪を渡す。ミクはこんな時も、優しい言葉をかけてくれる。相手への配慮を忘れないのだ。僕は目頭が熱くなった。
今、理解する。
僕は、この人が好きだ。優しくて、前向きで、凛としていて、自分を持っている。
そんな彼女を、本当はきっと、最初から。
つん、と糸で心臓を引っ張られるような切なさ。そしてじんわりと広がる温かさ。
これが人を想うということ。僕はもっと早く気づくべきだった。
本当はずっとそうだったのに、自覚するのが遅かった。
あの夜に誓ったことは、リンを欺いてでもミクを生かすこと。それを最優先として、その後大臣を殺すことになってもリンと戦争を止めること。二度とミクに会えないシナリオだけれど、ミクを傷つけずにリンを、国を守るための策は僕にはこれしか思いつかなかった。あの時だって、一番にミクを考えたのに、自分の鈍さに驚く。
「ミクさん、巻き込んでしまい、本当にすみません。」
「貴方は、私を助けに来てくれたんじゃない。大丈夫。私は家を捨てられてラッキーよ。」
そうミクは言ったけれど、家や両親を簡単に捨てられるわけがない。僕は、思わずミクを抱きしめていた。ふわりと甘い香りがする。
「すみません。必ず逃げ切ってください。貴女に会うのは今日が最後だけれど、だから言わせてください。」
「最後って、どうして…」
ミクの体が一瞬強張った。恐る恐る吐き出した声に僕はなるべく静かに答えた。
「僕は、女王を止めなければ。嘘をついてすみません。僕はリンの、双子の弟なんです。」
「双子…どうりで。似ているわけだわ。」
僕は一瞬迷って、でも言わずにはいられなかった。この気持ちを知って欲しかった。それでなにが変わるわけでもないけれど、ただ伝えたかった。吐き出したかった。
「貴女に会えて、僕はたくさんのことを知りました。こんな、気持ちも。貴女が、好きです。」
「レン君…。」
ミクが僕の名を呼ぶ。それだけで今の僕は満たされる。気持ちは伝えた。これは僕の一方的な気持ち。これから彼女を家族と離して一人にしてしまう僕が、最後に伝える言葉。
「だから、生きてください。この道は隣国へ通じています。まさか国境を越えて貴女を探すことはないでしょう。しばらく身を潜めていてください。」
腕におさめた彼女を放すと、ミクは一筋涙を落としていた。
「さあ、もう少し、進みましょう。国境まで僕が先導します。」
僕はそう言って前に進み始める。ミクは静かに後ろを着いてきていた。それから背中越しにぽつりと言った。
「レン君がクローチェオの王様だったら良かったのに。それなら私、政略結婚でも良かったな。」
その言葉を聞いて、僕はまた目頭が熱くなる。誰かに自分の気持ちを受け取ってもらえるというのは、こんなにも幸せで、暖かなことなのか。この先二度と交わらない僕らの道を思ったら、なにも伝えない方が良かったのかもしれない。けれど、彼女のその言葉だけで、僕には力が湧いてくる。
「ねぇ、希望を持ったらダメかな?いつか戦争も終わって、貴方も普通の生活ができるようになったら、また会えると。」
「ミクさん…。」
「せっかく、こうして出会えたんだから、きっと縁はある。そう、希望を持っていたい。」
ミクは僕に笑顔を向けた。とても前向きな僕の好きな表情。でも僕はその笑顔をきっと曇らせる。
「ありがとうございます。そんな風に思ってもらえるだけで、僕は幸せです。」
「良かった。じゃあ私、勝手に信じてるから。…レン君も、生きてね。」
最後は涙声だった。僕が覚悟を決めているのをわかって言ったのだろう。僕は振り返って、ミクを抱きしめた。僕も静かに泣いた。泣き顔を見られたくなかった。こんな風に僕のために泣いてくれる。それが嬉しくて、涙が溢れた。
しばらくして静かな森の小道にふと人の気配を感じた。ミクを抱きしめた腕に力が入る。さっと周囲に目配せする。姿は見えない。
「レン君?」
「まずい。人が来ます。なるべく、足音を殺して着いてきてください。」
僕はミクの手を握って走り出した。
その瞬間、空間を割るような音が響いた。引いたミクの手に重さを感じ、引っ張られる。
振り返った先に目にしたのは、鮮血の赤。崩れていくミクの体。僕はとっさにそれを抱きとめた。
「…レン…く」
「ミク…さん。」
落ち葉の絨毯の上に僕らは倒れ込む。ひんやりと冷たい地面が僕らを受け止めた。
ミクの脇腹から温かい血が溢れてくる。ミクは目を少しずつ伏せ、痛みにその眉を寄せた。自分の状況を理解していくようだった。
僕は目の前の光景を信じられず、流れ出る血を手で塞ぐことしかできなかった。その手にはミクの切った髪が残っていて、血の赤に濡れていった。
「ミクさん…ミクさん!」
「ごめん…ね。」
「なんで…。」
「一緒に…生き…ら」
ミクが手を伸ばしたので、僕はその手を握った。どんどん生気がなくなっていく。傷を塞ぐ左手には温かい血が溢れて止まらない。そこからミクの命が流れ出ていくようだった。必死に手を当てても、僅かな隙間を縫ってそれは止まらなかった。
次第に重くなっていく体。少しずつ閉じられていく瞼。それを止めたいのに、僕にはなにもできない。腕の中で、命が失われようとしている。初めて、愛した人の。
「…ミクさん!」
「リンちゃん…止め…てね。」
「…はい。必ず。だから…」
「レン君…」
『生きて…』
二人の声はユニゾンのように美しく重なった。弱々しいピアニッシモのミクの声と叫ぶような絞ったピアノの僕の声は静かな森に静寂の瞬間を呼んだ。
ミクの体にはもうミクはいなかった。それがわかってしまう静寂だった。ゆっくりと風が吹いて森の木の葉を鳴らす。事実を飲み込んだ心がそれに合わせるように波立って、僕は声を押し殺して泣いた。額と額をぶつけるようにその体を抱いて、残った体温をかき集めた。やがてその体温がなくなる頃、僕は軍の人間に銃を突きつけられ囲まれていた。
「おかえりなさい、レン。」
リンはニコリと笑って出迎えた。僕は自由を奪われ、引きずられるようにしてリンの前に立たされた。もっとも、歩くことも、息をすることもこの時の僕には難しいことだった。まさかミクを失って国に帰るなどと思っていなかったのだ。生きることのすべてを、なくしてしまったみたいだった。
「レン、やっぱり私に嘘をついてたのね。」
見抜かれていた。すべて。僕のしたことは結局子供の浅知恵だった。なにもしなければ良かったのか?しかし、この国の暗殺部隊なら、どんな堅固に守られた屋敷にだって入り込み、ミクを殺していただろう。あの屋敷からは遠ざける必要があった。
こんな風に、どうしたらミクを助けられたのかをずっと考え続けていた。もう覆らない、過ぎてしまったことを。その思考は止まることなく、いつまでも続く螺旋階段のようだった。
「この者を牢へ。」
リンの冷たい声が響いた。
牢では思考の時間だけが無限にあった。薄暗く冷たい石の中で、僕は同じことをいつまでも考え続けていた。どうしたらあの瞬間を回避できたのか。なのに、どんなシミュレーションをしたところで、最後にはあの瞬間に戻るのだ。冷たくなっていく、血で濡れた体。消える、瞳の光。
何度繰り返したところで、時は戻らない。それがわかっていてもなお、僕の頭はその思考を止めなかった。
そうして考えるだけの一月が過ぎ、空気がさらに冷たくなった12月の夜、リンが牢へやってきた。誕生日のためにしつらえたイエローのドレスを着ていた。戦になっても仕上がるのか。僕はそんなことを考えていた。
リンはなにも言わずに僕を見つめた。僕もなにも言わなかった。なにを伝えたらいいのかもわからなかった。
しばらく、無言のまま僕らは視線を交わした。
リンは目線を外して下に落とすと、歌い始めた。バースデーソングだ。
「♪happy birthday dear Len…」
今日が僕らの誕生日だったのか。リンはこうしていつも僕にバースデーソングを歌ってくれた。年齢と誕生日を偽り、嘘の人生を送る僕の、本当の誕生日を祝ってくれた。
歌が終わると、リンは踵を返して柵の向こうの扉に消えた。僕はリンに誕生日おめでとうと言えなかった。
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