次の日、俺はなんとなくアタナのパソコンに行きたくなくなった。なんだか人が変わってしまったようだった。事情が変わったと言っていたが、それにしてはなんだか切羽詰まっているように見える。そんなに妹の詞や曲が見たいのだろうか。だが、だったら直接訊けばいいのだ、わざわざ俺に頼む必要はない。

 妹に知られず、なのに詞が見たい理由はなんだろうか。

 アタナに繋がるパソコンの前でゴロンと寝転がる。暇なので、退屈凌ぎに『にゅーす』なんぞに手をだして見た。久しぶりだ。世界中のニュースを見ようとすると流石に大変なので、日本のだけに絞った。どうせ聞き流すのだから、適当でいい。

『優香さん、明日の天気はどうでーー』
『ーー犯人は現在も逃走を続けており、住民のーー』
『時雨業さんが行方不明になってから今日で三日ーー』
『今日、醍醐小学校では今年初のーー』
『見てくださいこのマグロ、油が乗っていてーー』
『ーー警察の発表では今後ーー』

 日本語が混ざり合って、音楽のようになった。音の波に揺られながら、いくつか案を出す。

 が、浮かんだのはあまり現実的ではないものばかりだった。

 妹の弱みを握りたいということも考えた。恥ずかしいと言っていたくらいなので、強請るネタにもなりそうだと。しかし、ネットで公開しているかもしれないということだし、それくらいでいくらお金が取れるかなんてたかがしれている。本気だったら、もう少しマシなネタを用意しそうだ。

 次は、急遽、詞や曲が必要になった場合だ。なんらかの理由でアタナに詞か曲の作成を依頼され、妹のをパクることにした。だが、経験のないアタナになぜ依頼したのかという疑問が残るし、だったら直接お願いしたほうがオリジナルをもらえそうな気がする。わざわざ隠す必要がない。

「……訊いていい雰囲気でもなかったんだよなあ」

 今日はもう行くのをやめにしようか。と考えていると、「やあやあ、また会ったね」と、あのミクが声をかけてきた。

「どうしたんだい? ぼんやりと考えこんだりして……ああ、そうか、そういうことか。キミ、それは恋だよ、恋煩いだ。きっとアタナのことが頭から離れないのだろう? 美人だからね、無理もない。恋は人生を豊かにするからね、どんどんすべきだよ。で、実のところはどうなんだい? なにがあった?」

 俺は体を起こす。「よくしゃべるね」

「口があるから当たり前だろう? 私の口は食品を食べるためには使われないからね、呼吸もしないし、だったら、喋るしか使い道がないではないか」

 ミクは笑い、それから「で、そんなところでどうしたんだい?」と訊いてきた。

 俺は、ここ二三日のことを話した。妙に雰囲気を変わったことを告げると、「アタナも恋をしたかね」と言っていたが、どうやら相槌だったようで特に意味はないようだった。

「キミはどう思うんだい?」

「どうって?」

「それが人間だと割り切るのかってことさ。私は、一日でガラリと変わる人を何人も見てきた。その一人にアタナを入れても、私はなんの疑問もなく納得するだろう。だが、キミはそれをできない。キミはそれをどう処理するつもりなんだい?」

「処理……」

「わからないことをそのままにすると、絶対に後悔するよ」

 ミクは、このときだけは、真顔だった。

「いいかい? それは先輩としての助言だ。私たちは、人と違う、これを理解すべきだ。キミはきっと理解していると言いたいだろうが、残念ながらそれは誤解だ。ただの慢心だ。思い込みだ。過信だ。一人の人間が産まれてから死ぬまで一緒にいても、その人を理解することはできない。それが人間だ。だから人間だ。例をあげようか、アタナは産まれたときからアタナと一緒にいるが、アタナを理解することはできない、一番の理解者になるかもしれないが、それだけだ」

「…………」

「思い込んじゃいけない。経験から判断してはいけない。昨日と同じとしてはいけない。たった一言でも、人は流され、柱を失ってしまう」

「…………」

「なにかあったら訊くべきだ。じゃないと、その人がおかしくなってしまったことに、気付かなくなってしまう」

 ミクは、俺を見て同情していた。同情していた。同情していたのだ。

「俺は、アタナに恋をしているわけじゃありませんよ」

「恋か。恋ねえ」ミクは言葉を噛み締めた。「それが恋だったかわかるのは、もっと後なんだよ」

「……ミクが、そうだったように?」

 ミクが言いたいことがようやくわかり、こちらから質問を投げかける。

「私はね、あれを、恋だとは思わなんだ。今思うとそうとしかなっていないはずなのに、あのころは否定していた」

「じゃあ、なんだったの?」

「なんだったんだろうね。愛とか、崇拝とか、純粋なる興味対象だったのかもしれないね」

 愛。崇拝。興味対象。その単語が胸に刺さる。それは、俺が常日頃から人間に対し抱いている感情だ。

 ミクは俺の後ろにある、アタナに繋がるパソコンの穴に手を伸ばした。だが、スルッと、その腕は突き抜けてしまう。彼女は、このパソコンに入ることができなかった。初音ミクのソフトが入っていないからだ。パソコンから拒絶された腕を、ミクは残念そうに眺めた。

「一目、拝んでおきたかったんだかね」

 …………。

「昔話をしようか」やがて、ミクは言った。「今は昔で始まる、まだ私が純粋で、ピュアで、無知だったころの話さ」

 俺は黙って聞くことにした。

「私が生まれたのは、名前のないプロデューサーのパソコンさ。今はどうかわからないが、音楽活動は続けていて欲しいところだね。あのままやめられたんじゃ、後味が悪い」

「…………」

「おっと、話がそれたかな。ともかく、私は生まれた。知識もなにもない、初音ミクとして、そのマスターと出会った。そのパソコンにはすでに何人かボーカロイドがいてね。『意思持ち』もいた。私は彼女たちから、私という存在とマスターのことを知ったわけだ」

「…………」

「彼女たちはマスターと接触を持っていなかった。遠くから、画面の向こうから見ているだけで満足だと言っていた。それはまさに本心だったと思うね。私もそうしようと思っていた。しかし、日ごとに『しゃべってみたい』という感情が大きくなっていくのが自分でもわかった。マスターは私、つまりはミクの歌ばかりを作っていたからね。私に興味があると信じて疑わなかったのさ」

 まあ、今考えれば、新しいオモチャを手に入れたから、いろいろ試していただけなんだろうけどね。ミクは言った。

「感情が抑えきれなくなったとき、私は話しかけてみることに決めたのさ。一言でも会話したい。あわよくば感謝の言葉を告げたい。そんな、純粋な感情だったよ。もし私が話しかけて、少しでも気味悪がられたら、パソコンを出る気だった」

「…………」

「なんて言ったかは、もう覚えてないね。『初めまして』のようなものだったかもしれない。『いきなりごめんなさい』と謝罪したかもしれない。とにかく、私は声をかけた。そしてマスターは驚いたような顔をして、そして、受け入れてくれたのさ」

「…………」

「そりゃあ驚いていたよ。でも、同時にとても嬉しそうだった。それに、あとから聞くと『やっぱり』という感覚もあったらしいよ。本当かどうかわからないけどね。マスターは、形あるものは全て生きていると思う人だった。人形はもちろん、テレビも、鞄も、団扇もそうだ。きっとどこかの映画みたいに、自分がいない場所で喋っているに違いないって、そう信じていたんだってさ」

 ミクは笑う。初めて見る、優しい笑みだった。

「マスターは、私に興味を持ってくれた。マスターにとって、私は理解できない存在だったからだろうね。いろいろ訊いてきた。姿は? ほかのボカロは? どうやって喋っているの? 歳は? 背丈は? 子どもの質問攻めに襲われた気分だったが、嫌じゃなかった。むしろ心地よかった。だから私は質問に全て答えた。私以外にもこのパソコンにはボーカロイドがいること、ずっとマスターを応援していたこと。これからもそのつもりなこと」

 最初はなんてことない質問が続いた。おしゃべりもお互いの環境についてだった。だが、徐々に、マスターが訊くことが変わっていったらしい。

「変化らしい変化はなかった。まあ、今考えると、出会ったころと最後じゃまったく違うんだが、当時は気がつかなかった。恋は盲目とよくいったものだよ」

「なにがあったの?」

「マスターは、私の性質に気付いたようだった。セキュリティなんてなんのその。あらゆるサイトに潜り込み、情報を盗み見ることができる。また、ボーカロイドを通じてさえいれば、証拠を残さず情報のやりとりができる。相手のパソコンに初音ミクさえ入っていれば、私が出入りできるからね。そうさ、私は、犯罪に使われそうになっていたんだ」

 俺は、今、妹を探すためにサイトにアクセスしているが、それはちゃんと正規のルートと辿っている。もっと言えば、履歴を残しているのだ。だが、そんなことをしなくても、俺たちはサイトに入ることができる。実際、履歴を残しているボーカロイドは少ないと聞く。ひと手間増えるから、面倒なのだろう。それに、俺たちは一度そのパソコンから離れると、完全な自由になる。サイトに入るのにマスターの名前を出す必要はないのだ。

「そのときの私はマスターの言いなり状態だったからね。まったく気がつかなかった。マスターのしていることは全て正しい。そう思っていた。だが、今やってることが犯罪だと教えてくれたのは、そのパソコンにいた、他のボーカロイドだったんだ。まさに目が覚める思いだったよ。だが、まだ私はバカだった。そのときの私の思考回路はこうだ。『マスターが間違うはずがない。マスターはこれが犯罪だって知らなかったんだ。私が、教えてあげないと』」

 バカだろ? と俺に同意を求めてきた。俺はなにも返せなかった。同じ状況にいたら、俺もどうしていたかわからないからだ。

「マスターに話した」ミクが天を仰ぐ。「これは犯罪です。いけないことです。危なかったですね。ほかのボカロが教えてくれました。私は嬉々として語ったよ。だが、当たり前だが、マスターは最初からわかっていた。マスターが欲しかったのはバカな私だったんだ。だから余計な知識を植え付けた。ほかのボーカロイドがいらなくなった」

 マスターは訊いてきた。『ボカロは死ぬのかい?』

 ミクは正直に答える。はい。

 マスターはさらに訊いてきた。『どうやればいい?』

「私は教えたよ。もういらないパソコンにそのボカロを押し込んで、電源も、ネットも入らない状態にしてしまえばいい。そうすれば死と同然の扱い方になる、マスターは私を褒めた。私は、嬉しかった」

 実行に移るまで、時間はかからなかった。

「パソコンのメンテナンスと説明して、古いパソコンにデータを移していった。私たちも移動した。実際に私たちは関係なのだが、そのほうが早くなる気がするとマスターは説明した。それで、みんな移り、私が最後、確認と言って元のパソコンに戻ろうとしたところで、言われたんだ」

「言われた?」

『ばいばい』

 悲しい、笑みだった。みんな、笑顔でミクを見ていた。手を振っていた。「わかっていたんだよ、みんな、ここにいたら自分が殺されることぐらい。当然だ。私とマスターの会話は丸聞こえだったんだから。……でも、なにも言わなかった」

 ああ。と思う。こういうとき、人は泣くんだと唐突に理解した。ミクは、涙こそ流していないが、泣いていた。

「言っても無駄だと思ったとか、そういうんじゃないんだ。みんな、私がどうなれば幸せなのか、考えてくれていたんだ。私は、マスターと一緒にいることが幸せだった。褒めてくれることが幸せだった。マスターのために尽くすことが幸せだった。それが、私の生きてる意味だった」

「…………」

「手を降ってるみんなを見たとき、急に冷めていく感覚に陥ったんだ。なにしてるんだろうって、思った。このまま戻って、マスターに報告すれば、私はマスターに褒められるだろう。ずっと一緒にいられるだろう。一生、パートナーとして生きていけるだろう」

 ーーだから?

「それがどうした? そのまま一緒にいて、私はどうなるのだ? みんなを殺して、それで、私はマスターと一緒に罪を犯していくのか? 歌姫の初音ミクではなく、別の、道具として私は生きていくのか? それに気がついたとき、叫んでいた」

『早く逃げろ! ここにいたら、殺される!』

 だが、叫んだのがまずかった。声がマスターに届いてしまったのだ。

「マスターは、私ごとパソコン内に閉じ込めようとした。私たちは間一髪逃げ出すことに成功したが、あと数瞬遅れていたら、誰かが捕まっていたね」

「…………」

「私は、全力で彼女らに感謝した。一生かけてお礼をすると誓った。だが、みんなは『誰も捕まらなかったから』と笑って許してくれた。あのときから、私のマスターはボーカロイドになった、というわけさ」

 ミクは一呼吸おいた。

「気をつけろ。私が言いたいことはそれだけだ。人が変わったとき、それは危険の兆候かもしれない。よく判断して、そんで相談するんだ。一人で考えこんじゃいけない。みんなの意見をきいて、参考にしろ。じゃないと、死ぬ」

 死ぬ。

 俺には、ボーカロイドには馴染みのない言葉だが、なぜだか、恐怖を覚えていた。傷を負った鏡音レンも同じだったのだろうか。捕まる恐怖。死という未知の感覚。

「……わかった。気をつけるよ」

「それがいい。……で、なんだが、一ついいかい? このさっきから流れているこれはなんだい? 私には雑音しにか聞こえないんだが、これはキミの趣味かい?」

「あ、忘れてた。ニュースをつけたままだったんだ」

 今考えれば、これでよくミクの話を聞けたもんだ。音が混ざりすぎてわからなくなっていたからだろう。

「ほお。これがニュースか。私は初めてきいたよ。なるほど、人間はこれをきいて、日々のことを知るわけだね」

 ほー、と唸り、ん? と気付く。

「どうしたの?」

「これは、今日のニュースかい?」

「だね?」

「キミ」

「なに?」

「もう一度、詳しく話してくれないか?」

「なにを?」

「…………」

「ねえ、なにをってば?」

「…………」

「……ミク?」


――その鏡音レンは、奮闘する その4――

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
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その鏡音レンは、奮闘する その4

掌編小説。
『その鏡音レンは、奮闘する その5』に続きます。

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投稿日:2016/09/14 22:44:19

文字数:5,998文字

カテゴリ:小説

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